普通の人たちのような生活は、もう出来ないと悟ったのは何年前だろう。
頑張っても、頑張っても、タイムベルトからおっこちたままの自分。
なのに、オンなら、以前と同様、何でもやってやるぐらいの勢い。
一旦、オフに落ちると、なんで、できるわけないじゃないと、激しい後悔。
それが、一日何回も毎日続く。結果、当てにならない、「信用」も風前の灯か。
元気だった頃、若かった頃の「至福の時」は、美味しいものを食べる時。
周囲に、高く評価され、認められた時。何かに打ち込んでやり遂げた時。
今はどうだろう。
歩けなかった自分が、自分に帰って歩ける時。充分寝れた朝の目覚め。
トイレに行ける喜び。打てる嬉しさ。家族に、友人に手を借りる、その手の温もり。ヘルパーさんの優しさに、ありがたいと感じるとき。「がんばってるね」とほめてもらえる時。当たり前のことが、こんなにも嬉しい人生になった。
毎日が感動の繰り返し。蒔いた種が生えてくる喜び。花が咲いた嬉しさ。その花を揺らす風さえ愛おしいと思える時。全ての植物が光を受けて育まれ、雨に憩い、闇の褥に疲れを癒すと思えるようになった。
その花や木を生けこむ時が私の一番の至福の時。その時ばかりは凛として、背筋は自然に伸び、その場、その器に応じて、木に問い、花に訊くひととき。鋏を入れる瞬間の迷いを捨てたいさぎよさも小気味よく、その無機質な内なる空間に自然を取り入れ、季節に応じて彩り形作る楽しさに勝るものはない。
そのひとときと、仏壇の花を自己調達したいということから始まったガーデニング。まかない種も生えてくる。それぞれの性質を知り、生育条件にあった環境と、
程ほどの肥料と水を与える事。これが結構難しい。虫も病気も乗り越えて、きれいに咲いた花を訪れる人に差し上げて喜んでいただける幸せは、これまた最高。違った意味での、我が至福の時。こうして健康だった頃の世間のタイムベルトからドロップアウトして久しいこの「障害者おばさん」なれど、いつかは地域の『花さかばあさん』となりたいとひそかに夢見てもいるのである。
詩にならなかった。