残りわずかな力でも伝えよう。-そして、再起。 

この難病は、私だから授かった『生きる上での宿題』と受け止めたい。生きる「希望」を
胸に。「P病撲滅」が夢。

社会の『落伍者』、その『至福のとき』

2009-09-21 | Weblog

 普通の人たちのような生活は、もう出来ないと悟ったのは何年前だろう。
 頑張っても、頑張っても、タイムベルトからおっこちたままの自分。
 なのに、オンなら、以前と同様、何でもやってやるぐらいの勢い。
 一旦、オフに落ちると、なんで、できるわけないじゃないと、激しい後悔。
 それが、一日何回も毎日続く。結果、当てにならない、「信用」も風前の灯か。

 元気だった頃、若かった頃の「至福の時」は、美味しいものを食べる時。
 周囲に、高く評価され、認められた時。何かに打ち込んでやり遂げた時。

 今はどうだろう。
 歩けなかった自分が、自分に帰って歩ける時。充分寝れた朝の目覚め。
 トイレに行ける喜び。打てる嬉しさ。家族に、友人に手を借りる、その手の温もり。ヘルパーさんの優しさに、ありがたいと感じるとき。「がんばってるね」とほめてもらえる時。当たり前のことが、こんなにも嬉しい人生になった。
毎日が感動の繰り返し。蒔いた種が生えてくる喜び。花が咲いた嬉しさ。その花を揺らす風さえ愛おしいと思える時。全ての植物が光を受けて育まれ、雨に憩い、闇の褥に疲れを癒すと思えるようになった。
 その花や木を生けこむ時が私の一番の至福の時。その時ばかりは凛として、背筋は自然に伸び、その場、その器に応じて、木に問い、花に訊くひととき。鋏を入れる瞬間の迷いを捨てたいさぎよさも小気味よく、その無機質な内なる空間に自然を取り入れ、季節に応じて彩り形作る楽しさに勝るものはない。
 そのひとときと、仏壇の花を自己調達したいということから始まったガーデニング。まかない種も生えてくる。それぞれの性質を知り、生育条件にあった環境と、
程ほどの肥料と水を与える事。これが結構難しい。虫も病気も乗り越えて、きれいに咲いた花を訪れる人に差し上げて喜んでいただける幸せは、これまた最高。違った意味での、我が至福の時。こうして健康だった頃の世間のタイムベルトからドロップアウトして久しいこの「障害者おばさん」なれど、いつかは地域の『花さかばあさん』となりたいとひそかに夢見てもいるのである。

詩にならなかった。

娘からの最高の贈り物  -自分への励ましとしてー

2009-09-16 | Weblog
 実は先日、一世一代の舞台で私は失敗し、生き恥をさらして生きている。ご迷惑をかけてしまったと後悔にもさいなまれても居る。そこでその思いを振り切るためにも、自分を励ますためにも、このお話を記すことをお許しいただきたい。

 この夏、下の娘が結婚した。
 一年前からの婚約期間を経て。二人の固い決意での、当人たちによる結婚で親もどんな内容か内緒にされ、はらはらしながらも、大いに涙し、気遣いしつつも、楽しく新しいご縁の喜びに満ちたひととき。貴重な時間をこの子達のために駆けつけてくださった皆さんが感動と喜びに満ちたお顔でお帰りになられたことも二重の喜びであった。身に余るお言葉の数々、趣向を凝らした自分たちらしいプログラム。二人の周りのこれまでのご縁一つ一つを感謝せずには居られないありがたい感動の一日だった。親が言うのははばかられるが、21歳の花嫁は、我が娘とは思えないほど、まぶしいくらい美しく、喜びに満ち、輝いていた。その娘からの言葉が今の私を支えてくれている。
「お父さん、お母さん、お世話になりました。これまで沢山心配をかけてきたことと思います。今日はこれまでの感謝の気持ちを言葉にして伝えたいと思います。私がうまれてからいろいろなことがありましたね。そして今日、大勢の皆様に祝福されて、こんなに幸せなひと時を過ごせた事に感激しています。
 お父さん、お父さんは、〈中略)そんなお父さんが私の1番の自慢です。
お母さん、お母さんは私が物心ついたときからいつも頑張りやさんでしたね。朝から夜遅くまで家事・育児・仕事と、時には仕事で家にほとんどいられないお父さん的要素ももっていて、毎日3人の年の近い子供を背に働いていたのを覚えています。「3人はお母さんの宝物だからね」とどんなに疲れていても1日1回はそう言って抱きしめてくれてましたね。
 17年前、(ご存知の方もいらっしゃると思いますが)母は病に罹りました。パーキンソン病という身体が硬直して自分の思うようには動けない病気です。その日ははっきりと覚えていて、保育園からの帰りの車の中でお父さんが私とお姉ちゃんに「今日、お母さん、お医者さんに『治らない病気にかかってます」って言われてショックを受けてるから、元気付けてあげてね」と言われました。帰るとお母さんは思っていた以上に明るく振舞っていました。でもその日を境に、動けず悔し泣きするお母さんを何度も何度も見てきました。薬の効いているときだけ別人のように動けるのに、飲むのが遅れると全く動けない。一日飲まないと命も危険になる。そんな浮き沈みの激しい病気で、人様にも理解してもらいにくく、私が思う以上にもどかしい気持ちもあったと思います。そんな病気と闘いながらも、お母さんは、立派に母として、時には人生の先輩として守ってくれたり、相談相手となってくれ、そだててきてくれました。私の目標はお母さんです。お母さんのようにどんな時でも○○さんを精一杯愛し、支えていきます。
 お父さん、お母さん、私は二人の子として生まれて来れて本当に幸せです。21年間育ててくれてありがとう。身体を大切にしていつまでも元気で居てください。そしてこれからも宜しくお願いします。

 私は、病気の件のところで堰を切ったようにこらえきれず嗚咽してしまった。
知らなかった、小さな子供たちがこんなにも胸を痛めて、病む私を見ていたなんて。こんなにも思いやりのある子。自慢の娘です。思いが言葉にならず、涙となって滂沱と流れ落ち、思わず花束を抱えてそばに来た娘を思い切り抱きしめる。
ありがとう、この愚か者の母には過ぎた言葉の数々。過ぎし日の幼きあどけない笑顔と屈託のない笑い声が、いつしか深い思いを秘めた澄んだまなざしと静かな物腰に変わっていった思春期から成人へ、そのアルバムの写真が空を舞うロールスクリーンのように、頭の中を駆け巡った瞬間だった。
 あのさわやかな抜けるような青い、どこまでも青い夏空のもと、
あの瀬戸内の海をはるかに見通すノートルダムの丘で、我が家の真ん中の雛が、
いつの間にか蓄えた大きな翼で飛び立った。ここにこんなにも大きな『感謝の言葉』と言う贈り物を残して。
 ありがとう、あなたにつながる全ての方に「おかげさまです」と、お礼申し上げ、ふつつかなつがいですがよろしくおねがいしますと、深々と幾重にも腰を折る思いの動けない親鳥です。

神経内科医の先生方へ

2009-09-05 | Weblog
神経内科医の先生へお願いしたいこと。

000① 個々の対応を丁寧にすれば時間がかかります。いっそ待ち時間に、それまでの変化や聞きたいことを、患者に書かせてはどうでしょうか。主治医の先生がめをとおしやすいように、書式を統一した方がよかろうと、製薬会社からだしてくださったグラフもありますので、患者の方からそれを使う努力をしてみてはいかがでしょう。選択方式もあると、記入がはかどると思います。
② この患者は人目にも明らかで、社会的なリスクを負いやすいのです。その象徴が失業ですが、福祉制度も知らない医師は、患者の生活を思いやる余裕のない医師です。経済的不安がどれほど患者を精神的にも追い詰めるか。患者の生きる手立てとも理解し、患者にまつわる法律や事業ぐらいは知っておいてください。

③回りに聞かれたくないこともあります。待ち席など、気配りしていただきたい。

④専門馬鹿と言う言葉がありますが、あらゆる分野へと波及する難病です。あらゆる科の勉強が必要で奥の深い分野かと思います。研究心を持っていてください。特に副作用の報告は患者しかできません。尊重してください。例えば、ビーシーフロールの多量摂取は脊椎の変形を招くのではないかと言った患者がいました。その人自身がそうなったからですが、主治医はそんな話は聞いたことがないと一蹴したそうです。

⑤ 患者が求めるからと安易に薬を増やす医師も考えものですが、薬の量が明らかに少なすぎて毎日辛い症状のままの患者さんも見てきました。血中濃度から言って体格差も薬の量に関係するのではないでしょうか。

⑥ 神経内科医が手術を勧めるということは、自分の治療の限界と放棄を意味しており、安易に脳外科医に丸投げしてほしくないのです。手術を勧めるなら、電圧調整ぐらいできる技術は身につけておいてほしいものです。

⑦また手術を拒否したからといって、露骨に冷遇し始める医師のことも耳にしたことがあります。
⑧ 死後、装置を除去する場合、大体いくらぐらいかかるのでしょう。地方によって違うでしょうが。火葬の前にとっておかないと、爆発するって本当ですか。
⑨患者が自信を持てるような一言が気分を楽にさせます。明るい気分で帰れる受診は、療養生活を前向きにします。患者を子供だと思って、時には、ほめてやってください。
⑩ 患者の意思や、気づきを大事にしてください。その中に大きなヒントが隠れていることもあると思います。
kkb
⑪ 患者の有志も、ボランティアで巷に出て患者を発掘してます。大学病院の先生も世の中の風にあたって、ボランティアで何か積極的にとりくんではいかがでしょうか。
⑫オンとオフの時で、症状が全く異なる患者が少なくありません。実態に即したものにするためにも記入用紙の工夫を提言してください。

ここでお断りしておかねばならない。要望ばかり並べると不遇なようだが、大多数の患者は老いて尚元気でいようと努力され、善良なる医師や関係機関の方々、製薬会社の応援で、張りのある療養生活を続けている患者さんもずいぶん増えてきた。
また誤解のないようにお断りしておくが、以上の10項目までを、今の主治医は充分満たして余りあるので、自分の主治医にいいたいことではない。
 かつての主治医に言いたかったことや、比較的最近、友人から聞いた医師の話を思い出しながら、書き留めたものを列記させていただいた。

原因究明は、この病の主体者である患者たちの責任として果たさなければならないことだとの認識に至った。
 発症のメカニズムは医学者からの研究で解明されてきている。生活歴の振り返りの集積こそ、原因物質特定のための有効な手段と想像できる。患者会が期待される分野である。
 また患者の実態をいかに正確に主治医にお伝えできるかで、薬も決定されるだけに、そのことへの努力は、個々の患者が惜しんではならないと改めて思う次第である。
 かつ、初発症状の患者の早期発見早期治療が薬に依存しない患者を多くできる一途ともなると期待し、まずヤール1.2の方々の実態解明からと、希望したい。 
『パーキンソン手帳』を思いついた。自分の病歴・薬歴をふくめ、患者としての青写真と日常の記録・メモを記しておくことは有効だろう。このアイディアは、岡山と広島の支部長に託した。


P病患者の皆さんへ

2009-09-05 | Weblog
神経内科医の先生方へ
以下は、患者としての経験からの発言ですが、間違いがありましたらご指摘ください。

1、 もし、ジスキネジアで困ってDBSをお考えでしたら、ジスキネジアはドーパミンの効き過ぎです。薬を減らしましょう。またはジスキネジアを押さえ込むには、シンメトレルが効果的とか。
2、 夜のトイレや起床時のトイレでお困りでしたら、入眠剤と泌尿器系のお薬で樂になれます。3、 薬を飲んでも効かない、限界ぎりぎりまで飲んでいると言われた方、また飲みすぎだと言う自覚のある方へ。私がそうでした。でもアゴニスト系の薬を二つ重ねて飲むと、てきめん効き、手術のお話は延期になったまま、6~7年たちます。その前に6種の薬とゾミサミド(エクセグラン)を飲んでおり、それも効かなくなっていたから、無理もありません。今久しぶりのゾミサニドでまた薬の効きが戻り、また新薬のおかげもあって、Lドーパはあの頃よりも、また半年前からもかなり減っています。薬が効かない原因は、睡眠不足と便秘が考えられます。自然なお通じは大事です。歩くことが多いと良いのですが、薬を使ってでも余り溜め込まない方がよろしいようです。
4、寝ることは若年性患者にとって特に大切です。身体と心のために、先ず寝ましょう。
寝ないのはあなたの黒質を自分で傷つけている行為に他ならないのだと自覚しましょう。
この患者は「がんばらない生きかた」をする努力がいるのかもしれません。

 5、今私たちが待ち望んでいるのが、ロチゴチンという貼り薬。
薬の選択は、患者と医者によって決定されます。選ぶのは主にそれを使った結果を知る患者でしょう。国は基本的に受け入れる姿勢で、そして「タミフル」のように問題のあるものや高価すぎるものを販売停止にしていけばいのでは。
治験は廃止すべきと言うのが私の兼ねてからの主張。治験は国際規模の問題です。発売までに各民族の治験を行い、国際許可規準をWHOが設定監視することで用は足りるはず。
保険診療の対象として許可するかどうかは、それこそ、費用対効果でしょ。753億円も治験にかけるとは、なぜ?何も用がない薬剤師が世にあぶれてるから?大学のあり方や統計局の生かし方など、根本的に考えないといけない。そんなお金があるなら、和漢併合じゃないけど、西洋医学と漢方医学、民間療法なども取り入れ、日本独自の『新薬開発機構』みたいな製薬会社の枠を超えた研究機関をぶち上げた方が、よほど後々の実入りがよいと思いますがいかがでしょう。その意味で、「丸山ワクチン」などは、治癒率から言ったら文句なしに保険対象でしょう。高いゾミサニドは長い治験の結果ですが、拒絶しましょう。「エクセグラン」(商品名)という安い方にしてもらわないと、またP病が、特定疾患の外しの対象にされかねません。何せ5万人枠は、厚労省では生きているんですから。
6、「特定疾患治療研究事業」をP病患者が食いつぶしていると、比率が高いのも、大部分「DBS」によるものですが、これが患者にとって数年~10年の対処療法にしかすぎないのに、一生電極装置付帯患者として生きていくことになると、あなたは、知っていましたか?
手術するのは、P病の専門医ではなく、脳外科医だということ。その事後調節は診療点数にならないし、手術後薬を全く飲まないでよくなったと言う患者はほとんどおられず、次第に薬も増えていき、薬と電圧調整でどちらが先かと聞いたら、先ず薬だと仰せになられる神経内科。脳外科は遠いところ。患者はその調整の難しさにもだえ苦しんでいるんです。
患者にとって最後の賭けとも、健康に近い数年を手に入れるためとも認めてきましたが、
必ずしも患者に好結果をもたらしていないという現実もあるし、手術を受けたことが療養生活の励みとも、自信ともなるような施策を講じていただかないことには、患者として医学の進歩のためにもと貢献してきたDBS患者はうかばれません。例えばDBSの技術はこれからの再生細胞の移植に際しても、かなり役立つはずです。
7、金属を体内に埋め込むということは、CTやMRIにかけられないということを意味する。
ということは、装置付帯者はips細胞の移植から遠のくことになる。7年後からのP病への実施とは、アレだけ期待され、待たれながらなぜこんなにも遅いのだろう。100億の臨床研究予算に加え、本日の新聞によると、今年度補正で創設された先端研究助成基金で研究者30人に一人当たり3~5年で30~150億と言う巨額研究費を投入。総額2700億円が、565人の応募に対し、たった30名に選定。駆け込み選定にこれでいいのかといいたくなりますが、その中にもちろん山中教授の名があることはいうまでもないことです。国がこれだけ支援し、患者も協力的なのになぜPDが7年も先に置かれるのか、それはCTやMRIに変わる装置の開発に要する期間なのかなと、ついいぶかりたくなるのは私だけでしょうか。
8、年間500人もの患者が国内でDBSを受けているという。10年で5000名か。その装置も高ければ、手術代に調整の保障つきといえ、安くはない。その後の調査を友の会ですると言いながら、たかだか患者数20万人に対して7000人の会。実施された様子は今のところない。関係機関の協力のもとに、実施するとなると、患者の本音がどこまで出せるか。医療機関にとって経営上DBSは魅力ある治療法だから、抵抗も予想される。
9、パーキンソン病関連の新刊を数年ぶりに手にした。驚いたのは、現状への疑問も、克服意欲もない妥協した医師たちの執筆ぶり。神経内科医のプライドありやなしや。
10、生きているうちに装置を除去するとなると、肉芽が張り付いているので、それをそぎとるのに、百万はかかるとか。それに対する助成は何もない。針金が出てきて、そこからバイキンなど入ったら大変だ。MRIにはかかれない。装置をつけていることを告げないと命に関わる。電磁波の影響も受け続ける。調整を医師に委ねるしかないDBS患者はめったな批判はできない。それが私ならできる。HOPEの会に「希望」は見出せなかった。
「手術はどこで受けても同じです」と言う名医の言葉に、憤慨を禁じえなかったあの日。
患者の視点というより、医師の視点からの開催であった。

11、手術は人のすること、失敗もある。例えば、脳内出血がある。効果が極端に薄い。痛みがいつまでも続く、脳内感染の疑い、言語障害・よだれなど新たな障害の出現などが、その範疇であろう。誓約書に法的根拠はない。むしろ「おどし」だ。
訴訟を起こせば、ことは明るみになる。TVを見て安易に手術台に上がる人が減ることと、
何より泣き寝入りしている方の救済のため、『被害者の会』が結成されることを願っている。
ただお金がかかるし、闘うことは苦手なのがこの患者たち。誰か助けてくれないかな。
私が力になりたいと心から思った病友は、この手術を受けた結果から絶望を強いられ、精神の変調をきたして、孤独に陥った女性が最初であった。
友の会をあてにしても、彼らの中であえてこの手術を受けた患者が少ないのも実情なのだ。

万歳、万歳、万歳、 馳先生!

2009-09-01 | Weblog
 失礼な事をいたしました。
 
 馳座長(P病WG.金沢)は当選しておられたのです。
 現代の政界における『七人の侍』、暴風の前に今回、出る幕なしかと思いきや、
 なんと、我らが馳浩代議士が比例第1位ということで、当選していてくださった。ごめんなさい。小選挙区しか見てなくて。
  
 馳先生は、選挙期間中も、難病のことを前面に出し、「この方々をなんとしても助けなきゃいかんのだ」「健康なものが病むものを助ける、これはあたりまえのことだ」と、FOPの北岡さんにも街頭で演説してもらい、舛添大臣と感動的な街頭演説をしておられたようです。私個人は橋本先生の結果に、責任を感じ、選挙の怖さを思い知ったというのが率直な感想です。
 
 私の橋本先生の実績を語るべきは、出陣式と言うような身内の晴れがましい席ではなく、地道な患者会活動の中で、一般社会の方々に、「実はこうして頑張っているのも、橋本岳先生のような大政党の姿勢を変えさせる気迫を持って、難病撲滅の力になってくださった先生がいてくださるからなんです」と、伝えていくべきだったかもしれない。平生から、馳先生のように地元の患者さんと交流したり、声に耳を傾ける努力をすべきであったとも思ったり。でもこの経験を生かすべく、私は新たな第一歩を踏み出そうとしています。橋本岳先生の足跡は消えないし、私達が語り継いでいきますから、馳先生の歩みが橋本先生のそれでもあります。

 橋本先生他、男らしい先生がたの悲劇は、幹事長のアホさ加減とそれを変えられなかった党首の器量と、自民党の閉鎖性もありか、また選挙制度のおかしさというか、右と言えば、皆右という怖さもこの国民性として感じるのは、私だけかな。

 いつかの私のように、人間不信にだけはなっていただきたくない。
 あれほど不幸なとらえどころのない落ち込みは、もう味わいたくもない。

 いずれにしても、難病問題の核ともなってつないでくださる大きな星が残ってくださった。無条件に、うれしい。馳先生をお支えしつつ、橋本先生たちの再登壇を待とう。いずれにしても、超党派で取り掛かるべき問題。馳先生は立案はお手の物。人脈も広い。あとは地元患者会がどう実態を訴えていくかだ。10月にお目にかかれるのが楽しみになってきた。この国から「いじめ」をなくすと言っている国会議員は、多分、馳先生お一人だろう。馳先生なら、「いじめ根絶策」を講じれると、私も確信するファンの一人である。では、フレー、フレー、馳先生!