残りわずかな力でも伝えよう。-そして、再起。 

この難病は、私だから授かった『生きる上での宿題』と受け止めたい。生きる「希望」を
胸に。「P病撲滅」が夢。

もういくつ寝ると・・・50歳、ううん、とう年とって40のつもりで。

2007-12-31 | Weblog
 昔むかし、といってもほんの半世紀前のこの頃、
ある山深い村の、それはそれは貧しい農家のとある一軒屋で
餅つきをしておったそうな。忙しいのに、動かぬ男衆にいらだって
つい、すす払いやら拭き掃除を始めたそこの嫁っこが、急に産気づいたから
さあ、大変。あわてただんなは、ハイヤーを呼んだそうな。
 雪深い山里、やっとハイヤーがついて乗り込む頃には、もうかなり痛みも強く
2歳になる長男も不安そうに母さんをみとったそうな。
 むかうは、ダムの下の隣の町立病院、長男もそこで産み落とした、といっても
そのときは帝王切開だったという。
 ダムに行く前に、嫁っこの親代わりにようしてくれる県議さんとこへ、産気づいたと言って寄り、いよいよダムに、すると当時トンネルも少ないガタガタ道。おまけに雪崩れでついに行き止まり。するとハイヤーの中で「ホギャー、ほぎゃー」と
産声が。取り上げたのは、その子のおとっつあん。さあ、こうなると大変だ。
下手にエンストでもすると、赤子が危ない。ハイヤーさんの腕の見せどころとばかりに、バックバック、ひたすらバック、向きを変えられる幅もない当時だった。
 そして嫁っこの親代わりの宮本翁の家で、産湯につかり、めでたしめでたし。
それにしてもお気の毒なのはハイヤーさん。それがこのかたがまた良いお方で、車で命を落とす事はあっても、命が生まれることはめったにないことでめでたい。
 ついては子の名づけをさせてくれろという。親二人たいそう恐縮して、喜んでおまかせすることに。ついた名前が、トヨペットカーのなかで生まれたから、「とよか」。実に単純。しかも、このいい加減な夫婦は、ついでに女の子だし、売れ残りそうと見たのか、生まれた日もごまかして1月2日で届け出た。

 それから10年。兄貴のにくらべ、自分の写真のあまりの無さと、名前のつけかたのいいかげんさに加え、実のたんじょう日が「餅つきの日」としかわからない両親に橋の下で拾われた子だと言われ、その方がよっぽど悲劇の主人公になれてよかったのにと思う「とよか」であった。DNAは怖い。いくら他人かもと思おうとしても、世間の人が、どこに投げとってもここの子とわかるとのたまうのだから。
しかも親のいいところは似ずに、変なところばかり似るもので、いい加減さは人一倍。自分でいうのもおこがましいが、人のいいのも親譲り。三日坊主はお墨付きの天下一品。
 
 奇特な方もあるもので、何を血迷われたのか、だましだまされか、ご縁があって嫁にもらってやるという。売れ残りのクリスマスケーキとなった身には、願っても無いお話。いざゆかん、あれ、写真がない。めったにとられることもなかったし、写真は嫌いだった。披露宴をもりあげようと、義父は一計を案じ、トヨタ自動車に誕生の由来を伝えると、なんとあの世界のトヨタから、・・・・
車が一台、じゃじゃーん、残念、大きなミニカーでした。
 
 引越しの時処分しちゃったんだなあ、これが。もったいない、というより、あのミニカーに今は亡き義父の精一杯の愛がつまっていた気がする。それがやっとわかった今、義父はもういない。
 
 
 ああ、そうだ。私、昔から「蛍光灯」。P病は更にそれに輪をかけることに貢献している。かくして逃げたい癖も乗じて、年賀状兼お礼状は新年に持ち越しそうである。おまけに風邪と大雪で実家へ帰るのは断念した。粛々と反省しながらかかせていただこう。もう50になるのだから。そして一段落したら、色々なお話をしに寄ってもらいたい。ごぶさたしている教え子の事も気にかかる。
 さあ、今年はもういくばくもない。動けずともあきらめないで、ガンバ! 

田舎の兄とP病の私

2007-12-29 | Weblog
お正月、何もかもできてないのに子供達に引きずられて田舎の実家に帰ることになった。
そこには年老いた母と兄夫婦とかわいい姪が待っていてくれる。
P病になってここ数年は寒いので帰る事も諦めていた。
そこで思い出す、兄との思い出。

 私が中学生の頃だったか、兄がコブラツイストをかけては「痛い!痛い!やめて!」と言うのに、面白がって技をとかない時、家族はみんな笑っていましたが、私は内心、いっぺん泣かしてやりたいと思うぐらい憎らしく思った記憶があります。
私と兄は二つ違いの2人兄妹で、兄は甘やかされてわがままでした。
私は弟役よろしく、空手やヌンチャクの相手にもされたものです。
おかげで瓦の数枚は今でも割る自信があります。割れるかどうかは別として。
「あちょー!」とブルース・リーになりきり振り回すヌンチャクの痛いこと。
「弟だったら絶対勝ってやる」のにと悔しい思いをしてきました。
兄妹・姉妹・兄弟とは、強い血の繋がりと体験を共有するがゆえに憎しみも強く抱きかねないの濃い感情ができる関係だと思います。
これが年の差があったり、上の子の存在が尊重されて下の子が上の子を敬えば平和に仲良く末永く良い関係が築かれるのです。
たいていの場合、親がそれを自然に仕組んで行くものでしょうが、私の反骨精神はこの兄妹関係に根ざしているのかもしれません。
今は兄をある意味尊敬もし、懐かしくも思いますが、兄妹で良かったなと初めて思ったのは、私が18の時でした。

 受験にことごとく失敗して、自殺を考えていた私に、兄は絶対に入れてくれなかった自分の部屋に呼んでコーヒーを入れてくれ、何も言わずに私の思いを全て聞いて、「お兄ちゃんが守ってやるから死ぬなよ」と言ってくれたのです。
そして最後の発表は兄と二人で見に行き、初めて自分の番号が有ったのを兄は自分のことのように喜んで「死なんで良かったな」と笑い飛ばしてくれたのでした。
その時、初めて兄貴が姉貴でなくても良かったと、単純な私は初めてそう思ったのです。
P病になって16年目。義姉はお料理上手でやさしく、
多くを語らない兄が黙って、お米や野菜を母に託してくれます。
病気の私に兄は優しく、
「あいつは無理をするのが好きだから、なるべくしてなったんだ」と言っているそうです。兄は年を取って結婚した分、子供もまだこれから中学生に。
私より長生きしてくれなくては。でも自分だって限界まで働く体質、気をつけてよ、お兄ちゃん。
 私の母、75歳。脳梗塞、数回。心筋梗塞1回。それでも忙しく働いています。
私より長生きする気です。みんな自分が先にお浄土に還る身だとは、露ほども
思っていないのです。皆生き残る気です。おめでたい一家なのです。
 私もこれからが本当の自分らしい人生にするべく、新しい年を迎えたら、お一人お一人にお礼の気持ちをお伝えしていきたいと、思いばかりが膨らんでます。
 一番おめでたいのは、難病を抱えても、なお夢が多い私でしょうね。

 さて、来る年も、どうぞお見捨てなきよう、よろしくお願いいたします。
 今から、やっと年賀状に取り掛かるので、そちらで書くべきですね、ハイ。

 たとえ、困難な病だとしても、諦めず闘っておられる師のように、周りへの感謝に満ちた日々を送りたい。
 鮮やかな、そして、あくまでも前向きで、思いやりに満ちた生きる姿勢に教えられる思いです。 『夢をあきらめないで』ー私の一番好きな曲。
 完治が目標です。
 P病が医療の食い物にされている現状があるから、私は完治するまで、闘って生き抜きたい。難病は難病と諦めてはならない。
  自分の未来は自身でも切り開くつもりです。
                      実は結構強いはずの 綾もみじ

幸せの種

2007-12-03 | Weblog
  しあわせの種

 「人生50年」とは昔々 これから 人生の秋 
 生きているうちに いつの間にか 50年
 華と咲かせ 生きぬきたい
 夕日に照らされし 紅葉咲くこの庭の 
 最期のあでやかさにも 似て 

 P病を得て 15年過ぎなんとする 今
 普通の人のタイムベルトから ずり落ちて久しい
 その名も 「落伍者」 一人では生きられぬ身
  
 気がつけば 残された力 すべて燃やした4年間
 このぼろぼろの身体を抱え なおも生きる
 あきらめない 完治したいからこそ
 
 多くの 尊い方とめぐり合い
 如何に生きるかを 教えられた  
 既に 火事でいらぬものは 皆失った
 家族があるから 生きられる

 残されし 我が使命 
 いずこにありや

 ともに探しに行こう 深き泉のそばにあるという 
 かのしあわせの木  その種を
 
 
         人の幸せって、なんだろう。
         難病なのに あなたは明るい よく言われる
         
         なぜ 人は生まれ そして死に行くのか
         絶望を希望に 受身から積極的に
         そこにある 自分だけの 『幸せの種』

         今の時代に この国に生まれた必然を
         生かす 生きる いや 生き抜く
         その意味を 問い続けたい 
         
         生かされて 今ある この身だからこそ
         そう信じるものとして