広島市の平和記念式典(原爆死没者慰霊式・平和祈念式)が、平和記念公園-ヒロシマ・ピース・メモリアル・パーク(Hiroshima Peace Memorial Park)で、各国の大使や総領事を含め、59か国から約5万人の参列者が見守る中、しめやかに行われました。
オバマ米大統領の「プラハ演説」以来、核兵器廃絶の世界が現実味を帯びてきた中、秋葉広島市長も「平和宣言」の中でそれを支持、「オバマ・ジョリティ」と呼んだ核廃絶を願う多数派市民の力を結集し、2020年までの核廃絶に向けて「Yes, we can!」と締めくくられました。
その後の「子ども代表」(小6男女二人)の力強いまっすぐなスピーチには、毎年感銘を受けます。
また、「ヒロシマこそ、核廃絶に向けて、核保有国が集まって会議を開催する最適の場所だ。」との国連総会のデスコト議長(ニカラグア・カトリック司祭)の言葉にも、広島への期待感が表れていました。
ロシアのオレグ駐日総領事も「ロシアと米国が率先して努力しない限り、核兵器のない世界は実現しないと改めて感じた。」と言ったそうです。
それにしても、今年は麻生首相でしたが、この4年間、毎年違う首相が挨拶を…、と改めて思いました。このような国のリーダーがコロコロ交代する国は、世界広しといえども日本だけでしょう。
64年前、広島に投下された一発の原子爆弾…。この一年間に亡くなったり死亡が確認されたりした人5635人を含めて、実に26万3945人の犠牲者の名簿が慰霊碑に奉納されています。(バギオ市の人口に相当する数です。)
1994年にノーベル文学賞を受賞された大江健三郎さんは、『ヒロシマ・ノート』をはじめ、広島、戦争にまつわる多くの小説やエッセイを書いています。
長男の光さんが障害を持って生まれた1963年、原爆被災地広島を訪れ、「人間はいかにして絶望から再生へと向かい、いかにして救済されるのか。」という、大江文学の方向性、人生そのものへの見方が変わった、と言われています。
「広島に滞在し、脳に異常がある息子の手術をしていただくか否かを判断することに迫られていた上に、原爆禁止の政治的混乱に疲れきっており、その時、まだ子供は病院のガラス箱の中で生きていたにもかかわらず、灯篭流しの灯篭に息子の名前を書いた。その上、やっと思い出したのだが、自分の名前ももう一つの灯篭に書いていた。息子と自分とが、生命の側にいるというよりは、死んだ人間の側にいる。すなわち、心的感覚麻痺(サイキック・ナミンク)に陥っていた。」と説明されています。
http://www.youtube.com/watch?v=WSOs_Q5nWUQ
(吉田拓郎「いつも見ていたヒロシマ」)
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND77082/index.html
(「いつも見ていたヒロシマ」岡本おさみ作詞/吉田拓郎作曲・唄)
…これは、広島出身の拓郎さんにしか歌えない曲ですね。
http://www.youtube.com/watch?v=Wse3ydP7tWs&feature=related
(64年前のヒロシマ・ナガサキ-目を覆わんばかりの写真あり。)
…長崎出身のさだまさしさんは、87年からずっと毎年8月6日に長崎市で平和祈念コンサートを続けてきました。一昨年8月9日、広島で初めて平和祈念コンサートを開きました。
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND63354/index.html http://www.youtube.com/watch?v=SZt1rzLGepM ※昨夜からの停電により、記事のアップが一日遅れました。おっと、また停電だ!(7日午後6時バギオにて)
(「広島の空」さだまさし作詞・作曲)
(「ゲンシバクダンの歌」小室等と六文銭 in 1970@中津川フォークジャンボリー)