●聖書通読
わたしは「神の慰め」と題して、SDA千葉キリスト教会の3月7日(土)安息日礼拝において、礼拝説教を担当することになりました。
説教に関連して、私自身の信仰について感じるところをかいつまんで述べてみたいと思います。
わたしがこの教会と交わるきっかけは、直接的には、信徒の人が同業者の会社に社員としてお勤めになっていて、教会生活について聞いていたことによります。
その後、教会の必要に応じてその信徒の方から寄付の要請があり、当時その要請に応えていたことなどがあげられますが、その方は、お客様を弊社に紹介していただいたりして仕事でもずいぶんとご協力していただきました。
そんな関係で、教会の信徒の方には数名のお客様もいらっしゃいます。
そのようなことから、別の信徒の方を通じて、その教会の所属する教団のもつ出版社からの書籍類も講読したりしていました。
あるとき、いただいた聖書が字が小さく小型のものだったので、革表紙の聖書が欲しくなり、信徒の方を通して革表紙の「口語訳聖書」を手に入れました。
それは90年代初頭のことだと記憶しております。
そして、たまに拾い読みしている程度でしたが、会社の業績の不振や経営の悪化に伴う苦しみに対し、救いを求めるように聖書をはじめから通読というかたちで読破してみたいと思いました。
そして、95年6月1日より創世記の1章から読み始めたのです。
創世記に関しては、昔「天地創造」という映画を観たことがあり、あの映画の場面を思い起こすことが出来て「ああ、なるほどそういうことだったのか」などと理解をすることができました。
思い出した場面は、アダムとイブが禁断の実を食べて堕落し、神を避ける様になった場面。
カインが弟アベルを殺してしまった場面。
ノアの箱舟の建造と洪水の場面。
アブラハムが息子イサクを犠牲にささげようとした場面。
ロトが住んでいたソドムの滅ぼされる場面と、ロトの妻がソドムから逃げる際に後ろを振り向いて塩の柱になってしまう場面。
などでした。
続く「出エジプト記」はこれも映画で「十戒」という、モーセの物語を観ていたのでおなじように「ああ、なるほどそういうことだったのか」ということが多々ありました。
しかし、拾い読みの時代は、旧約は創世記と出エジプト記、新約はルカによる福音書、程度までしか読んではいませんでした。
通読を始めると、一番困ったのは礼拝による犠牲制度でした。
羊や牛を犠牲として祭壇にささげていく記述には、キリスト教はこのような儀式をする宗教だったのか、と真面目に考え込んでしまったのです。
元来が無宗教でとくに儀式的なことが嫌いだったので、連綿と続く犠牲制度に関する記述は、ほとほと困ったものです。
そして、何度も何度も繰り返すヘブル人(ユダヤ人)の神への背信と悔い改めの歴史には、なんという不信心な民族だろう、神はなぜこのような民族をお選びになったのだろうかと思ったものです。
旧約を読み進んでいくに従い、聖書の物語としての面白さに加えて、ダビデやソロモン、シバの女王やネブカデネツァルなど歴史に登場してくる人物が出てくると、聖書の真偽性に考えが及んでいきました。
聖書には「創世記」をはじめとし、信じがたい奇跡的な記述がたくさんありますので、どこまでが真実で、どこまでが創作なのだろうかと思い始めたのです。
◆今日の祈り
全能なる御父天の神様、あなたの豊かな恵みと祝福に心から感謝申しあげます。
主の御前にあって愚かで弱く罪深い、わたしをどうかお許しください。
主の御恵みは、この愚かなしもべにあふれるほどに注がれています。
しもべはいま礼拝説教に臨み、自分自身の信仰を省みています。
願わくは主よ、しもべを助けてください。
礼拝において、自分自身を誇ることのない様に、また高慢になることのない様に、へりくだって主の栄光を証しすることが出来ますように助け導いてください。
そして、会衆のお一人お一人に霊の働きによって、あなたの御心と真理とを悟らせてください。
あなたの恵みと祝福が、全会衆の上に注がれますように。
この祈りと願いとを尊き御子、主イエス・キリストを通して感謝してお祈り申しあげます。
アーメン
わたしは「神の慰め」と題して、SDA千葉キリスト教会の3月7日(土)安息日礼拝において、礼拝説教を担当することになりました。
説教に関連して、私自身の信仰について感じるところをかいつまんで述べてみたいと思います。
わたしがこの教会と交わるきっかけは、直接的には、信徒の人が同業者の会社に社員としてお勤めになっていて、教会生活について聞いていたことによります。
その後、教会の必要に応じてその信徒の方から寄付の要請があり、当時その要請に応えていたことなどがあげられますが、その方は、お客様を弊社に紹介していただいたりして仕事でもずいぶんとご協力していただきました。
そんな関係で、教会の信徒の方には数名のお客様もいらっしゃいます。
そのようなことから、別の信徒の方を通じて、その教会の所属する教団のもつ出版社からの書籍類も講読したりしていました。
あるとき、いただいた聖書が字が小さく小型のものだったので、革表紙の聖書が欲しくなり、信徒の方を通して革表紙の「口語訳聖書」を手に入れました。
それは90年代初頭のことだと記憶しております。
そして、たまに拾い読みしている程度でしたが、会社の業績の不振や経営の悪化に伴う苦しみに対し、救いを求めるように聖書をはじめから通読というかたちで読破してみたいと思いました。
そして、95年6月1日より創世記の1章から読み始めたのです。
創世記に関しては、昔「天地創造」という映画を観たことがあり、あの映画の場面を思い起こすことが出来て「ああ、なるほどそういうことだったのか」などと理解をすることができました。
思い出した場面は、アダムとイブが禁断の実を食べて堕落し、神を避ける様になった場面。
カインが弟アベルを殺してしまった場面。
ノアの箱舟の建造と洪水の場面。
アブラハムが息子イサクを犠牲にささげようとした場面。
ロトが住んでいたソドムの滅ぼされる場面と、ロトの妻がソドムから逃げる際に後ろを振り向いて塩の柱になってしまう場面。
などでした。
続く「出エジプト記」はこれも映画で「十戒」という、モーセの物語を観ていたのでおなじように「ああ、なるほどそういうことだったのか」ということが多々ありました。
しかし、拾い読みの時代は、旧約は創世記と出エジプト記、新約はルカによる福音書、程度までしか読んではいませんでした。
通読を始めると、一番困ったのは礼拝による犠牲制度でした。
羊や牛を犠牲として祭壇にささげていく記述には、キリスト教はこのような儀式をする宗教だったのか、と真面目に考え込んでしまったのです。
元来が無宗教でとくに儀式的なことが嫌いだったので、連綿と続く犠牲制度に関する記述は、ほとほと困ったものです。
そして、何度も何度も繰り返すヘブル人(ユダヤ人)の神への背信と悔い改めの歴史には、なんという不信心な民族だろう、神はなぜこのような民族をお選びになったのだろうかと思ったものです。
旧約を読み進んでいくに従い、聖書の物語としての面白さに加えて、ダビデやソロモン、シバの女王やネブカデネツァルなど歴史に登場してくる人物が出てくると、聖書の真偽性に考えが及んでいきました。
聖書には「創世記」をはじめとし、信じがたい奇跡的な記述がたくさんありますので、どこまでが真実で、どこまでが創作なのだろうかと思い始めたのです。
◆今日の祈り
全能なる御父天の神様、あなたの豊かな恵みと祝福に心から感謝申しあげます。
主の御前にあって愚かで弱く罪深い、わたしをどうかお許しください。
主の御恵みは、この愚かなしもべにあふれるほどに注がれています。
しもべはいま礼拝説教に臨み、自分自身の信仰を省みています。
願わくは主よ、しもべを助けてください。
礼拝において、自分自身を誇ることのない様に、また高慢になることのない様に、へりくだって主の栄光を証しすることが出来ますように助け導いてください。
そして、会衆のお一人お一人に霊の働きによって、あなたの御心と真理とを悟らせてください。
あなたの恵みと祝福が、全会衆の上に注がれますように。
この祈りと願いとを尊き御子、主イエス・キリストを通して感謝してお祈り申しあげます。
アーメン