あるひとが、地獄・極楽というものは本当にあるのでしょうか、と聞いた。二宮翁はこたえた。――坊さんはあるというけれども、取り出して人に見せることはできないし、儒者はないというけれども、これも行って見きわめたわけではない。だから、あるというのも、ないというのも、空論にすぎない。けれども、人の死後に、生前の行為の因果応報ということは、なくてはならぬ道理だ。儒者がないというのは三世を説かないためで、仏教では三世を説いている。説いても説かなくても三世というものは必ずある。従って地獄・極楽もないとは言い切れない。見ることができないからといって、ないと決めつけるわけにはゆかない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・元来、地獄は悪事をした者の死んでからやられるところ、極楽は善事をした者の死んでからゆくところに疑いない。もともと地獄・極楽は、勧善懲悪のためにあるものであって、宗旨を信ずる信じないのためにあるものではないことは明らかだ。迷うではない。疑うではない。
訳注 二宮翁夜話(上) 参考
私たちが、豊かにこころあたたかく幸せに生きる方程式の一つである勧善懲悪の教えをわかりやすく説いたのが地獄・極楽のことであります。善の種を蒔けば極楽に、悪の種を蒔けば地獄へ行くことになる。こんなわかりやすいことはない。また、今は種を蒔いて花が咲くのが早くなっている。善悪の学びにもまきがかかっている。これからどの種を蒔いているかを観察していれば、地獄・餓鬼畜生か自分でも行き先がわかる。
訳注 二宮翁夜話(上) 参考
私たちが、豊かにこころあたたかく幸せに生きる方程式の一つである勧善懲悪の教えをわかりやすく説いたのが地獄・極楽のことであります。善の種を蒔けば極楽に、悪の種を蒔けば地獄へ行くことになる。こんなわかりやすいことはない。また、今は種を蒔いて花が咲くのが早くなっている。善悪の学びにもまきがかかっている。これからどの種を蒔いているかを観察していれば、地獄・餓鬼畜生か自分でも行き先がわかる。