城後さんは、仕事のかたわら「逗子カヌークラブ」を主宰する経験豊かなカヌーイストである。
四国の吉野川を初めとする日本国内の急流下りはもとより、シーカヤックを使っての四国一周や九州一周なども成功させている。
その舞台は海外にも及び、ファルトボート(組み立て式カヤック)を使ってバンコクのチャオプラヤー川やその支流、チェンマイのピン川やその支流、さらにはラオスのメコン川などをキャンプしながら下ったこともあるそうだ。
カヌー界の重鎮である作家の野田知祐さんも、取材でタイの川を下る前には城後さんから情報を得たのだという。
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私がそんな彼と知り合ったのは、およそ20年前。
「東京ファルトボートクラブ」というカヌークラブに所属していたとき、24歳の彼が進入会員として入ってきたのである。
その頃の私はすでにプレイボート(プラスチックカヤック)に乗り換えており、東京は奥多摩の御岳渓谷や秩父の長瀞を主なゲレンデにしていた。
そこで、急流下りの練習を始めた彼と共に何度か川下りを楽しんだのだった。
その後しばらくして私は退部し、川からも遠ざかったために交流も途絶えた。
ああ、あれから幾星霜。
北タイの山奥でカヤックとはまったく無縁な暮らしをしている私と彼とを再び結びつけてくれたのは、当ブログに寄せられた彼からのコメントだった。
2年間におよぶ育児支援に対するご褒美として、奥様からタイへの一人旅を許可してもらったのだという。
「時間があったら、オムコイにもぜひ」
そんな返信を送ると、すぐさまオムコイ訪問を決めてくれたのだった。
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20年という歳月は、人をどう変えるのだろうか?
ひと目見て、すぐに彼と分るだろうか?
そんな思いを抱えて、町のバス停に向かった。
約束の時間は、午後2時。
バスは1時前後に着くのだが、とりあえずは一人で町を歩いてみたいという要望があったのである。
終点前で、ちょうど角の食堂から出てきた彼とばったり。
杞憂だった。
そこには、鬢に少し白いものが混じったとはいえ、あの20年前と同様の日に焼けた優しい笑顔があった。
反対に、彼の目には私の姿は一体どう映ったのだろうなあ。
なにせ、当時42歳のイケメン(?)中年だった私は、浦島太郎のように髪が真っ白になった還暦プラスツーのクンター(爺様)に成り果てたのだから。
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冒頭に書いたような近況やかつての仲間たちの消息などを語り合ったあとで、川向こうの展望台へ。
彼は日本を出る前に拙著『「遺された者こそ喰らえ」とトォン師は言った』(晶文社)も読んでくれており、村の暮らしや登場人物などに関する質問がどんどん飛び出してくる。
事前には、「機会があれば鶏を潰してみたい」「料理を覚えたい」といった要望も寄せられていたのだった。
宿に戻ると、いよいよ晩飯用の鶏絞殺を体験してもらうことになった。
怪我のないように、私が蹴爪と羽を押さえて、彼に首を譲る。
少し時間はかかったものの、無事昇天。
わが宿で鶏を絞めたゲストは、初めてである。
「いやあ、これは今の日本じゃ滅多にできない体験ですよねえ」
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次に湯を沸かし、羽をむしる。
逗子の海でカヤック・トローリングをすれば、でっかいスズキやシーラも釣れるそうである。
その釣果はすべて自分でさばいているということで、羽むしりも上手いものだ。
次に、七輪に火を熾しての丸あぶり。
女将のラーが腹をさばいたあとで、薬草、香草と一緒に全身をゆがく。
ゆがき終わると、モツを取り出して手で肉をむしり裂く。
そして、胡椒の効いたナムプリック・ラープで味付けだ。
彼は、鶏の締めから始まるトムヤムガイのすべての調理過程を、メモを片手に丸ごと体験したのだった。
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さて、いよいよ晩飯だ。
村の焼酎を一杯だけ試した彼は、すぐさまトムヤムガイに挑んだ。
3時間前に、自らの手で潰した鶏料理なのである。
第一声は、メモを見ながらの「オイテテ!」(カレン語でおいしい)
タイでのカヤック・ツーリングに備えて、かなり以前からタイ語の勉強も始めたそうなのだが、ここでは可能な限りカレン語を覚えたいのだという。
この旺盛な好奇心が、彼の若さの秘密だろうなあ。
バンコク到着後、すぐさまチェンマイに飛び、オムコイ行きのバスに飛び乗ったという強行スケジュールである。
カレン式鶏料理と尽きぬ話題を楽しんだあと、午後8時過ぎに彼は宿へ引き上げた。
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こちらこそ、楽しい時間でした。無事の社会復帰、何よりです(笑)。タイ人にとって桜と雪は憧れですからねえ。新しい出会いも旅の醍醐味ですよね。