年を取れば人間穏やかになっていくと若いころ思っていました。
なかなか人間としてできていない私は、いつも不安でいっぱいです。今娘も店を手伝ってくれています。
よき女房、娘。
不満があるのではないのです。が・・・
強いて言えば自分への不満。この年になっても自分の立ち位置が見定められないもどかしさ。
酒の会のメンバーのフェースブックの投稿。
「母の終活」
「3月のとある夜、母がこの世を去りました。
「“痛い”のはイヤ。ピンピンコロリでお願いします」
「よ~くわかってますよ。最期まで僕にまかせて!」
3ヶ月間、主治医と毎日こんな会話を繰り返した母。願い通り入院中はよく食べよく語り、洗濯も最後まで自身で。毎週末の外泊と外食を待ち望み、好きなお酒を少し舐めながら「楽しいわぁ~」と笑っていました(*^_^*)
「がんで死ねるなら本望。検査も手術も延命治療も不要」。数年来言い続けたことが現実となった昨年末。すい臓がん末期という告知にも母はあわてませんでした。財産の分け方、式場の祭壇、棺に入れる着物…。病床でこのノートに人生の始末のつけ方を綴り始めました。
恐れていた“痛み”が訪れたのは、亡くなる前日です。母は治療が最終段階に入ったと知ると喪主の挨拶文まで書き上げ、これを使えと指示してきました。「やり過ぎ!」。そう咎めた私ですが、結局はそれがそのまま披露されて、送る言葉に。「ほ~ら見なさい」。したり顔の母が見えるようで、ちょっと悔しい気もしています(^^;)
「いよいよですね、痛くない、ありがとうございます」。当日、混濁した意識の下でそんな言葉が発せられているうちに事態は急変していきました。幕引きのあまりのあっけなさがどうにも受け入れ難く、「1分でも長く」との思いが募りましたが、それは「苦痛の時間を延ばすだけ」とドクター。患者との約束が最優先され、母はするりと現世の枷をはずし、旅立ってしまいました。
そうは言っても最期はジタバタするはず、と思ってたのに。出来すぎなほどアッパレだったね、トミコさん。80年間お疲れさま。そして、ありがとう。今頃はタカシさんと35年ぶりのデート、楽しんでるかなぁ?」