三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

坂内氏館・坂内御所

2017-08-07 23:03:28 | 松阪の城

坂内氏館・坂内御所

さかないうじやかた・さかないごしょ

城名 坂内氏館・坂内御所
住所 松阪市阪内町御所
築城年 応永年間
築城者 北畠雅俊(木造雅俊が坂内氏を名乗った)
形式
遺構 無し
規模 東西100m×南北50m
城主 北畠雅俊---具能---房郷---親文---具祐---具房---具義
標高 175m
比高 5m~10m
歴史 天正4年11月25日、七代・具義は田丸城で謀殺され坂内氏は断たれた。
経緯 北畠雅俊以降その子孫は七代に渡って坂内氏を名乗った。
書籍 三重の中世城館
環境  南の眼下に坂内川と細野峠に向かう多気(たげ)への街道を見る(比高10m程度)。東の峰に坂内城を望む直線距離740m程度。城に向かう道は勢津に抜けるがその峠はガイコツ峠と名付けられている。昔、死人を捨てた場所との言い伝えがある。
一族  北畠三大将(田丸御所・大河内御所・坂内御所)何れも兵千の大将也、、、勢陽雑記
家臣 兵千人
勢陽五鈴遺響 応永年間、伊勢国司北畠氏に属する城で北畠俊泰の守る処と言われている
現地 坂内幼稚園用地
考察  大河内城の西を守る位置にある。多気へのルートは中村川が中心であったと思われるのでこちらの細野峠を抜けるルートはサブであったのではないだろうか。従って坂内氏は筆頭に出る立場ではなかったように見受けられる。
感想  大河内城から見て脇谷城、泉ケ久保城の奥にある坂内城及び坂内御所は奥の院的場所にある。北畠氏が盛隆の時代にはそれが一つの意味があったのではと思われる。
地図  <!-- 坂内氏館 -->


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