日本山城遺産 伝えて残して歴史を繋げる 三重を中心に徹底訪城 時々ノーマルカーダート 最後にセルフコラボレーション

崩れゆく山城を探索。一方ノーマルカーダートでチャンンピオンを目指す。最後にペン画でコラボ。はたして答えは何処にあるのか。

大河内城

2017-08-07 23:28:22 | 松阪の城

大河内城

大河内城再編集(L版程度に拡大可)平成29年1月30日

 

おかわちじょう

城名 大河内城
住所 松阪市大河内町城山
築城年 応永22年(1415)
築城者 北畠満雅(兄)
形式 平山城
遺構  城の縄張りは本丸を中心に大手口、搦手口、西ノ丸、二ノ丸・御納戸・馬場などを配し、随所に堀切りや台状地が残る。石垣は当時のものと考えられている。
規模 東西350m×南北500m
城主 北畠顕雅(弟)
標高 110m
比高 40m
経緯  阿坂城で北畠満雅が北朝足利軍に反旗を翻したとき、弟・顕雅に大河内城を造らせこもらせた。その子孫は代々「大河内御所」を称した。
歴史  永禄12年(1569)大河内城の戦い。8月より1か月余り。本城をめぐって北畠具教軍(八千)と織田信長軍(五万)が敵対し、その士気は高く魔虫谷の決戦竜蔵寺坂の夜討ちなどの合戦では、織田方の有力な武将も討たれる有様であった。北畠軍は50日にもおよぶ籠城(ろうじょう)戦に耐え、やがて和睦が成立している。この一大攻防の結果、本城は難攻不落の堅城と称賛されたが、天正3年(1575)には信長の次男北畠信雄により解体されている。
書籍 三重の中世城館、日本城郭体系
環境  東を坂内川、北を矢津川と深く入り込んだ谷に囲まれた丘陵突端部に築かれたよう害の城で、北畠氏の南伊勢支配の重要な拠点であった。
一族 大河内御所一族
家臣 千人
現地  三重県指定史跡。標高110m余りの丘陵突端部一帯、300m四方の範囲内に築造され、東裾には阪内川、北裾には矢津川が流れ、南裾と西裾には深い谷が巡って自然に要害の地を形成している。
   
考察  搦手門、二の丸跡、馬場跡、御納戸、一段高いところが本丸跡、堀切を渡ると西の丸跡などの案内がある。南南西800mに泉ケ久保城、南西900mに脇谷城があり有機的な繋がりがあったのではと思われる。
感想  大河内城は1415年以来1575年の廃城までの160年間の城。規模大きく周囲には取り巻く出城多く守りを固めていた。
   取り巻く城は六呂木城、坂内城、脇谷城、泉ケ久保城、岡ノ谷城、白山城、立野城と又その外周にもいくつかの城が構えている
地図  <!-- 大河内城 -->
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