三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

遠州飯田城

2017-02-27 13:23:30 | 日本の城

遠州・飯田城「二重堀切」

デジブック 『遠州飯田城』

城名 遠州・飯田城
住所 静岡県周智郡森町飯田
築城年 応永初頃
築城者 山内対馬守
形式 山城(丘城)
遺構 郭(主,二)土塁、物見郭、二重堀切、
規模 東西100m×南北150m
城主 山内氏    
標高 53m    
比高 20m    
歴史 弘安4 1281  飯田の荘上郷(天方地区)村等の地頭を安堵された山内道茂を祖とし、山内道弘・道秀の頃に遠江に赴き天方城を築いたとされる。(注1)
  嘉暦2 1327  飯田の荘下郷(飯田地区)において山内孫太郎道光、山内刑部道俊が相論に及んでいる文書があることから鎌倉末期には山内孫太郎道光が当所周辺に館を構え田地を領有していたことが窺える。(山内刑部道俊が横領しようとしたらしい)
  応永初頃 1394~  飯田城の築城。山内対馬守が始め天方城に居て後、飯田城を築いて移り済み、弟の山城守に天方城を守らせた。故に弟を天方氏という。
  応永8 1401  飯田山に崇信寺を開き菩提寺としその境内を古城と言い伝えている。
  長禄元 1457  山内道美の子息久道が父道美の三十三回忌法要を行う。
  永禄12 1569

 

   6月、今川氏の被官から離れることのなかった山内大和守は、徳川家康の遠江侵攻進行によって落城、千人塚に葬られた。

考察  南北に走る尾根の西側に構えられ眼下に信州街道を望むことから西側を主に守備した造りとなっている。反対側の東側の山は低く丘陵状でわずかに空堀か水堀が防御の施設であった。丘陵の館跡というロケーションである。
感想  訪城 2014.6.20。  四百数十年前に栄華を誇っていた山内氏の城を訪ねた。現地は整備され案内もよく辺りは開放的で子供連れでも安心して行けるような雰囲気である。特に案内板の想定図は完成後半年であったことでもありキレイで分かり易く子供にも想像を促すよい資料だと思った。
経緯  この城跡は2012年ころから本格的に保存活動が始まったようである。最悪の場合栗園として開発され形が無くなっていたかもしれないところを保存会が発足され現在に至るようである。
   日本中では既に資料の中だけでしか分からなくなってしまった城がたくさんある。吾輩の近くでは織田信長の伊勢侵攻の際に拠ったと言われる山城が採石場となり無くなってしまった例がある。
   形あるものはいずれ無くなるとは思うが敢えて人の力で壊していくのは心苦しい思いがする。
注1 弘安4 1281 元寇のころ
地図      

https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&authuser=0&mid=1j4aZePCimrjegODYWTSvParrOrY&ll=34.805202496870606%2C137.91958822076538&z=17

 



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