珍しく映画を立て続けに2本映画館で鑑賞したものだから、本屋で手に取った『映画館と観客の文化史』(加藤幹郎著、中公新書)を読む。
序章によれば、2005年に映画は110歳を迎えたのだそうだ。そしてこれは映画館で映画を上映するという形で「公共の場所でスクリーンに投影され、それを見るために一般の観客が一堂に会」するようになって110年であることを著者は急いで付け加える。本の題名とこの冒頭の記述が示しているようにこの本の主題は作品である映画ではなく、作品が公開される場としての映画館であり、それを鑑賞する観客である。これら三つの要素(映画作品、映画館、観客)に加えて、著者はプログラムという要素を挙げている。映画が興行者によって「どのように上映されるのか」という要素である。現在のように均質化している状況では、いったいどんな関係がと思ってしまうが、
サイレント前期のアメリカでは映画の上映はスライド・ショー付き館内合唱と交互に行われていたし、サイレント後期には映画の上映は一連の音楽演奏やステージ・ショーや短編映画の上映が終わらないとはじまらなかった。
というものだったし、本書にもあるように日本では弁士によって映画の印象が大きく違った。また映画を上映する場としての映画館も冷暖房完備の建築から野外のドライブ・イン・シアター、ホーム・シアターと変化の幅は極めて大きい。作品が公開される場という観点からすると他のメディア(演劇、書物など)と比較した場合、映画は場によって大きく変容するものだと本書を読んで感じた。映画を論じる際に、映画館で観たのとDVDで観たのではもはや同列には置けないとも言えそうだ。
こうして問題は、同じ一本の映画でも、それを観客が見る媒体と場所が変われば、異なる映画体験となることの内実を探ることになる。言いかえれば、映画はそれを見る媒体と場所によって、まったく異なる受容の仕方がなされるのであり、それゆえ映画作品の解釈や意味作用の読解もまたそれらの媒体と場所によって、おのずと変質するだろうということである。映画を見るということが、それを可能にする媒体と場所の質的差異にもかかわらず、なにか本質的に変わらない一定不変のものであるかのような思い込みが、幅広く、また深く浸透しているように思われる・・
それにしてもやっぱり映画館で観る映画がいいのは、多少の雑音はありながらも多くの第三者と一緒に同じ映像体験を共有したということにあるのだろう。同じ料理でも一人で食べるよりみんなで食べたほうが、味覚としては一緒でもよりおいしいようなものだろうか。
その他教会と映画館の意外な関係や、なぜ冷房装置を備えた映画館がシカゴに最初にできたのかとかなぜ日本では弁士が長く活躍したのか、インターネットでポルノが配信される時代になぜポルノ映画館がなくならないのかなど興味深い話題が満載であった。