Loving Day

青春ファンタジスタ

誰にでもあるでしょ?こういうこと。

2008-05-06 11:00:14 | 座標軸n的話
私の実家は転勤族で小学校を3回変わってる。

生まれは東京なんだけど、そこから小学校低学年、3年生の2学期までを名古屋で2回転校をし、
その後は神奈川の小学校に3年生の3学期からを過ごした。

名古屋での思い出というのはいろいろな意味で強烈だったように思う。

小学校低学年の多感な(?)時期に学校がころころ変わったというのは、
環境の変化に適応するのが、幼年なりに結構辛かった思い出がある。

小学生っていうのはあからさまに好奇心が旺盛で、「転校生」を囲んでは、
やんややんや騒ぐし、好意的なのか、ものめずらしさの冷やかしなのか、
その様といったらさながら宇宙人を迎えたような印象さえある。

そんな環境の変化のほかに、名古屋にいたときには両親が不仲だった。
というより多分、今思うと母親がまいっちゃったんだと思う。

西地方は関東以北出身の人にとってなかなか馴染みにくい。

夏の強烈な暑さの中、しばしば付き添いで病院の精神科に行ってた。

ある日、殺人的に込んでた病院の診療が終わるまで暇だったから、
エントランス付近の小道に列を組んでた蟻んこを見ては、無意識に踏み潰してた。

蟻っていうのは不思議で、巣の中にじっとしていればいいものを、
巣の外で脅威、この場合は踏み潰しまくっていた私なんだけど、
が発生したら、必死に巣の中から卵を外に運んで逃げようとする。

その様がすごく不思議で、なんだかとってもあほらしくなって、
同時に悲しく残忍な気持ちになって、泣きながらさらに踏み潰してたのを記憶している。

多分罪悪感はあったんだと思う。
その後しばらくは悪夢をみて眠れなかったし、
その後何年も当時の夢は見続けた。


家庭はぼろぼろだった、と思う。

あんまり覚えていないんだけど、母親は食器を泣きながら割って手首にあててるし、
電話口で誰かに向かって泣きじゃくりながら何かを金切り声で叫んでる。
もちろん食事を作る余裕が彼女にあるはずも無くて、食事時になると、
妹と一緒にかくれんぼをして、私は空の食器棚に隠れてた。

私のちょうど良い場所っていうのはベッドの下か、食器棚だった。
誰も明かりをつけない夕暮れ時から夜にかけての暗い時間、
私はなにをしてたのかな。母親はどこにいたんだろう。

でも当時それをあまり不自然だとは思わなかった。
もしかしたら感覚が麻痺してたのかもしれない。
だって今もあまり覚えていない。

こういうとすっごく陰険で根暗な子のようだけど、
もしかしたら子どもなりの防衛本能みたいなのが働いて、
名古屋は夏が暑かったこととか、桜並木が綺麗だったこととか、
そんな楽しいことしか記憶されなかったのかもしれない。

とにかく、私の小学校時代の記憶というのは、
あまり記憶の無い名古屋はともかく、特に神奈川時代は全体的にあまりいい思い出がない。

月一回席を自由に仲の良い友達と座っていいっていう時が一番苦痛だった。
その日風邪を引くように冬にわざと布団をかけずに寝たり、
お尻をひっぱたかれても無理やりずる休みをしたり。
朝起きたら意思に反して体が動かなくなった時もあったな。
多分どっかの神経細胞がおかしくなっちゃったんだと思う。


それはさておき、名古屋生活の支えになっていたのは、恐らく祖母だった。

当時東京に住んでた祖母は暇をみつけては、
というか記憶にある限りでは比較的長期に名古屋に滞在してくれて、
私たち姉妹や母親・父親の世話をしてくれていたと思う。

だから私にとって祖母がいる生活というのは普通だった。
別に母親の調子が悪いからいるんだとか、そんなことじゃなく、
ごく自然に生活の中にいたような気がする。

しばらくして、母親の調子が回復してきたころ、
長く滞在していた祖母が帰る日が来た。

すっごく悲しくて。

バス停まで見送って祖母が乗ったバスを泣きじゃくりながら追いかけた。
祖母も泣いてたっけ。


そんな祖母の調子が悪い。
GW帰省先から電話したとき感じた。
めっきり年をとってしまった。

母親が言ってた。
ハンセン氏病らしいと。

まじ?

どうやら10本の指のうち、9本が動かないらしい。
歯も抜けちゃって、食欲も無く、痩せる一途をだどってるよう。

そんな祖母が言ってた。


「名古屋にいたときが人生で一番楽しかったょ。
バスを追いかけてきた時悲しくてねぇ。
ありがとね。ホントに楽しかったょ。」


私がそれなりに年をとってみて思うに、
祖母は感心できるような生活態度なんか全くしてない。

お嬢さんそだちだからかなりわがままだし、毎日暇さえあればパチンコしてるし、
自分のお墓代さえもパチンコですっちゃうようなどうしようもない祖母だけど、
そう話す声量がとっても小さくて、話すのがやっとのような、
ビブラートがかった声でそういうの。

泣きそうだった。


毎日誰かしらが、この瞬間にも亡くなってる人はいるし、
私の職業柄、時にそういう発言はする。

人は生物である以上、終りはある。

でもその物語の背景にはいろんな人の想いや思い出が溢れてる。

そんなことを感じた。

と、同時に昔のことを少し思い出したのです。

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