心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

それは依存なんだよね

2024-05-20 21:21:14 | 新しい心持へ

わかってほしい この人は分かってくれる

愛してほしい この人は愛してくれる

それは依存 それは幻想

「本当の私をわかってほしいは」幻想

だから誰かの幻想も満たさなくていい

他の誰でもなく 

自分にわかってほしかったのかもしれないな

誰の承認も必要ないのかもしれない

 

自分の感情や思考を否定せずに受け入れることからスタート

自分を責めずに自分の感情や思いを受け入れてあげること

自分に出来ることを少しずつ見つけていくこと

依存したい気持ちも否定せず受け入れて、依存だけに頼らない事

自分を大切にするための小さなステップを踏んでいくこと

コメント

何故この環境にいるのか

2024-04-27 15:53:37 | 新しい心持へ

何故、辛いと言いながらもこの環境に身を置いているのか。

理由をつけて辛い環境に居続けるから、いつでもターゲットにされ、自滅の道をたどる。

好きでしているわけでは無いはずなのに、実はこの状況を自分が選択しているという事だ。

知りたくない不都合な真実、自立して自分の選択に責任を持つ時が来ている。

誰かのせいでこの状況を強制されているのではない、私が選んでいるのだ。

自分と向き合い始めて紆余曲折、自分の一助として始めたこのブログは、まだ先が見えそうで見えない、そんな自分を映し出している。

過去と現在の出来事が錯綜している、まだ何か埋まっていそうだなと感じている。

コメント

マイルストーン

2023-12-16 20:34:41 | 新しい心持へ

マイルストーンとは、業務完遂までに必要な区切りや中間目標のこと、小さな目標達成を積み重ねることで、モチベーション維持に有効。意図せずして私にとってのマイルストーンとなった、2023年12月8.9日の武道館ライブ「30th Anniversary Yuki Kajiura LIVE vol.#19 -Kaji Fes.2023」。

初めてのYuki Kajiura LIVE参加、夢が叶うと寂しくなるのではと心配したけれど、まさかの卒業の気持ちになった。これまでの自分の中の「わだかまり」が解けたような心持で、いっそ清々しかった。もちろん彼女の作る世界や音楽はこの先もずっと好きだろうけれど。

私のこれまでの苦しさに寄り添ってくれた宝物の曲たちありがとう‼ 梶浦さんの30年の節目のライブに参加できて良かった。昇華されようとしている梶浦さんの存在感が、私を変えようとしている、私の中のトラウマも葛藤も成仏できそうな気分。今はRainbow~Main Theme~(映画「RAINBOW」テーマ曲)梶浦由記&KOKIAさんの曲を繰り返し聞いている。

コメント

一里塚②漠然とした中で浮き上がってくるもの

2023-11-26 19:51:45 | 新しい心持へ

ブログをはじめて2年弱、混沌とした自分の中の「何か」を思いつくままアウトプットしてきた。

感情的で気まぐれな未消化の「何か」をまだつかみ切れていないけれど、おぼろげながら見えてきたものがある。

発達障害と二次障害、虐待とアダルトチルドレン。

防衛反応、回避と抑圧。

記事を投稿し重ねていくとわかる「見えてくるもの」があるんだなと感じた。

 

自分を振り返って見つめ直していくと判る「自分自身」と「課題」。「人間という動物の生態と社会」を知るのも大きなファクター。「感情的」な視点から離れる事、辛かった出来事に照準を合わせても不毛なことという事。まだまだ先は長そうだ。

コメント

悲しませたくない

2023-10-29 19:34:05 | 新しい心持へ

悲しませたくない、誰を、母を。

好きになってほしかった、私を信じてほしかった。

心に傷を負ったのは何時だったのか、深い心の底にあるのは「悲しませたくない」という思い。

母を悲しませたくなかった、母に笑ってほしかった、母が大好きだった。

でもいつも悲しませた、そして自分への無力感を感じていた気がする。

 

「自由人な姉は母に叩かれていた、姉を反面教師に妹である私は賢く立ち回ったの」ある会話の中の誰かの発言。

口に出さず考えたのは、本当にその方のお姉さんは自分勝手だったのかという事。もしかしたら母の定めたルールに従えなかったから、受け入れられないからこその反発だったとしたら。

私は母の与えた駄目なお姉ちゃんの役は嫌だった、愛されたいという欲求はあるけれど引き換えに本心を誤魔化すことはできなかった。ありのままを認めてほしいのに、自分勝手なお姉ちゃんという役を受け入れるなんてできなかった。

もし、慰め役が与えられていたら上手くいっていたのであろうか?否かもしれない、母の認識の不合理に子供心ながら反発があったから。常に回避して私は可哀想と自己防衛している母だったから、きっと相容れなかった。

今も関わる時の虚しさと空虚感は変わらない。もう好きになる努力はしていないが、この部分が罪悪感の根源な気がしている。自分の大好きな人が自分を好きか嫌いかは分かるもの、認めたくはないが「母は私を愛さない」という諦観が肝心な気がしている、辛すぎて受け入れられなかったから曖昧にしていた病巣、自己肯定感を損なうもの。この心の折り合いをどうつけるかはこれからの課題、私は母を諦められるのだろうか。

コメント