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いま、そのとき、かんがえつつあること。

ケーハツ的ということ

2005-03-22 | 議論
いま かいてる原稿をふたりの人に よんでもらった。「ケーハツ的で いい」、「むずかしい問題をわかりやすく かいている」だそうです。めざしてるのは、まぁ そーゆーことですけどもね。

よく いわれてることですけど、「他人をどうこういうまえに、自分をふりかえれ」、「まず自分をかえろ」と。ごもっともなんですよね。そういうスタンスで いきたいとも おもっている。予備知識がない人も すっきり わかるような文章にしたいとも おもっている。でも、なんのために? そもそも、なんのために活字にするの?

わたしの わるいクセだけども、出発点から つまづいちゃうことがある。以下、無意味にひとり問答。

「ケーハツ」するというのは発想からしてゴーマンじゃないのか? そういう部分もある。 「ケーハツ的だ」と いわれるということは、そういう文章になっているということだ。そうなるように意識していたか? していただろう。「無知な おまえたちに おしえてやろう」みたいな文体なのか? そうでもない。でも、ポーズだけ「なやましく」かいてるだけで、結局は そういうことなんじゃないの? そうかもしれない。 もっと自分自身と むきあう文章にすれば いいのか? それでも「ケーハツ的」って いわれるだろうね。 そもそも、なにかをかたることは「悪」なのか? そういう善とか悪とか短絡的なもんでも ないだろう。 いちばん いいのは、自分を解放する文章じゃないか? そうねぇ。 で、そのテーマは「自分のもの」なのか? いや、たまたま興味をもっただけかもしれない。 なるほど、だから つまづくんじゃないの? なるほどね。 自分のものじゃないのを、自分のものにしてしまうから まちがうんじゃないの? ほんとに、あーだこーだ かいてる「問題」っていうのは、自分にとって切実なものなの? どっちとも いえないかな。

………と いいつつ、かくのは かくんですけどね(笑)。たまに こういう問題に たちかえりたいわけです。

さて、ハウプト・ホルガーという人が、「自由のコンセプト」という文章をかいている。そのなかのフレーズを引用します。
「人は同じではない。人を同じにさせたいなら、支配しなければならない」(http://www.hpo.net/users/hhhptdai/jiyuu.htmより引用)
まぁ、ありがちな話だけど、印象的なフレーズだ。

グーグル:「傲慢 啓蒙的」