若い歌手の卵たちが集まるコンクール、というものを一度も聴いたことがなかったので楽しみにしていた。
ご近所のイタリア文化会館が会場。予選を勝ち抜いた43人の日本人が参加する。
年代別に分けられた本選の二日間のうち、9日の「ミラノ部門」(1983年以降生まれ)の後半を聴いてきた。
この日の後半に歌った8人は、全員が1984年生まれ(5人)と1983年生まれ(3人)。
中には国内外で既に活動している参加者もいるらしいが、確かに素晴らしいと思える歌手が何人かいた。
ピアノのコンクールでもそうだが、プロではない演奏者のパフォーマンスを聴くという体験は、とても勉強になるし、インスピレーションが湧く。
一流と呼ばれる人たちがこともなげにこなしているあれやこれやのことが、如何に長期の修練を要することかが理解できるし
「熟する前」の段階の人たちが見せてくれる、一種無防備な姿は、表現における「最も大切なもの」を思い出させてくれる。
男声はテノール二人、バリトン二人。それぞれ正反対の二人が歌ったので面白かった。
プッチーニとドニゼッティを歌ったテノールの参加者は、イタリア語の発音がとても不慣れな感じだが、声は前に出る。
部分的に裏返ったりするが、日本国内でプロとして活動している歌手にもこのレベルの人はいるので
まあまあ及第点なのかなと思っていた。が、次に「愛の妙薬」の「人知れぬ涙」を歌った参加者が素晴らしすぎた。
ステージに出てきた瞬間、あまりに不愛想だったので少し心配だったが、歌い出すと安定した輝かしいテノールで、
トランペットのような明るい響きもある。空間を満たしていくその質感が、前の歌手とは全然違っていて
「どうすれば声が出るのか」を深いレベルで知っているようだった(高柳圭さん)。
バリトンは、途中で崩れてしまった参加者と、終わりに近づくほど絶好調になっていく参加者のコントラストが鮮やかだった。
後者は「エルナー二」の「おお、若き日よ」を歌った。よく勉強して歌っている。滑舌もいい。
日本人の20代の歌い手にもこういう人がいるのだな、と感心した(野村光洋さん)。
ソプラノは「ステージ慣れ」しているタイプの参加者が何人かいて、あまり心を魅かれなかった。
コンクールだけどリラックスしてます、といったアプローチなのかもしれないが、ジェスチャーがうるさすぎて、そのぶん声にパワーがめぐってない感じの人も。
出てきた瞬間の「オーラ」も、特に女性歌手は重要である。
歌い出す前きから、なんとも意地悪な雰囲気を醸し出してしまう人もいるのだ。
そういうタイプは、声も表情も、勝手に出来あがっちゃってるような感じ。伸びしろを感じないのだ。
コンクールという場のせいか、客として聴いていても過剰にクリティックになってしまう。
「現時点」での実力を見せるというのは、実はものすごい多義的なことなのだ。
おっかなびっくり破綻のないように、ぎりぎりでも勝ちたいと思って準備してくる参加者は
なぜかこちらにもその心模様が分かってしまう。なんか無難に小さくまとめようとしているのが伝わってくるのだ。
勢いよく成長しているプロセスを感じさせる、リスクをガンガン犯しながらも楽しげに歌うタイプは
あまりいない。が、一人いた。「リゴレット」の「慕わしい人の名は」を歌ったソプラノで
彼女は高音にいくほど表現力が生き生きしてくる(中本椋子さん)。
こういう人が優勝して、副賞のミラノ留学を得てほしいものだが、結果はやや不可解なもので
コンクールにありがちな「現実」に収まった。
ここにもまた、「人間関係」という壁があるのだ。
しかし、人間の精神力ほど強いものはないし、聴衆の「感動」ほど正直なものはない。(と信じている)
この日、私を感動させてくれた歌手の皆さんは、迷わず世界に飛び出して行って欲しい、と思った。
実力のある歌手たちに、公平なジャッジが下される日を祈っています。
ご近所のイタリア文化会館が会場。予選を勝ち抜いた43人の日本人が参加する。
年代別に分けられた本選の二日間のうち、9日の「ミラノ部門」(1983年以降生まれ)の後半を聴いてきた。
この日の後半に歌った8人は、全員が1984年生まれ(5人)と1983年生まれ(3人)。
中には国内外で既に活動している参加者もいるらしいが、確かに素晴らしいと思える歌手が何人かいた。
ピアノのコンクールでもそうだが、プロではない演奏者のパフォーマンスを聴くという体験は、とても勉強になるし、インスピレーションが湧く。
一流と呼ばれる人たちがこともなげにこなしているあれやこれやのことが、如何に長期の修練を要することかが理解できるし
「熟する前」の段階の人たちが見せてくれる、一種無防備な姿は、表現における「最も大切なもの」を思い出させてくれる。
男声はテノール二人、バリトン二人。それぞれ正反対の二人が歌ったので面白かった。
プッチーニとドニゼッティを歌ったテノールの参加者は、イタリア語の発音がとても不慣れな感じだが、声は前に出る。
部分的に裏返ったりするが、日本国内でプロとして活動している歌手にもこのレベルの人はいるので
まあまあ及第点なのかなと思っていた。が、次に「愛の妙薬」の「人知れぬ涙」を歌った参加者が素晴らしすぎた。
ステージに出てきた瞬間、あまりに不愛想だったので少し心配だったが、歌い出すと安定した輝かしいテノールで、
トランペットのような明るい響きもある。空間を満たしていくその質感が、前の歌手とは全然違っていて
「どうすれば声が出るのか」を深いレベルで知っているようだった(高柳圭さん)。
バリトンは、途中で崩れてしまった参加者と、終わりに近づくほど絶好調になっていく参加者のコントラストが鮮やかだった。
後者は「エルナー二」の「おお、若き日よ」を歌った。よく勉強して歌っている。滑舌もいい。
日本人の20代の歌い手にもこういう人がいるのだな、と感心した(野村光洋さん)。
ソプラノは「ステージ慣れ」しているタイプの参加者が何人かいて、あまり心を魅かれなかった。
コンクールだけどリラックスしてます、といったアプローチなのかもしれないが、ジェスチャーがうるさすぎて、そのぶん声にパワーがめぐってない感じの人も。
出てきた瞬間の「オーラ」も、特に女性歌手は重要である。
歌い出す前きから、なんとも意地悪な雰囲気を醸し出してしまう人もいるのだ。
そういうタイプは、声も表情も、勝手に出来あがっちゃってるような感じ。伸びしろを感じないのだ。
コンクールという場のせいか、客として聴いていても過剰にクリティックになってしまう。
「現時点」での実力を見せるというのは、実はものすごい多義的なことなのだ。
おっかなびっくり破綻のないように、ぎりぎりでも勝ちたいと思って準備してくる参加者は
なぜかこちらにもその心模様が分かってしまう。なんか無難に小さくまとめようとしているのが伝わってくるのだ。
勢いよく成長しているプロセスを感じさせる、リスクをガンガン犯しながらも楽しげに歌うタイプは
あまりいない。が、一人いた。「リゴレット」の「慕わしい人の名は」を歌ったソプラノで
彼女は高音にいくほど表現力が生き生きしてくる(中本椋子さん)。
こういう人が優勝して、副賞のミラノ留学を得てほしいものだが、結果はやや不可解なもので
コンクールにありがちな「現実」に収まった。
ここにもまた、「人間関係」という壁があるのだ。
しかし、人間の精神力ほど強いものはないし、聴衆の「感動」ほど正直なものはない。(と信じている)
この日、私を感動させてくれた歌手の皆さんは、迷わず世界に飛び出して行って欲しい、と思った。
実力のある歌手たちに、公平なジャッジが下される日を祈っています。
コンクールは練習とか鍛錬の場所ではないと思うのです。だから、「『ステージ慣れ』しているタイプ」という参加者がいるのは当たり前な気がするのです。スキルアップのためにコンクールには出て欲しくないのです。
※コンクールにありがちな「現実」に収まった。ここにもまた、「人間関係」という壁があるのだ。
↑「人間関係」という壁はあってはならないとは思います。同感です。でも、コンクールにありがちな「現実」は仕方のないことではないでしょうか?コンクールである以上は。
実力のある歌手たちに、公平なジャッジが下される日--私も強く熱望します!
イタリア声楽コンコルソ主催者発行の参加規程によれば、「シエナ大賞100万円、ミラノ大賞100万円。両大賞の優勝者は、イタリア国立音楽院へ推薦入学することができる。上記の両大賞は、一年以上のイタリア国立音楽院留学資金として贈られるもので、翌年度の留学を辞退したときは、両大賞とも留学資金を受ける資格を失う」。
ところが、イタリアの国立音楽院(conservatorio di musica)の正規課程に、民間団体主催の声楽コンクール受賞者を推薦入学させる制度は存在しない。つまり実際には、両大賞の受賞(候補)者はコンコルソ主催者から音楽院入学を保証されない。
そのため、参加規程にしたがい賞金獲得を希望する受賞(候補)者は、国立音楽院の入試に合格する必要がある。コンコルソ主催者による推薦の有無は別として、入試に不合格ならば賞金は受け取れない。
「両大賞」が「留学資金」そのものだとすれば、国立音楽院に不合格となった受賞(候補)者は「留学資金(=大賞)を受ける資格を失う」、すなわち「大賞」の授与自体を取り消される結果となる。コンコルソの参加規程ではこの矛盾について何ら説明がなされていない。
なお、コンコルソ主催者は過去における両大賞の受賞(候補)者について氏名と顔写真を掲載しているが、国立音楽院入学と賞金授与の実績は公表していない。
留学資金はイタリアに行ってから後払いの約束だけれど払われる保証はどこにもない
留学の書類手続きも費用負担も全部とりあえず受賞者の自前で
これがイタリア声楽コンコルソにありがちな「現実」です
コメントありがとうございます。その事実を知らないまま、参加者たちは参加料金を払ってコンクールを受けているのでしょうか。
場数を踏む訓練にはなるでしょうが、若い参加者の夢を摘むような内情では、悲しすぎますね…。受賞者様は、結局後払いをしてもらえたのでしょうか…心配。