バイエルン放送交響楽団

2016-11-28 11:25:59 | 日記
マリス・ヤンソンス率いるバイエルン放送交響楽団のコンサートを聴いた(11/26ミューザ川崎・11/27サントリーホール)。
一時期、体調不良が伝えられていたヤンソンスだが、ミューザのステージにはにこやかに登場。
「颯爽」というには足取りはやや重そうだったが、あの笑顔があれば何も言うことはない。
ハイドンの交響曲第100番『軍隊』はスタイリッシュで楽し気で、近代以降に書かれた大規模な「戦闘的」交響曲を
時代を先取りして揶揄していたような、軽やかなユーモアが感じられる。
第4楽章では打楽器隊が客席を行進し、大太鼓には「We💛Japan」のステッカーがお茶目にも貼られていた。
ハイドンの洗練と瀟洒、ヤンソンスの日本への友情がミックスしたイントロダクションだった。

R・シュトラウス『アルプス交響曲』は、先日ティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンによる演奏を聴いたばかり。
ミューザの音響とこの大規模編成のシンフォニーは相性がよく、カウベル、チェレスタ、風音器やカミナリ音などの演劇的なディティールも素晴らしく映えた。
ティーレマンが英雄的なアルプスを描写したのに対し、ヤンソンスは太陽のもとにある人間の素朴な偉大さ、
逆境にあっても挫けない、登山者の克己心を表していたように感じられた。
ヤンソンスは1943年生まれの73歳の巨匠だが、世代的にもクラシック音楽というジャンルが
戦禍によって一度解体され、深刻な傷を負ったものだという歴史観があるのだと思う。
20世紀の大戦では、多くの指揮者、オーケストラがダメージを受け、人間の作り出した最も良質な文化が傷つけられた。
ドイツのオーケストラにも同じことが言えるだろう。欧州の中で「人間性」ということの吟味を、最も逼迫した課題として引き受けていることがオーケストラの音から感じ取れる。
ミューザの一階席で聴くと驚異的なシンフォニーで、巨大な太陽と風雨、干し草の香りや家畜の鳴き声を浴びた心地がした。

サントリーホールでのマーラー『交響曲第9番』は筆舌に尽くしがたい演奏だった。
この曲をある種の文明批評として解釈した演奏に何度も触れてきて、それに納得していたのだが、
ヤンソンスの解釈は「マーラーその人の人生」に惜しみなく接近し、そのシンパシーに染められていたと感じた。
一楽章の冒頭のクラリネットの音が、生まれたばかりの赤ん坊が揺り籠の中で聴く子守歌に聴こえ、
弦とハープと溶け合ってこの上なく優しく優雅なハーモニーを醸し出した。
ヤンソンスは手で何か丸いものを描いて、風船のように飛ばしていく仕草をしていた。
彼の指揮を見ていて、右利きなのか左利きなのか知りたくなったが
基本的に右手に指揮棒を持っているのだが、しょっちゅう左手に指揮棒を持ち替え、素手の右手を動かしているのである。
マーラーのこのデリケートな音楽を作り出すためには、指揮棒という道具は時折邪魔になっていたのかもしれない。
マーラー特有の、急に曲調が変わる場面も、ヤンソンスは子供が夜に見る夢のように
自然なイメージの変化として顕していた。
何かグロテスクなものが乱入してくるような表現ではなかった。
長大な一楽章から感じたのは、ヤンソンスのマーラーに対する、一種「母性的な」愛情で
作曲家の分裂症的な気質と、それゆえに現世において感じていた苦痛をすべて包み込んでいるようだった。

マーラーの音楽には「生まれてはみたけれど、まだ生きると決めたわけではない」といった
胎内回帰願望というか、タナトスの欲動というか、霊的に迷っている感覚がつねにある。
音楽という魑魅魍魎とした世界においては、その混迷の感覚は放蕩的なまでの霊感の宝庫であったはずだが
現実における「生きづらさ」は想像を絶するものがある。
肉体が、精神にとっての居心地のよい居場所ではないのだ。
(そういう人間の挙動不審を、マーラーをモデルにしたヴィスコンティの映画でダーク・ボガードは実にうまく演じていた)
9番は、50歳を間近に迎えたマーラーが、まだ生きようか生きるのを拒否しようか夢うつつの精神にありながら
いよいよ本物の死を受け入れるまでの、詳細なストーリーが記されている。

第2楽章は、1楽章で幼少期を終えたマーラーの意識が、若者の生命を得て
集団的な狂騒へと溶け込んでいくダンスであった。
思春期から青年期へ、木管とホルンの善良な響きが青年マーラーの声に思えた。
バイエルン放送響の合奏は真剣で、変幻自在のリズムを乗りこなし、微かな乱れもなく、膨らんだり縮んだりして、ハーモニーの明度と彩度を変化させていった。
それ以上に狂騒的な3楽章は、指揮者としての地位を上り詰め、山小屋で作品を量産し
ただ生きて、創造するしかなかった壮年期のマーラーで、
引き返したいが、引き返す余裕もなく、直進していく作曲家の悲鳴のような、女々しさをかき消された雄々しい響きだった。
3楽章でのヤンソンスは、指揮棒を奮うことを躊躇せず、恐るべき若々しさでこの反抗的な楽章を振った。
その猪突猛進の先には、既に死の色彩が帯のように見えている。

4楽章のアダージョは、「これが死か…」という溜息とともに聴いた。
ヤンソンスは長めの呼吸をとったあと、決然と、万感を込めて、懐かしい響きを弦セクションから引き出した。
これは呼吸の音楽なのだ。訳も分からず最初の呼吸を得て産声をあげた一人の人間が
生の意味を理解できぬまま、苦闘し悶絶し、最後の息を引き取るまでの一部始終を、目前で見せられている心地がした。
サントリーの一階前方席のありがたみをこの日ほど感じたことはない。
ヴィオラとチェロの、エモーショナルでソロイスティックな音が「矢も楯もなく」あふれだしてくるのを耳がとらえ、
有機的な生命体としてのオーケストラの凄みを体感することが出来た。
木管も金管も、「呼吸の追わり」へ向けて、惜別のサウンドを提供してくる。
そのとき、モノクロ写真のマーラーの肖像が、起こっているすべての出来事に対して
「ありがとう」と微笑を浮かべているのが目に浮かんだ。
冗談みたいな話だが、音楽の脈拍が落ち、息がいよいよ終わりに近づき
天国の光が差し込んできたとき、マーラーがそこに降りてきて、魂の報いに感謝していると「実感」したのだ。
霊魂は不滅なのか…すべてが闇に落ちたあと、雷の拍手を浴びたヤンソンスは、
「作曲家を心から愛さずにいることなどできるだろうか?」という微笑を見せた。
特別なことがたくさん起こった11月の演奏会の中でも、最も特別な日であった。









パリ管弦楽団

2016-11-27 10:29:32 | 日記
東京芸術劇場で行われたパリ管弦楽団の演奏会を聴いた(11/24.11/25)。
二日間のコンサートで、このフランス最高峰のオーケストラに対して異なる印象を抱き
特に二日目のメンデルスゾーン/マーラー・プロは強烈だった。
「ハーディング」「フランス文化」「エリート」という言葉が始終念頭にあり
これらを、実際の演奏を聴いてどう消化するかが私にとっての課題であり、興味であった。

東京初日のプリテン(『ピーター・グライムズ』から4つの海の間奏曲)、ブラームス(『ヴァイオリン協奏曲』)ベルリオーズ(劇的交響曲『ロメオとジュリエット』)は
パーヴォ・ヤルヴィの後任として音楽監督となった41歳のダニエル・ハーディングが、
英国ものをプログラムに組み込んで、対等にパリ管と組み合い「自分らしくあり、彼ららしくもある」精緻な響きを引き出していたことに好感を持った。
芸劇の一階の8列目で聴いていたので、ブラームスではソロのジョシュア・ベルの真摯な演奏を間近で見ることになり、
全身全霊を捧げて理想の音を創造しようとする、妥協のない姿勢に圧倒された。
ベルは少年のようなイメージがあったが、現在40台半ばだという。
前方で聴いていたためパースペクティヴが把握しづらかったが、
芸劇の明快なアコースティックととても相性がよく、新鮮なブラームスだった。
後半のベルリオーズは、予定していた抜粋の曲が一曲増え、曲順も変わったが
プレイヤーの個性を統制し、ひとつのテクスチャーを作り上げていくハーディングは
「エリートだからこそエリートの精神を尊重できる指揮者」なのかも知れないと考えた。
バレエのロミジュリといえばプロコフィエフだが、ベジャール版ではこのベルリオーズが使われる。
2005年にローザンヌで観たベジャール・バレエのことなどを思い出していた。

ハーディングのリーダーシップに危険なものを感じたのは二日目のマーラー『交響曲第5番』だった。
その前に、2014年に行われた日本のオーケストラに関するシンポジウムのことを記したい。
英米独仏の音楽ジャーナリストが、在京オーケストラの演奏を聴いてその感想を述べるという会であったが
この催しが私にとって、欧米のオーケストラを聴くときの価値観の転換となった。
(議事記録の一部を旧ブログに掲載したとき、大きな反響をいただいた)
シンポジウムの主催者にとっても予想外の展開であったと思うが、各国のパネラーは異口同音に在京オケの演奏を酷評し、
米ロサンゼルス・タイムズの記者と同じくらい辛辣だったのが、フランスの若いジャーナリストで、彼の発言は過激を通り越して、ほとんど国辱ではないかと思われるほどだった。
日本のオケには楽員の自発性がなく、オケには重大な欠落があり、演奏内容は批評以前という内容で、
要は我々の国のクラシックを「全否定」されてしまったのだが
私にとってはある種のショック療法で、欧米のオケの音と日本のオケの音の差異を感じ取り、
それによって根深い精神性の差異を認識するという、新しい作業ができるきっかけとなった。
むしろ、そのことで在京オケの音楽が「真に素晴らしく、未来を生き残るに相応しい精神をもっている」と思えたのだ。

欧米と日本では、主客の在り方が異なる。
言語の構造、習慣、そして何より島国と国境をもつ国であることの違いがある。
フランス音楽の、ひいては絵画・哲学・文化全般の美点とは、自己中心性にある。
パリ管のボディをなしている音の美は、個々の奏者の自己中心性でありプライドであり、国家がそれを保全しなければと思うほどの優秀な知性である。
(卓越した指揮者たちがその美質を磨いてきた)
彼らの肉体の中には、強い意志が詰まっている。「自己中心」とは誹謗ではなく、物理的にそういう状態であるということだ。
饅頭の中に餡が詰まっているのと同じだ。
さようにタフな集団にあって、リーダーシップを取るということはテクニックもいるだろう。
リハーサルを見学したわけではないので、音楽から感じた印象なのだか
ハーディングは天才的な知性で音楽解釈を作りこみ、パリ管のメンバーが反論できないほどに「水も漏らさぬ」マーラーを作り上げていたようだった。
強いものの上に、より強いものが乗る。
その音楽の内容に、美を感じなかった。
美質であるはずの自己中心性が、前日の演奏とは正反対の方向に暴走していた。
エリートを超エリートが支配する、という、直線的で、戦闘的で、「推進力があり」「集団を掌握している」立派で、アグレッシヴなシンフォニーであった。

あの美しいアダージェットに入る前、「もう十分だ」という表情で私の近くのご高齢の夫婦が席を立った。
アダージェットが美しいのは当然なのだが「アメリカン・スナイパー」のような3楽章の後では、
厚化粧の美女のようなアダージェットになることが予想できたのだろうか。
果たして、完璧に美しい、陶然とするアダージェットだった。
ハーディングは何でもできてしまう。しかし、音楽には前後に納得するものがなければならない。
5楽章フィナーレでエリート戦隊は渾身のパフォーマンスを繰り広げ、そのサウンドには慄然とした。
言葉を選びたいが、「パリはまたテロリズムの標的になってしまうのではないか?」と恐れを感じたのである。

ハーディングは若いが、先日フィラデルフィア管弦楽団を連れてきたヤニック・ネゼ=セガンと同い年だ。
ネゼ=セガンのほうは、時間をかけて、忍耐強くオーケストラの信頼を深めていった。
音楽には人間愛があり、温かみがあり、指揮者の信頼できる人間性が脈打っていた。
こういう言葉に、鼻白むものを感じるのが、エリートの一部にいるということも知っている。
その上で、世界平和や人類愛というものを音楽哲学の射程に入れていない、そう感じられる音楽を作らない指揮者には、警戒心を感じる。
「ベートーヴェンが完成した近代交響曲の最終形としてのマーラー」という解釈だったのかもしれないが
ベートーヴェンの完璧な理知でさえ、人間的な意図から生まれている。
パリ管のマーラーは、シンフォニックなカタルシスに託された欧州優位主義であり、
未来のないエリーティズムであり、人文主義的な見地から見たクラシックの退化に感じられた。

このような感想を他の演奏会で持ったことがなく、当惑するしかなかった。
日本で行われた演奏会はすべて「演奏会という祝祭の名のもとに」祝福すべきだとさえ思っていた。
聴衆は熱狂していたが、私が演奏会の最中に思い出していたのはバーンスタインやアバドやインバルのマーラーで、
彼らは間違いなく正真正銘のエリートだが、その「目的」を誤ることをせず、まっすぐ人類愛へと向かっていたのである。
音楽監督ハーディングと名前を並べて、アソシエート・コンダクターを務めている
トーマス・ヘンゲルブロックは、全地球が「リーダーシップの危機」に瀕しているとき
度肝を抜くほどジャーナリスティックで健全なマーラー「巨人」を演奏した(北ドイツ放送響)。
パリ管の才気が向かうところに、危険な未来があってはいけない。ヘンゲルブロックの意思に救いを求めたい。











Kバレエカンパニー『ラ・バヤデール』

2016-11-21 01:03:39 | 日記
東京文化会館で行われたKバレエカンパニーの『ラ・バヤデール』の最終日を観た(20日)。
ニキヤは矢内千夏さん、ソロルは山本雅也さん、ガムザッティは中村春奈さん。
矢内さんはソリスト、中村さんはファースト・ソリスト、そして山本さんはアーティストで
プリンシパルを頂点とする5つの階級の、2番、3番、5番目のダンサーがメインを務めたことになる。
全員が大変優秀で真摯なダンサーたちで、技術も演技力も水準が高かった。
「日常の取り組みがしっかりしていれば、誰にでもチャンスは回ってくる」というのがこのカンパニーの方針なのだろうか。
フレッシュだが未熟ではなく、ダンサーが自分自身に責任をもって役を生き抜き、観客全員を幸福にしている姿が眩しかった。

ニキヤの矢内さんは、ヴェールを被って登場するシーンから、ストイックな甲と鍛え上げられた上半身に釘付けになった。
ニキヤの悲劇性を全身で表現し、表情は落ち着いていて、背中のラインがとても美しい。
躍動感と静けさを併せ持つダンサーで、あの独特の衣装もとても似合っていた。
ソロルの山本さんは腰の位置が高くバランスのいい体形で、王子役(正確には戦士役だが)に相応しい品格と清潔感がある。
バットマンとジュテに華やかさがあり、どのポジションもとても丁寧で正確で
踊り手のハイセンスな個性があらゆる動作に滲みだしていた。
思い切りの良さと上品さが素晴らしく調和しているのだ。
ガムザッティの中村さんは、メイクをしたお顔がなんとなく矢内さんと似ておられて
身長も同じくらいなので、双子の姉妹みたいに見えた。それが、一人の男=ソロルを取り合う。
ガムザッティの絢爛豪華なグラン・フェッテ、超絶技巧のイタリアン・フェッテも完璧で、まったく瑕のない優雅な踊りだった。

Kバレエは先日「シンデレラ」を観たのが久々で、しばらく生の舞台を観ていなかった。
最後に観たのがアシュトン振付の『真夏の世の夢』で、とても美しい舞台だったが、綺麗すぎて表面的な印象が残っていたのだ。
数年たって、バレエ団の作り出す演劇的空間が格段に内容の詰まったものになっているのに驚いた。
個々のダンサーの動きが有機的に結びついていて、とても流れがいい。
バヤデールではコールド・バレエは色々な種類の踊りを見本市のように展開していかなければならないが
兵士たち、巫女たち、僧たちのそれぞれの群舞は躍動感があり、明快なボディランゲージがあり、日本のバレエ団には珍しいキャラクターの強さがあった。
真剣にやらなければ、熊川さんの怒声が飛んでくるのだろう。
稽古場を見学したことはないが、本番で一人たりとも気を抜いていない舞台というのは独特の気迫がある。
何かを「超えていこう」という意志が感じられ、バレエに格別のクオリティが充溢していた。

このバレエ団には日本で唯一の座付きオーケストラがついていて、指揮者の井田勝大さん率いるシアターオーケストラ東京が、
エキゾチック=クラシックをめまぐるしく往復するミンクスの音楽を鮮烈に演奏した。
リハで突貫工事のようにテンポ合わせをするというような慌ただしいこともないのだろう。
ダンサーが安心してオケを味方につけていた。こういうことからも、最善の環境が用意されているのだ。
ロイヤルバレエにもパリオペラ座にもボリショイにもマリインスキーにも専属オケがいるのだから、当然といえば当然なのだが
「この国では無理だと言われていたこと」すべてを実現してきた凄さが、Kバレエにはある。
あまりに自然なので、バレエファンは特にオケに感謝することもないだろうが
色々な公演を見ている側としては、オケの貢献度の高さに毎秒拍手を送りたい気分だった。

2014年の初演を観ていないので、ディック・バードによる装置のデラックスな美しさと、モード感を盛り込んだ衣装の魅力にも目が眩んだ。
「影の王国」のバレリーナたちのチュチュの裾がエレガントに膨らんでいるデザインは
素晴らしい劇的効果を上げていたし、膨大なエキゾティック群舞のためのコスチュームもすべてハイセンスだった。ダンサーたちにとってもこれは嬉しいことだろう。
美術にも、突出したオリジナリティがある。ソロルがニキヤを幻視する寺院のセットは
舞台芸術のオプティカルな歓喜を最大限に昂揚させるもので、ラストシーンまで細かい背景の転換があり、見応えがある。
ダンスだけではなく、オーケストラ、美術、衣装、照明にまでこれだけ「最高級」を求めるのは、並大抵のことではない。

影の王国で24人のダンサーが青白い妖精のように舞台に並ぶシーンは、何度見ても陶然とする。
3人のソリストが加わってヴァリエーションを展開し、27人での群舞になるシーンは現実の世界ではないようだった。
さらに、プティパの振付をオリジナル・ヴァージョンとして再構成した熊川版『ラ・バヤデール』では、
ニキヤを毒蛇で殺したガムザッティが、ソロルの亡骸に仕込まれた毒蛇によって死ぬという「因果応報」のシーンがある。
これには全く驚いてしまったが、その後の寺院崩壊のシーンのあとにブロンズ・アイドルの踊りが始まったのには、心臓が止まりそうになった。
17歳の熊川さんがロイヤル・バレエで踊ったブロンズ・アイドルは、映像で何度も観たことがある。
全身に金粉をまとった生きた仏像が、技巧的な振付で踊り出すシーンは、ガムザッティの結婚式の場面で踊られるのが通常なのだが
熊川ヴァージョンでは、崩壊した寺院の瓦礫の上で、ファラオの栄華の幻を懐かしむかのように孤独な仏像が踊るのである。
ブロンズ・アイドルを観て大泣きしたのは初めてだったが、演劇人としての熊川哲也の強靭さと信念の強さ、愛情の深さ、天才性に完全降伏し、あのシーンでは涙するしかなかった。

まず最初に理想がなければいけないのだ。
「現実を見たら、無理だとわかるだろう」と言われることを、時間をかけて可能にしてきたのが熊川さんで
貧しいままの現実に引きずられていたら、日本には永遠に本物の芸術が根付かないことが分かっていたのだろう。
カンパニーを立ち上げた最初から、そのやり方は鮮やかだったが、いよいよ色々なものが育ち、花咲き、実を結んでいるという感触があった。理想が完璧な形になるには、時間がかかるのだ。

ソロルの山本雅也さんは、プログラムにもプロフィールが掲載されておらず写真も卒業アルバムより小さいが
この先の活躍が期待されるダンサー。姿がよくロマンティックな雰囲気もあり、サポートも安定感があった。この日の公演を見られたことは幸運であった。




新国立劇場『ラ・ボエーム』

2016-11-18 09:58:54 | 日記
初台はクリスマスのイメージが強い。オペラシティの広場の巨大な名物ツリーだけではなく
新国でもエントランスとホワイエに大きなツリーが早くも登場した。
まだ11月半ばだが、クリスマスが舞台の『ラ・ボエーム』の初日に合わせたのだろうか?
ホワイエであんな大きなツリーを飾るのは初めてのような気がする。
訪れたお客さんが、記念の写真を撮っていた。ガラスの壁から見える夜の景色とツリーは相性がいい。

初日の『ラ・ボエーム』(再演)は、ほとんど知らない歌手ばかりで、ミミ、ロドルフォ、マルチェッロの外国人歌手たちは全員新国初登場。
ミミのアウレリア・フローリアンは来日するのも初めてだという。
このルーマニアから来たソプラノが本当に良かった。
声質があまりソプラノっぽくなく、ヴァイオリンというよりヴィオラかチェロを思わせる深みがあり
ミミ登場のシーンから、内側に秘めた情熱を思わせる気品ある美声を聴かせた。
姿もとても美しい。清楚で哀しげで、本物のミミがいるようだった。
それにしても「私の名はミミ…」はなんという歌なのか。
若い女性が「いつもひとりぼっちで、いつも部屋の中で食事をとっています。ミサにはあまりいきません」
と自分の日常を歌うのだが、そこには微塵の虚栄も、相手に好かれるための媚もないのだ。

ミミという役は、色々なふうに曲解されてきた。
演出で駆け引き上手の娼婦みたいに描かれることもあるし、ミミを歌うソプラノが「嫌い」ということさえある。
フローリアンのミミは、非の打ちどころがなかった。
ミミが蝋燭の灯をもらいにロドルフォたちの部屋を訪れたのは、「生きるため」ですらなく
ミミとはほんの少しだけ開いていた窓から、ふっと飛び込んできた小さな蝶のような存在で
それはまさに「詩」であり、詩の心をもつ者だけが見るインスピレーションであった。

ロドルフォのジャンルーカ・テッラノーヴァは立派な声で、「冷たい手を…」では
勇敢でブレない歌唱を聴かせ、輝かしいCでは大きな拍手が起こった。
登場した瞬間、小柄で地味な歌手だなと思ったが、どんどん観客を魅了していく。
歌手の誠実な生き方が伝わってくる演技で、直球勝負の発声が潔い。
これを聴いているときのミミの表情を見るのも好きなのだが
フローリアンは、何か遠い目でロドルフォを見つめていて
「私を好きになってくれて嬉しいわ…でも、もうこの世には長くいないのです」という表情だ。

プッチーニの天才というものを考えずにはいられなかった。
オーケストラの質感がユニークで、エモーショナルで描写的で夢想的で
この美の本質には卓越した知性と、その時代のオペラを超えていこうとする冒険精神があった。
「当時は新奇でも、時代がたてば古びてしまう」という新しさではなく、永遠の若々しさが
オーケストレーションには書き込まれていて、人々の耳には親しく響くが、
驚くような実験や、厳しいチームプレイを求めるアンサンブルが仔細に指定されている。
東京フィルの演奏が、神懸っていた。
2010年に聴いたトリノのテアトロ・レージョ(ノセダ指揮)の引っ越し公演に匹敵する…というか
私の中では、ボエームを初演したトリノのオケよりも、この夜の東フィルのほうが強烈だった。
マエストロのパオロ・アリヴァベーニとの相性もよかったのだろうか。
指揮者も新国初登場だが、プッチーニの語彙を知り尽くしたオーケストラが日本に存在していることに驚いたのではないかと思う。

粟國淳さんの作り出すパリの瀟洒、二幕のカフェ・モミュスの喧騒は見事だった。
新国立劇場合唱団と、TOKYO FM少年合唱団が舞台いっぱいの華やかさを見せ
ムゼッタの石橋栄実もコケティッシュな美声を聴かせた。
本当にボエームは、クリスマスのオペラなのだ。
二幕は演出家にとっての腕の見せ所だが、セットも群衆も再演ながら新鮮だった。
休憩時間にお話したライターさんは「色彩が地味すぎるのではないか」と仰っていたが
私はあのセピア色の配色が好きなのだ。

ところで、賑やかな二幕も一幕の余韻で涙が止まらず、結局三幕、四幕でも泣き通しで
休憩時間は水分補給が大変だった…というとまるで笑い話だが
果たしてメロドラマでこんなに泣けるものだろうかと自問自答せずにはいられなかった。
プッチーニが女性の中にみた理想が、あの儚いミミで(プッチーニにはもうひとつ、お転婆な女性への愛着もあるのだが)
他では「修道女アンジェリカ」や「トゥーランドット」のリューに通じる不幸で報われない「祈る女」として描かれる。
それは生身の女性であることを超えて、想像界の中のひとつの存在、生命の象徴のことでもあった。

フローリアンの役作りは卓越しており、4幕の屋根裏部屋のシーンでは
ロドルフォがもう、演技なのか真実なのかわからないほどにミミを憐れんで
泣きそうになっている様子が見えて、もらい泣きしてしまった。
ミミというインスピレーションは、女の短い一生であり、彼女は最後に
「あなたに伝えなくてはならないことがある。海よりも深く果てしないことよ」
と歌ったのちに「本当に愛したのはあなただけです」と告白する。
いつもなんとなく聴き流していたが、すごい歌詞だ。
ちっぽけな命を要約するただひとつの言葉であり、そこに脳髄を討たれるような衝撃を感じた。

オペラや芝居は、一歩下がってみると奇妙な世界で、死んだ人間がカーテンコールで生き返り
結末もわかっているのに、そんな話を何度も見に行くのである。
宇宙人から見たら、地球人のこの思考と振舞いは奇々怪々この上なきものだろう。
しかし人間は、愛について何か知りたいと思って生まれてくるのであり、
現実の愛に失望したり、悲しみを感じつつも、愛というものに何か真実があるという
予感から逃れられないのである。
それゆえに、ボエームは不滅のオペラであり、ブッチーニは忘れ去られることがないのだ。

それにしても東フィルのこの演奏、何かを贈呈したいほどの出来栄えなのだが
オペラ上演に対するオケへの表彰というものはないのだろうか。
何か尋常なるざる「想い」のようなものがピットから溢れていたように思えてならなかったのである。
オケの音を思い出すと、再び涙腺が緩んでしまうのだ。


















マレイ・ペライア ピアノ・リサイタル

2016-11-02 03:34:37 | 日記
マレイ・ペライアのサントリーホールでのリサイタルを聴いた(10/31)。
「ペライアは本番前にものすごく緊張する人だ」という話を聞いたことがあり
それ以来リサイタルのたびに、開演前にはピアニストの気持ちになって「どうか心を落ち着けて」と
思うようにしているが、本番では素晴らしいペライアしか聴いたことがない。
まるで自分の書斎に戻ってきたような顔でピアノの椅子に座るプレトニョフやアファナシエフとは正反対のタイプ。
正統派のモーニングを上品に着こなしてステージに現れたペライアは、少しばかり神経質そうに見えた。

それ以上に、この人物の醸し出す清潔感と少年のような雰囲気にはっとした。
積み上げてきたものを、毎回白紙にするつもりでリサイタルに向かっているのは明白だった。
大きな手を鍵盤の上で広げて、ハイドンの「アンダンテと変奏曲 ヘ短調」を弾き始めた。
抑揚をつけすぎず、明快で、少しも崩さない演奏で、それでいて薫るような典雅な趣があった。
フレーズの切れ端が宝石のように輝いていて、細密画のようなタッチには磨きがかかっている。
つねに背筋を伸ばして弾き、上体は椅子に対して垂直に保たれていた。
実に模範的なシルエットだが、ペライアは「模範」にはならず「模倣」することも出来ない人で、
サンソン・フランソワを真似たり、グールドやホロヴィッツを真似たりするようにペライアを真似することなど誰にも出来ない。
特徴となるものが表層的ではないので、「ペライアっぽい」演奏など不可能なのだ。
つねに、楽譜の陰に自分を潜ませ、作品の素晴らしさが伝わることを自らの使命としているので、
時間をかけて膨大な研究も行う。半分学者のような演奏家だ。

モーツァルトの『ピアノ・ソナタ第8番』では、聴衆が音楽に期待する幸福感に応えるペライアの的確さを見た。
そういえば、去年ロンドン響と共演したときに弾いたのもモーツァルトのコンチェルトだった。
譜面に書かれたどの音も、一つたりとも漏らさぬ完璧なコントロールで、
またしても「本番前まで猛練習をしている」ペライアの裏話を思い出してしまう。
(今日も直前まで楽屋で弾いていたのだろうか)
響きにあどけない透明感があって、若々しい。躍動感と生命力は年齢と反比例しているようで、ペライアの演奏というのは聴くたびに若くなるのだ。
モーツァルトの音楽の純粋さ、中空にある精妙な神秘に到達するには、充分な成熟が必要なのかもも知れない。
成熟することで、ますます子供に帰っていく。この無垢なモーツァルトは、聴衆が心から望んでいたものだ…と直観的に感じた。
客席に無言のうちに沁みわたる、声なき満足感が気配として伝わってきた。

ブラームスの「6つの小品」からの2曲と「4つの小品」からの2曲は、
複雑な和音の織物で、お洒落なラヴェルは「ブラームスというのは仕立てのいい頑丈な上着のようなものなのだ」と言ったが
その上質なツイードの織糸の一本一本が美しく浮き出してくるような音楽で
ブラームスもまた、ペライアのように学者肌の音楽家であったことを思い出さずにいられない。
音楽学者を友人にし、サロンで語り合い、ルネサンスの古い曲の研究もしていた。
夥しい音符が同時に鳴り続ける中で、懐かしさを感じる「歌」がつねに浮き彫りになっていたのは見事だった。

ペライアの「変わらなさ」は有難い。先週聴いたアファナシエフは来日のたびに新しいことをする人で
いつぞや、それまでのアファナシェフからは想像もできないほど速いテンポで弾いたときがあって、
休憩時間に通訳さんにバッタリ会ったので尋ねると「彼は今、恋愛をしているのでウキウキしているのよ」と教えてくれたことがあった。
ピーター・ゼルキンも、昨年聴いたリサイタルでは大きく変化した。男性性をすべて捨て去ったかのような枯淡の境地で、その先にあるものが気になった。
それぞれのピアニストが、それぞれに生きていることが嬉しい。
ペライアは、急激に芸風を変えることはない。彼の理念がドラマティックな変化とは無縁のものだからだろう。
それが、ジリジリとことの本質に近づいていって、演奏を聴くたびに大きな衝撃となる。
地味な生き方が少しずつ少しずつ、巨大な素晴らしいことに近づいているのだ。
ピアニストが何かを達成するのには、こんなに時間がかかるものなのか…。

後半のベートーヴェン『ピアノ・ソナタ第29番〈ハンマークラヴィーア〉』では
ペライアはこの長い曲を、人生の長い旅を辿るかのように、果てしない心の道のりとして弾いていたように感じた。
無私の心で、ベートーヴェンに「準じて=殉じて」弾いているのだが、それが同時に
ペライアの喜怒哀楽であり、会話や思い出や優しい人々の記憶であり、なまなましい愛であると直感したのだ。
ピアニストとはつまり、意識も無意識も音楽に差し出して芸術を創る。
そこには舞台裏もなく、台所も更衣室もなく、すべてが音楽の次元なのだ。
映画「シーモアさんと、大人のための人生教室」で、シーモア先生が「君のやることなすことすべてが音楽と関係なくてはいけない」と言っていたことを思い出す。
ペライアは、眠っている時間さえも音楽と一緒で、全人生が音楽から出来ている。
そうした人の演奏には、格別に高貴な質感が醸し出され、一秒一秒が宝石の輝きを帯びる。

そうまでして音楽と関わりあっている人の演奏会を聴くことができるのは背筋が伸びる経験で、
お金を払えば誰もが聴けるが、聴く側も自分の人生を見直さなければならない、
そうしなければピアニストに申し訳ない・・・という気持ちになった。
「客だから」とふんぞり返って聴けるような演奏会ではなかった。
花火が飛ぶわけでも、ハロウィンのおばけが登場するわけでもない。
奇跡はしんしんと、音もなく降る雪のようにホールを満たしていった。
温かく清潔なサントリーホールで、ペライアを聴きに集まってきた善き人々と
時間をともにできることがひたすら嬉しかった。

ハンマークラヴィーアの後にはアンコールはなし。
謙虚な表情でP席にもお辞儀をしていたペライアは、エンターテイナーでも哲学者でも詩人でもない
「ピアニスト」そのもので、そのシンプルな生き方には頭が下がる思いだった。
「私はただのピアニストです」という存在の余韻が、豊かな響きでステージに揺曳していた。