ベルリン国立バレエ「チャイコフスキー」マラーホフと分裂したナルシス

2011-01-30 11:32:31 | 日記
お裁縫に針供養があるように、バレエはチャイコフスキーの供養をしなければならないのである。

「白鳥の湖」も「眠れる森の美女」も「くるみ割り人形」も、あれらの壮麗できらびやかなバレエ音楽は

すべて作曲家の過酷な人生の「現実逃避」として創造されたファンタジーだからだ。

ボリス・エイフマンが93年に発表し、2006年に改訂した「チャイコフスキー」。

ベルリン国立バレエ団の来日公演で、芸術監督のウラジーミル・マラーホフが主役のチャイコフスキーを踊った。

冒頭のシーンからもう、胸が痛くてたまらない。コレラで死んだチャイコフスキーの最期を思わせるベッド。

青白い男が驚いた目で、石のように固まったポーズで寝そべっている。

全身の血が凝固して、悶え苦しみながら息絶えるというコレラの恐ろしさを、硬直したポーズで表現しているのだ。

その哀れな肉体を、うやうやしげに持ち上げて運ぶ人々の様子は、宗教画の「ピエタ」のようだ。

人から敬愛され、芸術家として尊敬されもしたが、心は漠として満たされず、空っぽのままだったチャイコ。

この暗鬱さは、最後までバレエ全体を支配する。

エイフマンの演劇的バレエで特徴的なのは、恐ろしいほど精密に女性心理を描き出すところだと思う。

「アンナ・カレーニナ」も、不義の愛に狂っていくヒロインの執着やら自己崩壊やらを、男の目線からではなく

女の主体として表わしていたが、それは肌寒くなるほど「本当の」姿だった。(だからエイフマンは天才なのだ)

「チャイコフスキー」でも、凄まじいのはチャイコフスキーの妻アントニーナで、

同性愛者の夫から相手にされない彼女のヒステリーは、珍獣キメイラのように爬虫類じみたグロテスクさで表現される。

最初はチャイコフスキーから偶像視されていたパトロネスのフォン・メック夫人も

エイフマンは「芸術家にほのかな性的願望を抱いている貴婦人」として描く。

みんな、チャイコフスキーに愛されたくてたまらないのだ。

これは、女性の性愛をあまりに鋭く描き切っていると思った。

女にとって本当に充実した性愛とは、男性の欲望にからめとられ強引に巻きこまれるようなものではなく

「相手に足りないものを与えて満たしてあげたい」という、母性愛の入り混じった欲望だと私は思う。

ここでは、寄る辺なき孤独を抱えた繊細なチャイコフスキーと愛し合うことで、女たちは幸福になるのだ。

「わたしの愛があなたを完全にする」という妄執にとらわれた哀れなアントニーナが、一度も夫との愛をはたせず

怪物のように狂気にとらわれていく姿は、彼女への同情なしには見ていられない。

最後は坊主頭の幽霊のような姿で出てくる。そこまでやるかエイフマン、とも思う。

そして、ここでチャイコフスキーを演じているのは誰でもない、あのマラーホフなのだ。

つけヒゲをつけても、あの優しくて美しい繊細な身体つきは隠せない。女の情愛のドラマも

マラーホフが相手だからこそ過激に発火する。

ところで、そのマラーホフのダンスが、とてもハードで過酷なのに驚いた。

片腕で逆立ちするようなポーズや、おのれの「分身」である隆々としたむ男性ダンサーとあやとりのような(!)複雑な踊りをする場面、

躁病状態で、大勢のバレリーナを相手に「イッちゃってる」ダンスを繰り広げるシーンなど

最初から最後まで、ほぼ出づっぱりで演じ続けている。

そして、マラーホフの肉体に負荷がかかればかかるほど、彼の顔はチャイコフスキーそっくりになっていく。

途中から、本当にマラーホフがマラーホフではなくなっていた。

マラーホフもまた、チャイコフスキーの人生の強烈さ、孤独の過酷さ、女たちの熾烈さ、すべてに酔わされ焼きつくされ

舞台の上では、完全に現実の肉体を奪われていたように見えた。

こういう作品は、本当に稀だ。

王子役としては完璧なマラーホフは、どのプリマにとっても「一緒に踊っていると夢をみているような」相手役だという。

ジークフリートとして、デジレ王子として、チャイコフスキーの愛の願望のような踊りを踊り続けてきた彼が

今、チャイコフスキーその人の辛苦をすべて引き受けている。

海が二つに引き裂かれてもおかしくない、奇跡の瞬間だと感じた。

失意のチャイコを囲む、野辺の優しい花たちのような白鳥の群舞も、あの世のような美しさであった。


マラーホフ、もう43歳だからそんなに先は長くないのだけど、ここからが凄いと思う。

凝縮された残りの踊りは、地を這ってでもすべて見なければと決意した。











ショパン国際ピアノ・コンクール入賞者ガラ しなやかな自己肯定のピアニズム

2011-01-24 13:50:10 | 日記
ワルシャワでの覇者たちのお披露目コンサート、二日目の23日を聴いた感想です。


演奏者は五人。ロシア人が三人、オーストリア、フランスから各一人。それらの入賞者たちの演奏は、ロシアと西欧との「質感の差」を鮮やかに感じさせてくれる側面もあった。

ロシア陣は、厳密で強靭。タフな自己を感じる音楽性であり、西欧は優雅で官能的でハーモニアスな音楽性。

それが類型的なイメージではなく、何かとても新鮮な衝撃をともなって耳に届いたのであった。

三位のダニール・トリフォノフ(ロシア)は、いったんピアノに向き合うと一種異様な集中力を見せる。

マズルカ賞に輝いたこともあり、作品56の後期の渋いマズルカを弾いたが、弱音を重ね、

音の反射だけでつくりあげられたようなショパンは、錬金術的な妖しさとミステリアスな響きに溢れていた。

全くオーソドックスではない、オリジナルで斬新なショパン解釈だ。

何かを模索したり、何色かに染まるのを待っている音楽ではなく、もう既に「見つけて」いる音楽なのだ。

一位のユリアンナ・アヴデーエワ(ロシア)は、鋼の精神力を感じさせる葬送ソナタを弾いた(この曲で「ソナタ賞」を得た)。

揺るぎなく、確信をもった解釈で、よく言われる彼女の「風変わりなショパン解釈」もこの曲には自然にハマっていた。

余計なものがない音楽で、ショパンの中でもこうした愛矯や華やかさがそれほどなくても成立する音楽は

アヴデーエワのストイックな個性に非常によくハマる。音楽の「裏色」に何故か強くプロコフィエフ(それも「戦争ソナタ」)を感じた。

五位のフランソワ・デュモン(仏)は、薫るようなエレガンスを「アンダンテ・スピアナート」とアンコールの「月の光」で披露。

評論家筋からもずいぶん評価が高かったようだ。曲もとても合っていた。

一番感心したのは、二位のルーカス・ゲニューシャス(ロシア)で、オーケストラとコンチェルトの一番を共演したが

完璧なテクニックで曲の構造を明らかにしていく解像度の高いアプローチで、ショパンの音楽が丸裸にされたような

驚きを感じた。客観的な演奏であり、楽想の美しさに溺れず、感情的にはとても乾いている。

長いパッセージの後に次のフレーズに移行するとき、コンマ何秒かのタイミングで的確な展開を披露し(これがいちいちかっこいい)

ショパン特有のレース編みのように入り組んだ分散和音や装飾音も、実に軽々と弾く。

技術的にとても完璧にコントロールされていて、演奏を通じて作曲家の脳をスキャンしていくような批評性がある。

そしてまた、明らかな「ピアノの新人類」としてのしたたかなDNAも感じたのだ。

「今回はたまたまショパンだけど、ショパン以外のものも早く弾きたくてたまらない」のだろう。

グールドによるベートーヴェンのコンチェルト一番のカデンツァ部分をアンコールで弾いた。

余裕しゃくしゃくなのだ。それが全く嫌味ではなく、健全な逞しささえ感じる。

今回のコンサートでは、完璧にルーカスのファンになってしまった。

もう一人のコンチェルト奏者は、大人気のインゴルフ・ヴンダー(オーストリア)。

聴衆の熱狂度から、ワルシャワでの「本当の一位」は彼であったともいえる。

ルーカスを聴いた後では、全く違う音楽に聴こえた。詩的で、ロマンティックで、みんなが欲しいものがすべて揃っている

愛らしいショパンである。本人の人柄さえ感じさせる。音楽の都で育ち、コンクールに勝つために

ポーランドで刻苦勉励した芸術家の、誠実な生き方が感じられた。

ルーカスが耳に新しいオーケストレーションのナショナル・エデイションを採用し、

インゴルフが昔ながらのパデレフスキ版を採用したことも、印象の違いとなってあらわれたのかも知れない。

個人的には、インゴルフルーカスとのコントラストの面白さに、これだけの多様性を集められるショパンコンクールの器の大きさに

いたく感激したのだった。

そして、このコンクールで今回日本人が残れなかった原因も理解できた。

日本人は、自己肯定が苦手である。彼らのように自分自身を肯定的に捉えるということが不得手な民族だ。

自己肯定は自己愛とも違う。客観性をはさんで、自分の長所を分析し、個性を慈しみ、積極的なアプローチへと発展させていく

ポジティブな精神コントロールのことだ。

「これがわたし」「これが僕」というブレない軸をもった五人のピアノを聴いて、やはり同じように自己肯定が下手な自分についても

色々反省してしまったのであった。


それにしても、インゴルフのグレーのモーニングはお洒落だった。コンサートではファッションも大事!
センスのいい人の音楽は、積極的に耳が反応してしまう。
男装風がトレードマークのユリアンナは、上着の丈が短すぎて、ときどきおしりの背中が見えていたのが残念でした。










エレーヌ・グリモー 心と身体の乖離を修復するための

2011-01-21 18:31:03 | 日記
この人のことを好きな理由は、芸術家としても人間としても、どこか居心地が悪そうな感じがするからだ。

以前コンサートで聴いたベートーヴェンのピアノコンチェルト第5番も、威風堂々とはかけ離れた演奏で、

曲に対して「なぜ?なぜ?」と問い詰めながら、始終寄る辺のない表情を浮かべているように見えた。

「皇帝」のヒロイックなところや壮麗なところは全部否定して、無窮動なスケールを繰り広げているようだったし

よくあるナルシスティックな演奏とは対極の解釈だった。

つねに何かに遅れをとっているか、先走っているような不器用さを感じる。

しかしそれがこの人の一風変わった魅力でもあるのだ。

いじめや引きこもりを経験したエキセントリックな少女時代、狼と同居するという過激な(?)ライフスタイル。

それらはやはり単なるエピソードではなく、この世に「当然のように勝ち誇って存在することができない」

グリモーの根本的な資質なのだと思う。人間として女として、という前提をはぎとった、ただの「魂」として

この世に存在したい人のようにも見える(この日の衣裳もありきたりなドレスではなかった)。


サントリーホールでのリサイタルの演目は、モーツァルトとベルク、リスト、バルトークという新譜のコンセプトを投影した選曲。

モーツァルトのソナタ第8番イ短調は、硬質でくつろぎのない音。くぐもった光彩のとぼしいモーツァルトは哀しげだが

矢継ぎ早に弾き飛ばされていくフレーズのなかに透明なメランコリーを感じた。

次のベルクのピアノソナタでは、軽やかな飛翔をみせた。ベルクの中の「天使」がふんわりと飛ぶ。

無調の和声の中に、暗号のような秘められたハーモニーを感じた。

最も感銘を受けたのは、後半のリストのロ短調ソナタで、不器用丸出しの重労働のような手さばきで、突然音楽が溢れだした。

音の反射や反作用を利用して効率的に弾こうなんて、思わないのだ。打鍵は厳しく格闘技のようで

繊細でもあり、無神経でもあったリストという人間の建前なしの本質がむき出しになる。

多くのピアニストが試みる「曲を通じて自己を魅惑的に見せる」という企みが

エレーヌ・グリモーには全くない。そのかわりにあるのは、曲とのストイックな格闘と、

違和感を孕みながらも完成を目指す無茶な力技だ。それが、緊張感のある輝きになる一瞬がある。

ゴツゴツの鉱石からはじけ出したダイヤモンドの音楽に、聴衆も大きく反応していた。


あれほど美しい女性ではあるが、グリモーは心と身体がバラバラな存在なのだ。スタート地点はそうだったと思う。

それを修復する役目をピアノが担っていたのだろう。ピアノが彼女を人間にした。

しかし、まだ人間になりきれていない、未開化のカオスを感じる。そのカオスは休火山のように閉じていて

やがて耐えきれずに爆発したときが、芸術家としてのグリモーの完成形なのだと、漠然と予感している。







METライブビューイング ヴェルディ『ドン・カルロ』

2011-01-16 00:26:23 | 日記
ヴェルディの中のヴェルディ、と呼びたいヘヴィ級の歴史オペラ。四時間以上もかかる大作である。

一幕から五幕まで濃密で手抜きのない、緊張感に溢れたドラマと音楽に圧倒される。

ヴェルディのポートレイト写真やカリカチュアは、いつも憂鬱で死にそうな顔をしているが

こういうオペラを作る男が陽気なわけがない。

ここのところ、お坊さんのインタビューにかかりきりだったこともあって、

スクリーンを見ている間中「一切皆苦」「世間虚仮」といった言葉が脳裏に浮かんでしまった。

ドラマの進行とともに、どんどんみんなが不幸になっていくヴェルディお得意のパターンだ。

オールスターでのキャスティングを固守しているMETらしく、今回も凄い歌手ばかり。

この役を30年近く歌い続けているという、フィリッポ二世役のフェルッチオ・フルラネットが圧巻で

まさにこの世は一切皆苦、といういぶし銀のような演技。どの場面も磨きこまれていて、心を打ち砕かれる。

有名な四幕のアリアは、老朽化した巨大な城が朽ちていくようなカタルシスがあった。

犠牲の死を遂げるロドリーゴは、あらゆるヴェルディ・オペラの中でも最高にヴェルディ的な人物。

大好きなサイモン・キーンリーサイドが、やはり凄い役作りをしていた。歌唱力もさることながら、

この人は相当な「芝居オタク」だと思う。流石は流石、シェイクスピアの国の人である。

キーンリーサイドはシラーの原作の大ファンでもあるという。深みがあるのはそのせいか。

汚れ役のエボリ公女を歌ったアンナ・スミルノヴァも業が深い感じでいい。

そこで、タイトル・ロールのドン・カルロを歌ったロベルト・アラーニャなのだが

声楽的な破綻はなかったものの、とても腑に落ちない余韻が残ってしまった。

幕が進むにつれて、安っぽい歌手に見えてくる。歌声にも、芝居にも、切り札が少なすぎるのだ。

テノール歌手としては決して嫌いではないし、ルイス・マリアーノの曲を録音したCDなどは

愛聴盤にしているほどだが、ドン・カルロのような役は彼には複雑すぎるのではないか?と思った。

カルメンのホセ役はよかったが、あれはカルメンに対してだけの感情を一途に表わせばいいので、

ドン・カルロのように、実の父に対して、腹心の友に対して、愛する女に対して、策略家の女に対して

それぞれ放射状に、複雑な感情を表現しなければならない役柄は、歌手にも高度な技量を求める。

そこで、他のキャストが余りに陰影に富み、役柄を吟味しているため、アラーニャの「浅さ」が

際立ってしまった。長時間にわたって難役を歌いあげただけでよしとするべきなのかもしれない。

しかし、この歌手はどこか無神経なところがあるのではないか、という疑念が残ってしまった。

(なんか意地悪な言い方でごめんなさい)

意外によかったのが、エリザベッタを歌った若手のマリーナ・ポプラフスカヤで、

硬質でクラシカルな、慎みのある声の持ち主である。起伏に富んだ豊かな声が好きな人には

地味に聴こえるかも知れないが、ヴェルディの悲劇のヒロインにすごく合っているのだ。

声以上に、顔立ちにも特徴のある歌い手で、ヴェルディが好んだ「宿命」を感じさせる顔だ。

楽天的な役より、悲劇が似合いそう。まさに「一切皆苦」といったような。

(「椿姫」を歌うことが決まっているらしい)

 色々生意気なことを述べてしまったが、ヴェルディは凄い!と思わせる充実のプロダクションであったことは間違いない。

「プッチーニなんか。やっぱりイタリアオペラはヴェルディ」という、ツウの意見が私もわかる年になったんだな。

胃もたれするほど濃厚で肉汁したたるヴェルディを、もっともっと食べたくなったのであった。

ちなみにこれは新演出で、六月の来日では旧演出が上演されるらしいです。











第41回イタリア声楽コンコルソ 感想

2011-01-11 15:16:53 | 日記
若い歌手の卵たちが集まるコンクール、というものを一度も聴いたことがなかったので楽しみにしていた。

ご近所のイタリア文化会館が会場。予選を勝ち抜いた43人の日本人が参加する。

年代別に分けられた本選の二日間のうち、9日の「ミラノ部門」(1983年以降生まれ)の後半を聴いてきた。

この日の後半に歌った8人は、全員が1984年生まれ(5人)と1983年生まれ(3人)。

中には国内外で既に活動している参加者もいるらしいが、確かに素晴らしいと思える歌手が何人かいた。

ピアノのコンクールでもそうだが、プロではない演奏者のパフォーマンスを聴くという体験は、とても勉強になるし、インスピレーションが湧く。

一流と呼ばれる人たちがこともなげにこなしているあれやこれやのことが、如何に長期の修練を要することかが理解できるし

「熟する前」の段階の人たちが見せてくれる、一種無防備な姿は、表現における「最も大切なもの」を思い出させてくれる。

男声はテノール二人、バリトン二人。それぞれ正反対の二人が歌ったので面白かった。

プッチーニとドニゼッティを歌ったテノールの参加者は、イタリア語の発音がとても不慣れな感じだが、声は前に出る。

部分的に裏返ったりするが、日本国内でプロとして活動している歌手にもこのレベルの人はいるので

まあまあ及第点なのかなと思っていた。が、次に「愛の妙薬」の「人知れぬ涙」を歌った参加者が素晴らしすぎた。

ステージに出てきた瞬間、あまりに不愛想だったので少し心配だったが、歌い出すと安定した輝かしいテノールで、

トランペットのような明るい響きもある。空間を満たしていくその質感が、前の歌手とは全然違っていて

「どうすれば声が出るのか」を深いレベルで知っているようだった(高柳圭さん)。

バリトンは、途中で崩れてしまった参加者と、終わりに近づくほど絶好調になっていく参加者のコントラストが鮮やかだった。

後者は「エルナー二」の「おお、若き日よ」を歌った。よく勉強して歌っている。滑舌もいい。

日本人の20代の歌い手にもこういう人がいるのだな、と感心した(野村光洋さん)。

ソプラノは「ステージ慣れ」しているタイプの参加者が何人かいて、あまり心を魅かれなかった。

コンクールだけどリラックスしてます、といったアプローチなのかもしれないが、ジェスチャーがうるさすぎて、そのぶん声にパワーがめぐってない感じの人も。

出てきた瞬間の「オーラ」も、特に女性歌手は重要である。

歌い出す前きから、なんとも意地悪な雰囲気を醸し出してしまう人もいるのだ。

そういうタイプは、声も表情も、勝手に出来あがっちゃってるような感じ。伸びしろを感じないのだ。

コンクールという場のせいか、客として聴いていても過剰にクリティックになってしまう。

「現時点」での実力を見せるというのは、実はものすごい多義的なことなのだ。

おっかなびっくり破綻のないように、ぎりぎりでも勝ちたいと思って準備してくる参加者は

なぜかこちらにもその心模様が分かってしまう。なんか無難に小さくまとめようとしているのが伝わってくるのだ。

勢いよく成長しているプロセスを感じさせる、リスクをガンガン犯しながらも楽しげに歌うタイプは

あまりいない。が、一人いた。「リゴレット」の「慕わしい人の名は」を歌ったソプラノで

彼女は高音にいくほど表現力が生き生きしてくる(中本椋子さん)。

こういう人が優勝して、副賞のミラノ留学を得てほしいものだが、結果はやや不可解なもので

コンクールにありがちな「現実」に収まった。

ここにもまた、「人間関係」という壁があるのだ。

しかし、人間の精神力ほど強いものはないし、聴衆の「感動」ほど正直なものはない。(と信じている)

この日、私を感動させてくれた歌手の皆さんは、迷わず世界に飛び出して行って欲しい、と思った。

実力のある歌手たちに、公平なジャッジが下される日を祈っています。