イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル

2016-12-14 11:53:26 | 日記
ポゴレリッチの弾くショパンの葬送ソナタを初めて聴いたときの驚きは忘れられない。
ピアニスト本人が作曲したような演奏で、感情的な抑揚がすべて抜き取られ、左手の煩瑣なフレーズは驚くほど均質で、フォルテの打鍵はギロチンのようだった。
演奏家は作曲家のもとにあっては、下僕のような存在だという謙虚なピアニストもいる。
ポゴレリッチの演奏は、すべての音符がピアニストの奴隷であった。
20代前半のグラモフォンの録音はショパンコンクールに参加した翌年のもので、この「解釈」でポゴレリッチは
コンクールの落第生となり、アルゲリッチはそのことに怒って審査員を放棄してワルシャワから帰国してしまった。

「これはすごい未来のある演奏だ」と思ったのを覚えている。
当時はロックに夢中で、それほどたくさんのクラシックを聴いていたわけではなかったが
ポゴレリッチは未来的なロック・スターのような存在に思えたのだ。
彼の才能は複合的なもので、肉体的には大きな手と強い指の持ち主で、精神面で強靭なスタミナがあり、その上頭脳明晰で異常なほどの集中力があったが
それを統合しているのは、独特の未来感覚であった。演奏を通じてイコールでつながれているとは思えないものをつなげる魔法を見せてくれる。
「演奏家は作曲家と対等な存在である」という発見をしたのは、彼の演奏によってであった。

2016年のサントリーホールに現れたポゴレリッチは淡々とした表情で
譜めくりの女性をともなってピアノの前に座り、いくつかの楽譜をばさっと床に置いた。
客席から見えるものといえばピアニストだけなのだから、この行為にも意味がある。
楽譜は遺書であり、聖書のようなものであると同時に、単なる印刷物であり
音楽とは紙という偶像によって崇め奉られるものではないのだ。
最初の二曲はショパンであったが、ポゴレリッチの異形性はショパンによって最も先鋭的に表れると確認した。
ショパンの音楽性を貫く声楽的な呼吸感をポゴレリッチは断絶し、意図的にソノリティを崩壊させることによって、全く新しい次元を登場せしめる。
それはショパン演奏にとって逸脱的であると同時に、発見であり、新たな創造であり
「メロディアスに歌うこと」で大方似たり寄ったりになる解釈への警告でもある。
指針となるのは譜面であり、実はポゴレリッチはすべての曲を暗譜しているのだと思う。
『パラード2番』と『スケルツォ3番』は期待以上のポゴレリッチ節で、テンポも彼らしかった。

この次に演奏されたシューマン『ウィーンの謝肉祭の道化』は恐るべき名演だった。
特に最後の二曲~「インテルメッツォ」と「フィナーレ」には圧倒された。
シューマンではそれほどタッチにエキセントリックな歪みが感じられず、ひたすら一途に
強打を重ねていくピアニストのパワー、音楽の喚起力に驚かされた。
ほとんどオーケストラのような世界で、低音部のダイナミズムと、チェレスタやヴァイオリンを思わせる高音部のコントラストが卓越していて、たった一人の人間が奏でているサウンドには思えなかった。
ペダルは抑制され、全体的に乾いた感じのタッチで、ピアニストの緻密な「文体」が全体を構成しているのに驚かされた。
文体とは表現者にとって生命と同じで、強烈な文体とは教育の賜物ではなく、直観によってもたらされるものだと思う。
それゆえに、容易に変更したり、否定したりすることは死に等しいのだ。

休憩の間、ここ一か月ほど自分が実感しているクラシックの強固な保守主義について考えていた。
「ねばならない」という権威的な語調と、予定調和をこれほど好むジャンルはなく、
クラシックを長年愛好してきたと思われる論客ほど、予定調和から外れたことに激しい拒絶反応を示す。
現在58歳のポゴレリッチは、一体どれだけの保守勢力と闘ってきたのだろう?
舞台にいるときピアニストはたった一人なのだ。そこで容易に「処刑」されてしまうような斬新な演奏を続けてきた。
この勇敢さを支えてきたのは、演奏家を貫いている巨大な直観なのではないか。
直観をくだくだ説明しても仕方がない。身体を張って証明するしかないのだ。演奏家は言葉を使わず音楽で示す。
それは闘っているように見えて、愛と平和の意識に満たされた行為であり、
彼がピアノを弾き続けるのは、思いがけない「イコール」の魔法を証明するため
対立しているように見えて、実は双子の兄弟のようである二つのものを繋げてみせるためだと思う。

後半のモーツァルト『幻想曲』とラフマニノフ『ピアノ・ソナタ第2番』は恐るべき密度感で
夥しい音が、その背後にある墨のような静寂とともに立ち現れた。
ポゴレリッチは前半と同様、ひとつの曲が終わっても椅子に座ったまま次の曲をはじめる。
古典派とロマン派のそれぞれの様式が、分断されず溶け合って、巨大な宇宙を作り上げていく感触があり、不安と安心感が同居する、グロテスクで壮麗で美しい時間が立ちあらわれた。
ラフマニノフとポゴレリッチはこんなに相性がよかったとは知らなかった。
サントリーホールにはやはり魔法が存在するのだろうか。聴衆の声なき声が響きわたるのが肌で感じられ、
ピアニストへの感嘆が、リサイタルの全体を「ともに」作り上げていたことに気づいた。
ポゴレリッチはそんなこと、とうの昔から知っていたのだ。
聴衆と演奏家はひとつの存在で、違和や対立の感情が巻き起こったとしても、やはりひとつのものなのだ。
すべての曲を弾き終えると、ポゴレリッチは舞台から東西南北の客席に、大柄な身体をほぼ直角に曲げて深いお辞儀をした。
アンコールはシベリウスの『悲しきワルツ』のピアノ編曲版で、咄嗟に先日のヤンソンスを思い出した(ヤンソンスがアンコールで振ったのはグリーグの『過ぎし春』だったが)。
音楽家の人生は愛のための闘いなのだ…巨大な創造力に押しつぶされず、
芸術家の狂気の神話に回収されることもなく、強い生き方を見せてくれるポゴレリッチが有難くて仕方なかった。
この夜、ホールは二階奥までほぼ埋まっており、そのことも(数年前の閑散とした客席を思い出すにつれ)嬉しい驚きだった。




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