ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

八幡町をゆく(20) 寛延一揆・沼田平九郎(1)

2024-06-10 06:16:05 | 加古川市八幡町をゆく

   八幡町をゆく(20) 寛延一揆・沼田平九郎(1)

 寛延一揆は、寛延二年(1749)正月から二月にかけて荒れ狂いました。

 この一揆は、その規模の大きさ、後世への影響から見て、姫路藩政史上最大の農民闘争でした。

 火の手は、野谷新村(現:加古郡稲美町)からはじまりました。

 野谷新村の伊左衛門(いざえもん)は、五人組の組頭を勤めており、彼は、日ごろから豊かでない村への御用金や年貢の増加に反発していました。

 野谷新村は、西条組大庄屋・沼田平九郎(現:加古川市八幡町中西条)の支配下の集落でした。

 平九郎は、かねてから、あまりにも藩に追従しているという風聞があり、平九郎に対する不満が、「平九郎宅を打ち壊せ・・」という機運へと高まっていたのです。

 このような平九郎に対する不満は、西条組だけでなく、他の組の村々からも非難されており、よほど目立った存在であったようです。

 寛延二年の正月・10日頃から「西条組大庄屋を討ち潰すべし・・」という張り紙があちこちで張り出されました。

 正月16日七ッ時(午後4時ごろ)村々で早鐘がならされ、大勢の人々が鳶口や熊手を持って押し寄せました。

 まもなく、平九郎宅は散々にうちつぶされました。

 この打ち壊し計画の中心は伊左衛門でした。

 姫路全般一揆は、平九郎宅打ちこわしという一件から姫路藩を揺るがす全藩一揆へと広がりました。

 一揆の後には、厳しい取調べがまっていました。

  *『加古川市史(第二巻)』、『加古の流れ』(加古川市史編さん室)参照

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八幡町をゆく(19) 加古新村(現:稲美町)の誕生

2024-06-09 08:19:33 | 加古川市八幡町をゆく

    八幡町をゆく(19) 加古新村(現:稲美町)の誕生◇

 江戸時代のはじめ、印南野台地には、広大な原野が残っていました。

 この原野の開拓について『加古新村由来記』は、次のように記しています。



 中西条村(加古川市八幡町中西条)の才兵衛は26才の時から、庄屋を勤めていました。

 村の東の広大な原野の開拓を考え、3年間、麦・稗・大豆・小豆などを植え、低いところには、稲の種を蒔いたところ実を結んだのです。

 さらに3年間、実際に住んで寒暑に耐えられることも確かめました。

 才兵衛は、上西条の喜平次に台地の開拓を説きました。

 喜平次も賛同しましたが、開拓のための資金が足りあせん。

 才兵衛は下村の治兵衛(下村の本岡家の四代目の当主)に相談しました。

 彼も同意し、三人は印南野台地の開拓を固く誓い合ったのでした。

 姫路藩に開拓の願いを大庄屋を通じ出したのです許可でませんでした。再度願い出しました。

 ついに、許可になり、さらに姫路藩からの援助も得ることができました。

 藩から、新しい村の名前を問われました。

 才兵衛は、「加古の二字は、才兵衛の祖先よりの苗字のため“加古新村”と名づけたい」と答えたところ、「苗字を村名にすることはできない」と認められません。

 そこで、才兵衛は、加古新村では「沢」の名前に改めると述べ、村名を「加古新村」と名づけ許されました。

 入村する者には、藩から材木・竹木・米の支給もありました。

 才兵衛・治兵衛・喜平次は、「頭百姓(とうびゃくしょう)」として村に居住しました。

開発がはじまって6~7年のうちに家数163軒、人口800人あまりの村となり、

 延宝八年(1680)、上西条の氏神・八幡宮を加古新村に勧請しました。

 加古大池の側の神社(写真)がそれです。

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八幡町をゆく(18) 虫送り

2024-06-08 06:34:49 | 加古川市八幡町をゆく

 

     八幡町をゆく(18) 虫送り

 今は消えてしまいましたが、かつて農村で行われた大切な行事がありました。

 「虫送り」です。

 蝗(いなご)などが大量に発生した年は、たちまち生活は破壊されてしまいました。

 中西条(加古川市八幡町)の山本定次さんは、『ふるさと・やはた』に「除虫祭(虫送りまつり)」ついて寄稿されています。

 ・・・・この祭りは、氏神八幡神社で毎年七月の土用三郎(土用に入ってから三日目)の日、稲の害虫駆除を主として、一般農作物の害虫を除き豊作を祈念するお祭です。

 ・・・夕方から、各農家より麦わらの束を持ち寄って神社にあつまり、神主さんより種火をいただき、各自持っている藁束に火を点じ、その火が消えないように振り回し、「・・・虫送りせんかいなあ、さねもりさんのお供せい・・」と言いながら、一列縦隊の行列をつくり、夕闇の細いあぜ道を通って、加古川の太子岩の左岸まで送って行きました。

 最後は、河川敷に掘った穴に、その火を投げ込むのですが、その道中の有様はまことに壮観でした。

 後日、「八幡神社御祈祷御守護」と書かれ、その右に小さく「五穀豊穣」、左に「家内安全」と書いて印を捺したお守札の配布を受け、それを各田の水口にさしました。・・

 こんな虫送りの行事も、農薬の普及した現在姿を消してしました。

*『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)参照

 挿絵は、淡路市北淡町野島の「虫送り」、『暮らしの歳時記』(のじぎく文庫)より

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八幡町をゆく(17) 大家・本岡家

2024-06-07 07:56:40 | 加古川市八幡町をゆく

 

      八幡町をゆく(17) 大家・本岡家

 八幡町下村に大家(おおや)という、近在に知られた旧家がありました。

 一目で分かる杉の生垣のある大きな家でした。

 大家は、元禄7年(1694)に建てられたもので、江戸時代前期の住宅構造を知る上で貴重な建築で、「県指定文化財」に指定されています。

 八代当主の本岡嘉平治の時、大工船町八左衛門が建てた、と棟札に記されています。

 大家(本岡家)には、当時の農家にしてはめずらしい平書院、長押などが配置されており、 土間は、竹の簀子(すのこ)天井で豪快な梁が縦横にとおり、上が「つし」です。。

 (つし・・農家で天井や屋根の下につくった物置部屋)

 本岡家は、「元、越中・越前に所領を持った武士でしたが、同地方に猛威をふるった一揆の鎮圧に失敗し、帰農を決意し、姻戚の野村城主(八幡城野村)をたよって、わずかな郎党とともに、この地に落ちのびた」と伝えられています。

 四代当主、本岡治兵衛は、万治元年(1658)上西条・喜平次、中西条・才兵衛とともに、印南野(加古新田)の開発に当たりました。

 寛文元年(1661)、藩の許可を受け、近郷の住民を指導し、ついに百十一町歩あまりを開拓しました。

 現在、大家(本岡家)は、加古川少年自然の家のキャンプ場の奥に移築・保存されています。

 *写真:現在、加古川少年自然の家のキャンプ場の奥に移築・保存されている本岡家。

 *『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所)参照

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八幡町をゆく(16) 法華塔(下村)

2024-06-06 07:45:46 | 加古川市八幡町をゆく

  

      八幡町をゆく(15) 法華塔(下村)

  1830年、時代は文政から天保へと変わりました。

 天災が続くので、縁起をかついでのことだったのですが、皮肉なことに天保年間(183043)は、天候不順・凶作と飢饉の時期となってしまいました。

 とくに、天保四年(1833)以来ひどい気候不順・凶作・米価暴騰、ひいては飢饉がつづき、天保七・八年は頂点を迎えました。

 京都や大坂でさえ、多数の餓死者がでました。

 下村(加古川市八幡町)でも、事情は同じで、さらに悪いことにハヤリ病が流行したのです。

 村人は困り果て、この「法華塔」(ほっけとう)を建て祈祷をしました。

 不思議なことに、それ以来しばらく悪疫はやんだといいます。

 明治30年(1897)、再びこの地に悪疫が発生しました。

 村人は、天保のころの出来事を覚えていました。法華塔を清掃し、祈祷をしました。

  

 なお、法華塔が建てられたのは天保九年(1838)八月のことでした。

 *『ふるさと・やはた』(加古川農業改良普及所

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八幡町をゆく(15) 猫池の伝説

2024-06-05 09:48:40 | 加古川市八幡町をゆく

 

            八幡町をゆく(15) 猫池の伝説

 「猫池」の伝承です。

 八幡町上西条・中西条は、加古川に近いにもかかわらず十分な水が得られませんでした。

 そのため、村の南の印南野台地のくぼ地に池を造り、その水を使っていました。

 猫池は、享禄4年(1531)、当時の沼田若九郎等が指導し、村人と共に造ったと伝えられています。

 猫池の水は、その後上西条・中西条に大きな恵をあたえました。

 しかし、台風や大雨の時には、しばしば堤防が切れ、田畑や民家を押し流しました。

 いつしか、猫池に伝説が生まれました。

 村人は、堤防が切れない方法はないかと考えたのですが、いい考えが浮かびません。「人柱を・・・」という意見もありました。 

 そんな時ででした。「猫を堤に埋めると堤が切れなくなるであろう・・・」という神のお告げがありました。

 そこで、猫八匹を堤防に埋め、大がかりな工事は完成しました。

 以来500年間、堤防は切れることなく満々と水をたたえています。



 もっとも、猫池は形があたかも猫が横たわっているようにみえるところから、いつの頃からか人々は、猫池と呼ぶようになったというようです。



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八幡町をゆく(14) 宮山古墳

2024-06-04 10:16:40 | 加古川市八幡町をゆく

       八幡町をゆく(14) 宮山古墳

 八幡町野村の手前で、道は坂をつくって八幡町へと急降下します。

 その坂を下る手前辺りから印南野台地が西へ舌を出したように城山(じょやま・加古川市神野町)にむかって伸びています。

 この舌のような台地こそ、古代文明の舞台であり、縄文・弥生・古墳・白鳳時代の人々の生活の跡がいっぱい詰まっています。

 今日は、『加古川市の文化財』を参考にして、宮山遺跡を訪ねてみます。

 宮山(古墳)遺跡は、八幡町上西条と中西条の間で、印南野台地から更に北へ突き出たところにあります。

 昔、ここは上西条と中西条の共有地で、自由に土を取っていました。

 昭和39年頃、この土砂が採集されていた場所から遺物を含む層がみつかりました。

 昭和40年に一部、発掘調査が行われ、縄文時代後期の遺跡で、住居址や祭祀跡とみられる遺構が発見されました。

 また、山頂部に古墳が集中しており、宮山大塚(中期古墳)の他、後期古墳五基が確認されてました。

 保存状態はあまりよくありません。江戸時代に盗掘されたらしい。

 *『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)参照、写真は宮山古墳の一基。

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八幡町をゆく(13) 銅鐸のみつかった古墳(望塚)

2024-06-03 07:20:33 | 加古川市八幡町をゆく

   

   八幡町をゆく(13) 銅鐸のみつかった古墳(望塚)

  まず、東沢1号墳を地図で確認ください。



 東沢1号墳は望塚(ぼんづか)があった水田の下から新たにみつかった古墳です。

 東沢1号墳は、5世紀前半に造られた古墳であることが明らかになりました。

 古墳の斜面には、葺石(ふきいし)が比較的良好に残存するとともに、古墳の周りを囲む周溝内からはたくさんの埴輪(はにわ)や土器が出土しています。

 この他、弥生時代(約1800年前)の竪穴住居跡もみつかっています。

 少し説明を加えます。

 上記の説明文の「東沢1号墳は、望塚(ぼんづか)があった水田の下から新たに見つかった古墳です。

 望塚は、加古川市内で唯一の銅鐸が発見された塚です。

 銅鐸は、弥生時代の青銅器です。

 東沢1号墳は、もちろん古墳時代の塚です。

 歴史は、弥生時代から古墳時代へと移行します。

 とすると、少しおかしなことになります。

 新しい古墳時代の遺跡の上に、古い弥生時代の望塚があったことになるのです。

 『加古川市史(第一巻)』で、望塚についての記述を読んでみます。



 「・・・(望塚の)銅鐸の出土した年代については諸説があり、一致しない。

 大正二年、同三、四年、同七年、同十三、四年の五つの説がある。・・・・銅鐸出土に関しては、こうした基本的なことさえわからにことが多いのである・・・」

 塚に大正十四年八月、末沢隆次建立」の文字がありますが、何らかの理由で当時すでに発見場所もはっきりしなくなっていたようです。

 そして、場所の確定のないまま、「この辺にしておこう」と土盛りをして望塚としたのが真相に近いようです。

 東播磨南北道路が望塚の上を通過することになり、遺跡の調査が行われて、このことが確かめられた。

 現在、望塚発見場所は少し東へ移動しています。写真は、新しい望塚。

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八幡町をゆく(12)  行者塚古墳③・加羅への援軍

2024-06-02 10:09:26 | 加古川市八幡町をゆく

 

   八幡町をゆく(12)  行者塚古墳③・加羅への援軍

 古代史の専門家は、行者塚出土の大量の埴輪(写真は一部)の研究等から行者塚は、5世紀初期の古墳であると結論づけています。

 ここからは、素人()の無責任な想像を書いてみます。

 行者塚古墳の出土品の中には朝鮮半島南部からの遺物が多くあります。

 これは中央(奈良地方)の豪族が、朝鮮南部から得た品物を、地方の豪族に与えたものとも考えらますが、それにしては行者塚古墳には多すぎます。

 行者塚古墳の主は、中央の豪族にとって、それほど特別な豪族であったとも思えません。

 5世紀の朝鮮半島の情勢は、百済・高句麗・新羅・加羅(から)、それに中国が複雑に絡み合っています。

 つまり、お互いに相手の領土を狙っていたのです。

 行者塚古墳から出土品から考えて、行者塚の主は加羅(任那)と関係が深いと想像されます。

 加羅は、これらの国の中でもっとも弱小の国(地方)でした。

 とするなら、当然加羅は、他国と同盟を結んだり援軍を求めたりしたのでしょう。

 西日本や北陸の海岸にある古墳にも、行者塚と同じく、加羅地方の遺物を多く持つ古墳があります。

 これらの古墳の主は、加羅へ直接援軍を送ったのでしょう。

 そして、「その見返りとして、加羅からたくさんの宝物を得たのではないか」と考えるのです。

 あくまで、素人の推測として読んでください。

*写真(行者塚古墳出土・盾形埴輪)

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八幡町をゆく(11) 行者塚古墳②・朝鮮南部とのつながり

2024-06-01 07:07:30 | 加古川市八幡町をゆく

     八幡町をゆく(11) 行者塚古墳②・朝鮮南部とのつながり

 行者塚古墳からたくさんの遺物が発掘されました。

 そのうち、先に紹介した帯金具は中国・晋(しん)の時代のもので、朝鮮半島の金海(朝鮮南部)から伝えられたと考えられています。

 中国大陸のものが交易により朝鮮に渡り、それが日本へ交易により伝えられました。

 その他、多くの種類の遺物があります。

 巴型銅器(写真)は、新羅の慶州・釜山の金海あたりの古墳でも発見されています。

 それに、馬具なども朝鮮南部製と考えられています。

 そのほか、鉄鋌(てってい・鉄の板がね)等が発見されているが、それらは朝鮮半島南部のものと思われます。

 今後、鉄の成分分析が行われると更に詳しく生産地等が特定されるでしょう。

 つまり、行者塚古墳の遺物は大陸の、特に朝鮮半島南部の香りをいっぱい詰め込んだ古代のタイムカプセルです。

 それでは、行者塚古墳の築かれた時代、行者塚古墳の被葬者はどんな人物なんでしょうか。・・・・

 *『開かれた古墳時代のカプセル(記録集)』(加古川市教育委員会)参照

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