元外資系企業ITマネージャーの徒然なるままに

日々の所感を日記のつもりで記録

夏目漱石の「三四郎」を聞いていると、思わず「そうだ、これだ」と膝を打ってしまう事が度々ある。この「三四郎」もただの青春小説ではない。登場人物に語らせる世相が見事だ。

2016-11-01 09:22:39 | 読書
夏目漱石の「三四郎」を聞いていると、思わず「そうだ、これだ」と膝を打ってしまう事が度々ある。この「三四郎」もただの青春小説ではない。登場人物に語らせる世相が見事だ。

落語の小さんと圓遊を比較するセリフもあって、今なら小さんが小三治、圓遊が権太楼って感じじゃないでしょうか?(敬称略)
要は権太楼師匠が演るから面白い、一方小三治師匠の芸は小三治師匠が消えてしまうんです。
以前私は、名人系とお笑い系と称したのと同じですが、表現方法が文豪とは天と地の差。

以下「三四郎」より
「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものぢやない。――圓遊も旨い。然し小さんとは趣が違つてゐる。圓遊の扮した太鼓持は、太鼓持になつた圓遊だから面白いので、小さんの遣る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。圓遊の演ずる人物から圓遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞ふ、小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したつて、人物は活溌溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい。」

小三治師匠
「落語というのはセリフをしゃべっているのでなくて、その人、その人の気持ちに瞬間、瞬間なっていく。セリフは気持ちの現れですから、セリフから気持ちが入っていくんじゃなくて、気持ちからセリフが出てくるもんだと、わたしは思っています。」

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