ひまりんのつれづれ日記

感じるままに何でも書けたら・・・

ハロウィーンの思い出

2005-10-31 23:25:29 | アメリカでの思い出
おしゃれなお店はハロウィーンの飾りをしたりする今日この頃、パンプキンを見ると
19年前の10月31日を思い出す。
一番下の娘はアメリカ西海岸のカリフォルニア、ロサンゼルスで産んだ。当時銀行のロサンゼルス支店に勤務していた主人に付いて滞在していた。(1985.6-90.1)

25日に待望の娘を産んで、3日くらいで帰ってきたばかりの、産んで六日めなので
今年のハロウィーンはしないつもりで、パンプキンなどの飾りもせず、門灯を消して、静かにしているつもりだった。
ところがである。暗くしていれば来ないはずの、トリック、オア、トリートのギャングたちがなんかの拍子で家にも来たのである!
来たのでしょうがなくお菓子をひとつまみずつあげると、それを見ていた子どもたちの集団が次々とたずねてくるのだ!!
皆思い思いの変装をしてくる小さなギャングたち。
うちのお菓子はすかっりなくなり、非常事態にびっくりした長男5歳が、自分のもらってきたお菓子までを差し出して供給!
あの必死の、かわいかった長男の様子は今も目に焼きついている。
あの頃は子どもが小さくて大変だったけど楽しかったねと、今も夫と言うことがあります。

やっぱ宅急便だよね。

2005-10-28 22:57:29 | 家族のこと
風邪を引いて、元気をなくした次男に電話と、荷物を送った。
次男の好きなビーフジャーキーとかコンビーフとか、ストレスと戦うあなたにギャバ入りチョコレートとか、もろもろのものと、家で取れたすっぱいミカンなど・・・あと衣類や靴下、コタツの敷物なども追っかけて昨日送った。
少しは彼のためになると思うと、私も気が落ち着くし、彼もつつましく暮らしているので、助かるだろうと思って。電話の声はだんだん元気になったみたいだ。
家族全員彼と話したし・・・父親もいいアドバイスをしてやったようだ。
私は頭も悪いし、彼を力づける言葉は浮かんでこないから、私のできるのは荷物を送ることくらいかと思ったしだい。
喜んでもらってよかった。北で修行をさせている気がするよ。
とにかく健康で学生生活送ってね。
私も頑張るからさ。

昨日パックンが!

2005-10-25 13:53:56 | Weblog
昨日わがパート先に、パックンマックンのパックンが取材に来た。彼がそばにたまたまいた若い女性と握手していて、その女性が「ああテレビで英悟でしゃべらナイトに出ている方!」なんて言うので私も彼に気づき、まぢかで、ああお笑いの、と思って見つめるがパックンという名は思い出さなかったので、2階に退散、同僚に下に芸能人が来てるよ、あのお笑いの外国人と報告、同僚もすぐ見に行く。彼はやはりハンサム、背はそんなに高くない、175センチくらいかな。
なんの取材かわからないけど、そのうちテレビに出るでしょう。
わが職場には時々有名人が来るのがいいところ?かな。

S君、だいじょうぶ?

2005-10-24 23:14:19 | 家族のこと
元気がないからと電話してきた、十和田の次男、だいじょうぶかい。君はまじめでいつも一生懸命で、不器用で、人がいいから、傷つきやすいんだよね。
平気かな、風邪気味みたいだよね、気持ちが弱くなっているのかな。
気が弱くて、不器用なのは私に似てるもんね。
もう少し近ければ飛んでいけるのにね。
一人暮らしの若者はどうやって、気を紛らわしているのだろう。どうやって健康を保っているのかな。親はどうやって元気付ければいいのだろう。
行ってやるのがいいのか、行かないほうがいいのか。健康で過ごしてほしい。あの寒い土地でも。

私が涙もろいのは・・・

2005-10-22 18:05:13 | 身辺雑感
私は人より涙もろいほうだと思う。悲しいときには涙が止まらなくなる傾向がある。
なぜ私が涙もろいのかと考えると、わたしは母の涙によってできた子どもだからなのかと今日思い当たった。
私は四人兄弟だが、実は兄ふたり、姉一人の次に加代子ちゃんという生後二ヶ月で死んだあかちゃんがいた。加代子ちゃんは父の肺炎が移って、死んでしまったと言う。母は加代子ちゃんが死んだあと、ずっと泣いて暮らしたという。そりゃそうだろう、赤ちゃんを2ヶ月で失うなんて・・・それで私が授かったと言う話だ。そのせいか私は小さいときから厚着をさせられ、過保護に育ち、いつも母の後ばかりくっついて歩く、甘ったれのこどもだった。
だから私は兄弟でただ一人運動神経が鈍く、兄弟で一番涙もろいんだろうなと今思うのだ。
母は昔、加代子ちゃんは頭のよさそうな子だったとよく言っていた。すみませんね~バカな私が生まれてきて

25年前に逝った友のこと

2005-10-18 15:13:57 | 友のこと
最近天気が悪くてさえない気分。少し体力をつけもっと働こうかなと思う今日この頃。知り合いのご家族が亡くなったなどと聞くと、25年前に亡くなった友、S.さち子さんのことを思い出す。
彼女は花にたとえるなら、さざんかのように清楚で、賢く、性格がよく、まじめな人だった。
私は25年前の12月の半ばに結婚したのだが、彼女はその結婚式の日にスピーチをしてくれ、二次会にも残ってくれ、帰りは疲れたからと言って、横浜青葉区の自宅までタクシーで帰ったと言う。
その2週間後の12月26日の早朝彼女は帰らぬ人となった。折りしもその日はお母さんと沖縄旅行に行くと約束した日であった。お母さんが早朝電話をして、ご主人が見に行くともう息絶えていたとのことだった。心臓系の病気だったと思う。
今で言えば過労死であろう。
彼女は中学の英語教師をしていて、葬儀は自宅近くのコミニティホールで行われ、
生徒さんもたくさん来て、盛大な心うたれるものであった。
善人は早死にをするというのは本当だなと思った。最後までやさしくしてもらい、
お礼の言葉もつたえないうちに逝ってしまった。
私たちが彼女を思い出すとき、いつも28歳のままの美しい姿。
今は天国でお父さんに親孝行をしているのだろうか。あのちょっと理屈っぽい口調と笑顔で・・・

どうもありがとうね。スケッチブックを持って一緒に公園に出かけたりして、その後お食事したよね。この前六義園に行ったとき、ここもSさんと来たなと思い出した。
一生心に残る友達Sさん・・・すばらしい人だった。

お部屋に別れ

2005-10-14 20:15:33 | 家族のこと
2泊3日の十和田への旅も10日月曜日で終わり。今回は来ても息子が部活と文化祭で忙しいことはわかっていたから、一人で行動することになるだろうと思っていたが、会えたのは夜と寝るときと朝と、9日昼馬術部の部室に行ったときですね。
でも夕食は作ってやれたし、ダイエーまで1時間くらいかけて歩き、カーテンもつけてあげることができた。和室のほうの2箇所だけだけど。
9日は天気がよかったから布団も干してやれたし、 シーツも洗ったし、トイレも掃除してあげられた。なんせ料理も、掃除も片付けも得意なほうでない母親だから、十分なことはしてやれないけど、おいしいと言ってくれたし、家ではにこにこしてるし・・・
土曜は1時間半、日曜は2時間~3時間くらい歩いたと思う。1日目でくつずれができ、2日目からは息子のズックで、かかとをつぶしてあるのを借りてせっせと歩いた。いいダイエットになった。
3日目は12時に息子のアパートを後にしました。忙しいのをいいことに別れもせずに、置手紙もせず、息子が学校に行くときに「12時には帰るからね」と言っといて。そっけないのが一番です、別れるときって悲しいからね。
子どもをずっとそばに置いておきたいけど、わたしのそばじゃ大人になれないよね。
5時過ぎに自宅近くの駅に着き、食事のときに電話をかけたら、お母さんがいなくなって寂しくなったと言ってくれた。ほんとに素直な子を持ちました。