飛行場・滑空場・不時着陸場・場外離着陸場・空港・戦跡など

    思いがけない所に戦跡があったりします。
     2度と愚かな戦をしない、させない意味も込めて調べてみました。

(65)陸軍 關東松山飛行場 (唐子飛行場)

2017-01-15 00:50:50 | 飛行場関係


前回の若葉駅から東武東上線でさらに下ると森林公園駅(1971年3月1日開業)近くに敗戦の為

未完で使用されなかった飛行場がありました。

地元では唐子村(現 東松山市)と宮前村(現 滑川町)にまたがっていた為、唐子飛行場や新郷の飛

行場と呼ばれていました。

広さはおよそ200ヘクタールで1000m×50m~60mの滑走路が1本ありました。



この飛行場図はすでに廃校になってしまった埼玉県立玉川工業高校郷土研究部の作成ですがこれら

の資料や滑川高校郷土部、松山高校歴史部の資料も郷土史誌と共に参考にさせて頂きました。

當時ここの第232飛行場大隊に属していた元兵隊によると關東松山飛行場は施設や設備を整えて

から付近にある小原(熊谷南)飛行場や川谷田(桶川)飛行場を支所として附近の中心飛行場とな

る予定だったそうです。

そして別件で特操について調べていると他資料に同じ宮前村ですが少し離れた場所の慶徳寺に

第62航空地区司令部が置かれていたとありました。



この2つのことが気になり軍の資料を探すと戦後、軍需品の整理引き渡し書類を見つけました。

そこには62aB(航空地区司令部)の担任區域が書かれており松山・坂戸・桶川・熊谷南と4つ

の飛行場名がありました。


この飛行場は大小の格納庫や十数棟の三角兵舎が出来上がっていました。掩体壕は5つ作られ土塁

の上に屋根も簡易乍らあったようです。 

現在の滑川町羽尾と水房には燃料貯蔵用の横穴も掘られました。

飛行場建設工事は1943年初頭から始まったそうですが松林や沼も多くあり東上線や国道の移設

迂回工事もありました。

重機の無い手作業の所為か多くの期間がかかったようです。

囚人、舊制中學生、青年學校生、國民學校髙等科生や朝鮮の人達は第232飛行場大隊500人以

上が5月に来るまでは主な働き手だったようです。

未完な筈の飛行場ですが當時の住民がここで3回の試験飛行をしていたと述べていたのも

ありました。

その他、敗戦直後に厚木飛行場から飛来して抗戦派の児玉飛行場へ行くために2機の飛行機が

飛来しました。

そのうちの1機が車輪を取られて転倒してしまったともありました。

人手作業の為滑走路の圧縮が足りておらず未完の飛行場だったので着陸すると車輪が地面に潜って

しまったのでしょう。

ここは飛行場の形が児玉飛行場に似ていたので間違って着陸をしてしまったのでしょうか。

飛行場跡の開拓組合の座談会ではカメラの付いた飛行機(海軍の彗星を改造した二式艦偵か?)が

2機あったともありました。

米軍は10月4日からL中隊分遣隊の15名が駐留を始めたようです。比企郡の米軍は熊谷ではなく

鴻巣から来たようです。

1953年の新聞には飛行場跡地に滑走路が2本ある宮前滑空場を造る計画に開拓団員が反対

運動をしたとありました。

それは土地を取られたうえグライダー用と言ってもいつ元の様な軍事基地にされてしまうかわからない

という理由でした。

飛行場跡の開拓団の中には飛行場の建設時の元少佐もおり図面を見てこれは滑空場ではなく飛行場の広さ

だと言いさらに反対の声は大きくなりました。

この問題が起きる前には日本各地で国家警察予備隊(その後、保安隊を経て自衛隊に)の演習地

提供問題が日本各地の不振開拓地でありました。ここにも通知は来ていたようです。



名称に關東が付いているのはやはり四国や臺北の飛行場と区別するためなのでしょう。

下唐子の唐子神社前で松の根から作り航空燃料にも使用されたオクタン価の大きい松根油を作った

釜の1部が東松山市内にある埼玉ピースミュージアムに展示されていました。

ここの資料によると陸軍と海軍で松根油を作る地域を国内で2分し関東地方は海軍地域

だったそうです。



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