飛行場・滑空場・不時着陸場・場外離着陸場・空港・戦跡など

    思いがけない所に戦跡があったりします。
     2度と愚かな戦をしない、させない意味も込めて調べてみました。

(61)高崎・伊勢崎

2016-10-15 12:49:06 | 飛行場関係
前出の航空記事誌の定期航空時間表を見ていると高崎聯隊區司令部が書いた高崎航空普及會

〈1932年(昭和7)または1933年(昭和8)7月12日創立、記事中に創立年が2つ書いてありました〉の記事もありました。

陸軍の許可を受け第十五聯隊練兵場の使用許可を受け隣接する民間地に事務室、宿直室、炊事室が入った格納庫(百坪)を建設

したとありました。

飛行機は逓信省より払い下げを受けた2機(サムルソン式2A2型・三菱式R22型)を使用しました。

この第一高崎号・第二高崎号の命名式は11月27日に行われました。

当初は高崎市寺尾(乗附練兵場の南方)に民間飛行場を造ろうとしましたがうまくいかなかったようです。

昭和11年1月には高崎グライダー研究會も設立しました。

「民間航空は空軍豫備軍」という恐ろしい思想だったこともここには書かれていました。


新編高崎市史も見てみると添付資料に1931年(昭和6)と1934年(昭和9)の縮尺の異なる高崎市街圖がありました。


(1931年高崎市街圖)

碓氷川と烏川の合流地点を挟んで歩兵第十五聯隊の兵営と練兵場が分かれて描かれていました。

ですが2枚とも練兵場の境界線が何度見てもよくわかりませんでした。その為この地図から練兵場の範囲は特定できませんでした。

こちらには高崎商工会議所月報の引用があり1933年(昭和8)の初飛行の記事がありました。

さらに格納庫の広さがこちらでは百二十余坪となっていました。

この十五聯隊は明治時代秩父事件の際に重税に苦しみ蜂起した自由党と農民の困民党を弾圧制圧した聯隊だという事でいい

印象がありません。


同じ群馬県の伊勢崎市史も見ると、伊勢崎市並びに佐波郡下の少年飛行兵志願者22名に滑空訓練講習会を競技場で20日間合宿

し軍隊式規律の下精神修養や体育の錬成をなしている。とありました。

この競技場は1931年(昭和6)競馬場建設の際に内側に造られたものでしたが競馬場が廃止されてからは競技場として

使用されたようです。

競馬場は今と異なり日本各地にありましたがその多くは無くなりました。

戦争による馬の供出も一因だと思います。

日本の軍隊で馬は騎兵隊や幹部の乗用として用いられ、輜重隊の荷物や砲兵隊でも馬が運搬用に多く使用されました。

沖縄の宮古島などにいる小型の馬は大型の軍馬にするため種の危機にもなりました。


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