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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

大学の試験について

2007年07月24日 | 研究生活
 非常勤をやらせてもらっているある大学で、今週、学期末の試験があります。ちなみに、この大学は、前期・後期で完全に履修&登録が分けられている大学での話し。通年の講義の場合、試験は学年末です(私のほかの講義を受けている学生で、これを読んでいる人のために補足すると)。

 このうち、ある科目で今回、初めてある試験方法を採用する。「ある方法」とは、以下のもの。

1 試験問題は論述試験で、設問を複数用意。あらかじめ設問は公表しておく。
2 ただし、複数出題された設問のうち、「当日に指定された設問のみ」に解答させる。
3 この「設問の設定」は、純粋に「くじ」で決める(つまり、出題者の意図が入らない方法で決める:「出題者が自分の意思で指定する」と、設問の傾向や講義内容から、指定される設問が予想できてしまうので)。

 この方法、仏の大学で経験したものなのだが(ただし、私は「直接」経験したのではなく、自由聴講していた講義がそうした方法を採用していただけ)、ただし、そこでは「当日指定される」のは、「領域」あるいは主題であって、設問をあらかじめ公表するものではなかったが。

 つまり、こんな感じ。
 あらかじめ「出題されるテーマ」は決められていて、例えば、1マルクスについて、2デュルケムについて、3ウェーバーについて、と出題の大まかな指標は示されている。で、学生たちはこの人物についての理論や分析、概念などを勉強することになる。
 そして、試験当日には、「くじ」で、先生が用意した質問のうち一つを決める。そして、それに沿った設問が出題され学生はそれに解答するといった感じの方法である。「くじ」の方法については、私は直接その場にいたわけではないが、例えば、学生を一人選び、それぞれ「マルクス」「デュルケム」「ウェーバー」に関する設問が入った三つの封筒から一つだけを選ばせるという方法だったようである。
 問題が公表されておらず、なおかつ、領域(あるいは主題)もランダムに選ばれるので、学生はほとんど総てを「予習」せねばならなくなる、という学生をほとんど強制的に勉強させるための手段である(苦笑)。

 私の場合、今回は、これを少々やさしくして、三つの設問をあらかじめ公表し、それを当日、くじで決めるという方法をとった。これだと、三つの設問(故に、設問に関わる三つのテーマ)を総て予習してこねばならず、準備が三倍になる。

 自分がたまたま出た講義の回に関連した設問を選び、それに関してちゃちゃっと文章を書いておしまい、的な勉強ではなく、もう少し本格的な「勉強」(それも、一問一答式のものではなく、論述の勉強を網羅的に)して欲しかったために採用したのだが……。
 初めてということもあり、今回は出題者のこちら側が少し緊張気味。というのも、例えば仏では、学生が低い点を取っても平然としていられるが(単純に学生を落とすだけ)、日本ではそうも行かない。仏だと、最近は大学改革も進み、システムも変化しているだろうが、私が留学していた数年前までは、第一学年に登録する学生のうち、第三学年に進級するのは4割ぐらいであった。つまり、6割の学生が、進級できずにドロップアウト(ようは退学)することになる。「それが普通」という感覚があるのであれば、上のような方法も平気で採用できるが、日本ではそうも行かないだろう。

 今回聴講している学生には、「山は張るな、総ての設問に回答を準備して来い」と言ってある。おそらくは、ほとんどの学生が総ての設問に準備をしてくると思うが、白紙で答案を出されたり、一部の設問にしか準備をしておらず指定した設問とは別の設問への解答をした答案などを提出されると、こちらでは「不可」をつけざるを得ない。

 ちなみに、仏だと、「山は張るな」と言っても、実際に山を張って、そして、予想が外れて撃沈する学生も、少なくはないのだろう(笑)。それは実のところ、「真面目か不真面目か」とは別の次元で、そうした「選択」(ヤマはり)がされるのだろうと思われる。
 パスカルは、有限の投資によって無限の利益が得られるという点から考えれば、信仰というのは合理的な賭けである、といった趣旨のことを言っているが
 例えば、「単位を得られるものが三分の一」ぐらいのレベルに合格ラインを設定すれば、「総ての設問に対して準備をする」のも「1/3しか合格しない」し、「1問にだけ集中して勉強し、それが出題されれば合格」という「選択」もまた、1/3の合格率である。

 「どうせ一部しか合格しない」のであれば、「ヤマを張る」のも合理的な選択である。同様に、「どうせ受からない」のならば、「勉強するだけムダ」なのである。このあたりの「判断の基準」は、大学の雰囲気や環境、その他に影響されるのであろう。仏の場合は、家庭・地域の環境が大きく働くのだろうが、「格差問題」の勘所は、まさにこうした「主観的」な「判断の基準」そのものに格差が開いてしまうことであろう。

 「機会が公平」でも、その「チャンス」を判断する基準が伴わなければ、それに「賭ける」ことはない。
 これは、もはや私個人の見解に過ぎないが、「リスク」や「自己責任論」も、こうした点を見誤っているように思われる。貧困地区に育ったものにとって、「リスク」とは「警察に捕まらないこと」であり、「自己責任」とは「捕まったらブタ箱に行くこと」なのである(日本のことではないが)―いや、分析的には、リスクも自己責任論も成立しているのだが……(苦笑)。ただし、どういった「リスク」が取られるか、そうした「主観的な基準」の「採用のされ方」は、明確にされていないが。

 これについては、まだ話をしたいことがあるが、この試験方法の結果も交えて、別の機会に展開したい


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