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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

興福寺中室・経蔵・鍾楼発掘調査 現地説明会 part②

2016-11-06 20:25:06 | 現地説明会
 前回に引き続き興福寺の中室、経蔵、鍾楼の発掘調査について書く。今回は、中室の調査である。
 興福寺には、僧房が三つあり、中金堂と講堂を囲むように東、西、北とあり、東僧房が中室と呼ばれている。僧房とは、お坊さんが生活する場所であり、三つもあるということは、それなりに大勢の僧侶が佛教を収めんと集まってきていたのである。

 今回の発掘調査において中室においては、北橋と南端にそれぞれ調査区を設け、中室の規模を確認している。

 

 礎石の南北の中間に小さい礎石が置かれているのがわかる。これは、床の束を受けるための礎石とのこと。また、南面では、柱間に他と比較して小さい石を配置しており、これは、この上に壁をうける部材(地覆)を置くためのものと考えられておる。写真では陰になって少し見にくくなってしまった。

 

 礎石については、ほぼ創建時の位置のままであるとのことで、北端、南端共に桁行1間×梁行2間分の礎石が確認されている。ただし、桁行は、未調査区域に伸びているためこれがすべてではない。

 基壇の外装として、地覆石と羽目石が確認されている。

 

 いずれも凝灰岩で作られている。

 

 今回の発掘調査で、中室の規模は、先に発掘調査で確認されている西室と規模的には変わらないが、柱の幅、配置が違っているとのこと。

 

 中室の西辺に沿って南北溝が作られており、この南北溝については、中室の南端、経蔵、中室の北端といずれの調査区にも跨って検出されている。
 これについては、溝の側石の状態から、中世になってから作られたものと考えられており、中世から江戸時代にかけての興福寺の基幹排水路の一つではないかとのこと。

 また、

 また、中室の北側でも東西方向の石組み溝が検出されている。これが、中室の調査区では唯一の古代の世界。北室の雨落溝と考えられている。

 今回の発掘調査の成果としては、中室、経蔵共に創建時の礎石の位置や規模を踏襲していることが判明した。ちなみに中室、経蔵、鍾楼ともに720年代に創建され、その後幾度となく火災で焼失し、江戸時代の享保2年(徳川吉宗の時代だな。)の焼失を最後に再建をされていない。
 しかし、幾度となく火災等で焼失しながらも、その度に再建してきたのは、興福寺の力の強さを表しているのだろう。

 

 中室の発掘調査の説明が終わると同時に、平城京の説明会に行くのに近鉄電車に乗るために急ぎ会場を後にした。
 一日、考古学の世界に浸れるのは幸福だけど、説明のすべてが頭に入るわけではないというところが課題であるな。

 

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