響庵通信:JAZZとサムシング

大きな好奇心と、わずかな観察力から、楽しいジャズを紹介します

続ジャズ音故知新:オスカー・ピーターソン

2015-03-12 | 音楽

オスカー・ピーターソンは、1953年(昭和28年)11月、JATPの一員として初来日した。
昭和28年といえば既に第2次世界大戦終結から8年も過ぎているのだけれど、
まだ激変の世相だった。

「戦争も大変でしたが、戦後ですよ。
5年以上は続いたと思います。
日本全体が貧乏で飢餓状態でした。
甘い物が欲しいと思うと歯磨き粉をなめたり、夢に見るのはいつも大福だったり、
バナナを食べることができるなら死んでもいいと思いました」(仲代達矢:談)…毎日新聞夕刊(平成27年1月13日)より。
とうてい信じられないだろうが、かなり食糧事情が良くなってもバナナは、縁のない高級果物だった。
一生に一度、5~6本に小分けされていない半円形に広がる塊ごと胡坐(あぐら)に乗せ、食べまくってみたい…と少年時代を思い出し、
ぐ~んと、仲代さんを身近に感じた。

昭和28年。
NHKテレビが2月に本放送開始、8月には民放のトップをきって日本テレビも開局した。
テレビ受像機はべらぼうに高価で、NHKに都内で受信契約したのは僅か660件あまりだった。人々は盛り場に設置された日本テレビ専用の街頭テレビを見上げ首を痛くしながら、プロレス、ボクシングなどを観戦するしかなかった。
で、庶民の娯楽はもっぱらラジオ。
“忘却とは忘れ去ることなり…”2字熟語を訓読みに講釈した?ナレーションのNHKラジオ・ドラマ『君の名は』が、このころ、毎週木曜日の夜8時台は銭湯の女湯がガラすきになる社会現象にもなった。
大賞イベントは、まだ、なかったが、
「八頭身美人」「お今晩わ」「家庭の事情」などが流行語になった。

みなさんは、軽音楽という言葉をご存知でしょうか。
[軽音楽 light music]…現在では、ポピュラー・ミュージックという言葉のほうが一般的である。クラシック音楽のように芸術性を重要視せず、聴きやすい、大衆的な音楽といった意味。ジャズ、ロック、ポップスなど](音楽単語解説集/リットーミュジック:1982年刊)
ここではアンダーライン部分の是非は、さておいて、「ジャズ、ロック、ポップスなど」の解説には少し補足しておきたいと思う。

正から昭和10年代のダンスホールを中心に沢山のジャズ・バンドが活躍していた。
日華事変が始まり、太平洋戦争に拡大するなか【ジャズ】は、
敵性音楽とみなされ【軽音楽】に変えられてしまった。
軍歌以外の曲をかけるときは、蓄音機(ゼンマイ動力のSPレコード専用)に布団を被せ音が漏れないようにして聞く、まるで隠れ切支丹。
不可解なことに日米戦最中、ドイツの楽団が演奏していれば、パス。
昭和20年8月15日以後の大中小改革のうち、軽音楽解放が、どれほど嬉しかったことか!
ラジオでAFRS放送(進駐軍向け…後のFEN)を、こっそり聴いた…親にはバレていたかも。
2本立て映画にワクワクし、
まるで次週上映予告編という鎖につながれた無期囚人。

1947年に創刊された『スヰングジャーナル』(ジャズ専門の音楽雑誌)の巻頭は、
[わが國のSwing Music とDance は今始めて公然と自由に研究出來る時が來た…後略…]という發刊の辭がある。
因みに、創刊号はB5判・20ページ・定価20円・表紙ビング・クロスビー。
 【蛇足の注】スイングの表記〈イ〉が〈ヰ〉であったり〈国〉〈来〉〈発〉〈辞〉などが旧字体のところが、“文化”遺産かも。
創刊号と第2号に付いていた[ダンスとスヰング・ミュージック]のサブ・タイトルどおり数年の間、ダンスに関した記事が多く載っている。
これは、戦時中雌伏していたミュージシャン達が、早くも東京、大阪など大都会のダンスホール、キャバレーや米軍用ホテル、キャンプなどで活動していたことの実証だろう。

                        

                     創刊号                                          第2号         

 また、戦前刊行されていた雑誌『ダンスと音楽』も1949年に復活。
ダンス・バンドの消息ほかジャズ・レコード紹介でも『スヰングジャーナル』を凌駕していた。
映画も終戦翌年から日本映画をはるかに上回る洋画が公開されている。
圧倒的にアメリカ映画だった。
映画の主題曲がラジオから奔流のように流れ…
東京エリアで1954年までに民放ラジオ局が出揃い沢山の音楽番組が生まれている。
NHKは“軽音楽”というタイトルが多く、民放局は“**アワー”の冠で競った。

初めてのジャズ洗礼が「ブギウギ」で、日本の流行歌も追従した。
社交ダンス・競技ダンスが盛んになりスイング・ジャズ、ブルースが好まれ、
ドリス・デイ、ナット・キング・コールなどボーカル・シングルがヒット…
カントリーウエスタンも人気があった。
しかし、軽音楽といえば、
ジャズより映画音楽、ハワイアン、タンゴ、シャンソン、中南米音楽などを指し、
ポピュラー音楽や、ジャズがポピュラー音楽の主役になるのは、
少し後になってからである。

『JAZZ歴史・スタイル事典』(別冊スイングジャーナル)の1953年ページを開くと、
◇バップ時代最後の饗宴マッセイ・ホール・コンサート開催(5月)
◇ファンキー・ジャズの原点「オパス・デ・ファンク」 誕生!〈10月)
◇BIG 4 DEBUT!ビッグ・フォー結成、日本一の人気バンドになる(5月)
◇ピーターソン、ギターにハーブ・エリス迎える(9月)
◇JATP初来日!〈11月)
◇“ジャズ大使”サッチモも初!来日12月)のレイアウトである
“軽音楽”全盛の時期に、
JATPとサッチモ(ルイ・アームストロング)が来日して、どんな“衝撃”を受けたのだろうか?
それこそJATPはジャズ界の〈黒船騒ぎ〉だったに違いない(筆者の独断)ものの、
チャーリー・シェイバース(tp)フリップ・フィリップス(ts)ビル・ハリス(tb)を知っていた人がどのくらい居たのだろうか?
昭和ひとけた世代以前生まれで、ウディ・ハーマン、ベニー・グッドマン、トミー・ドーシー・バンドがお好き方?かな~。
いきなりダウン・ビート誌ピアノ部門でポール・ウイナーになったオスカー・ピーターソン(p)にしても、カナダからスカウトされてまだ数年しか経っていない。

ここからが本題──
“ミナサン コンバンワ コノタビ ハジメテ JATPガ ミナサンノトコロニ マイレマシタ…”
ノーマン・グランツの日本語MCで始まるCDがある。
『J.A.T.P.イン・トーキョー~ライブ・アット・ザ・ニチゲキ1953』(パブロ・ライブ)
J.A.T.P.初来日を録音した正に〈ジャズ開化〉盤である。
ミュージシャンの専属関係とかあって、箱入り仕様LP3枚組で発売されたのは、18年後の1971年だった。
2枚ディスクのCD化はさらに17年後、そして現在…まさかの廃盤中。

  《お立合い!聴いてビックリ音故知新の玉手箱だよ》
J.A.T.P.というのは…昭和29年1月、つまり初来日直後に刊行された音楽書『ジャズ・タンゴ・シャンソン/婦人画報社』にちゃんと記述されていて、ビックリ。
解説のジャズ河野隆次・服部龍太郎、タンゴ高橋忠雄、シャンソン松本太郎氏のお名前を懐かしいと思はれる方は軽音楽世代。
[J.A.T.P. Jazz At The Philharmonic
1944年ジャズ評論家のノーマン・グランツが、彼のお気に入りメムバァをあつめて、ロス・アンゼルスのフィルハァモニイ公会堂で、ジャム・セッションを行った。これが大へんに当たり、この企画が流行されることになったが、このフィルハァモニイ公会堂は、それまでクラシカル音楽のみに開放されていた公会堂で、ジャズ演奏はそのときが初めてであったところから、フィルハァモニイ公会堂におけるジャズ─ジャズ・アット・ザ・フィルハァモニック─をとって、グランツ企画のタイトルとしたのであった。このジャム・セッションはコンサート・ジャズの流行と共に非常な人気を呼び、アメリカ各地はもとより、遠く欧州、日本までも足をのばしている。](河野隆次)

グランツは、50年代に入って自己のレコード会社グランツ・レコード(後、クレフ~ノーグラン~バーブ)を、1973年にはパブロ・レコードを設立して、マネージメントしているエラ・フィッツジェラルド、オスカー・ピーターソンはじめ多くのプレーヤーのために沢山のアルバムをプロデユースした。
『J.A.T.P.イン・トーキョー』第1部の1曲目は、
「トーキョー・ブルース」(作曲:R.エルドリッジ、B.カーター、F.フィリップス、O.ピーターソン、H.エリス、J.C.ハード)、なに?それって
初出LPでは「トーキョー・ブルース」ではなく、
「ジャム・セッション・ブルース」のタイトルだった。
つまり、即興的な曲で、演奏するほうも鑑賞するほうも、ハジメテ。
  (LPとCDでは他にも曲名が変更されている)
ピーターソンとJ.C.ハード(ds)が、劇場中の耳と目をひとまとめにしてノーマン・グランツ・ショウの幕が上がった。
ルールの知識がなくっても、5時間を超える競技に目が離せないスポーツがある。
贔屓の大学が気になってテレビから離れられない…箱根駅伝だ。
ジャム・セッションの醍醐味も同じようだ。
交通機動隊員:ピーターソン、ハードに先導され第1走者:フリップ・フィリップス(ts)…すいすいスグ、
チャーリー・シェイバース(tp)~ウィリー・スミス(as)~ビル・ハリス(tb)と襷をつなげ、
リズム・セクションは沿道の大応援団。
ベン・ウエブスター(ts)…ゆうゆうスイング、
ベニー・カーター(as)…伴走車ハードが、ピーターソンが、声をかける。
クイック・クイック:ロイ・エルドリッジ(tp)は区間賞の快走、
ゴールで待ち受けるフロント、リズム・セクションと大合奏。
優勝タイム:25分13秒。
2曲目「コットン・テイル」
♪コットン・テイルの初出は、1940年5月4日録音のデューク・エリントン&フェイマス・オーケストラで、フィーチャリング:ベン・ウエブスターだった。
ピアノのイントロからテーマを受け、ウエブスターの艶麗なソロと流麗なフィリップスのテナー・バトル、ハリスの華麗な間奏、エルドリッジvsシェイバースのチェイス・ラリー、
壮麗なエキジビション・マッチである。
3曲目はバラード・メドレーの絶品ア・ラ・カルト。
♪1「ニアネス・オブ・ユー」:メランコリック・ハリス(tb)
♪2「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー」:ロマンチック・ウエブスター(ts)
♪3「フラミンゴ」:センチメンタル・カーター(as) 
♪4「アイ・サレンダー・ディア」:ブライトリー・エルドリッジ(tp)
♪5「スゥイート・アンド・ラブリー」:ブルージー・フィリップス(ts)
♪6「スターダスト」:ファンタスチック・スミス(as)
冒頭で2度拍手がある…
ラジオで盛んに放送されていたし、
直前にライオネル・ハンプトン不朽の名盤『スターダスト』(デッカ)が発売され、周知の曲。
 
          

♪7「エンブレイサブル・ユー」:ドリーミー・シェイバース
4曲目「アップ」(作曲:R.エルドリッジ、B.カーター、F.フィリップス、J.C.ハード
また下線付きの曲。
♪アップは初出LPで「J.C.ハード・ドラム・ソロ」のタイトルであった。
詳しいFini-Rigazio(イタリア版)ディスコグラフィーには「J.C.ハード・ブルース」になっている。
ドラム・ソロ~リードとリズム・セクションのイントロから、ハードの4分20秒七変化ソロ。
途中、3回も拍手を貰って第1部が終了する。

第2部は、セレクト・コンボの競演。
Ⅰオスカー・ピーターソン・トリオ
  ピーターソン(p)ハーブ・エリス(g)レイ・ブラウン(b)
5曲中、2曲目の「テンダリー」はピーターソンが生涯で最も多くアルバムに残したナンバーであり、アメリカでのデビュー盤『テンダリー』(バーブMGV-2046)では、ブラウンとデュオ。
注目の曲は、2枚目CDトップ、ピーターソンのオリジナル「スシ・ブルース」である。
これも、LPで単に「ブルース」というクレジット。
前述のディスコグラフィーは、丁寧に「ブルース・フォア・トリオ(スシ・ブルース)」。
アップ・テンポでピーターソン~エリス~ブラウンの粋なソロ!
タイヤ・メーカー・グルメ本の《星》より、
《輝》く…ってもんさ。
 【蛇足の注】
面白いことに4回実存する「スシ・ブルース」が、総べてライブ。
東京:簡易保険ホール(1987年2月28日)のピーターソン・コンサートDVDで、
極上の《握り寿司》が観られる。
ピーターソン(p)ジョー・パス(g)デビッド・ヤング(b)マーテイン・ドリュー(ds)のビッグ・フォー。
ずっと曲名紹介なしで進行してきたけれど、11曲目「イフ・ユー・オンリー・ニュー」が終わり立ち上がって深々とお辞儀し、椅子に坐り直すと、
右手にマイクを持ち左手で演奏しながら、
この曲だけ、「…スシ」と。
曲の後半、ピーターソンとパスのチェイスは《カラミ》が、きき過ぎる。
興味のある方はYou Tubeでどうぞ!
Ⅱジーン・クルーパ・トリオ
 ベニー・カーター(as)ピーターソン(p)ジーン・クルーパ(ds)
クルーパ・トリオの特徴は管楽器奏者とピアノ、ドラムスである。
ピーターソンには初めての編成だがこのメンバーで「インディアナ」「サボイでストンプ」が共演済だった。
既にベニー・グッドマン・バンドのスターであった44歳のクルーパ、
映画音楽に実績がある46歳:カーターをサポートするピーターソンは…多少気を遣ってもピーターソンはピーターソンである…27歳。
圧巻は「サボイでストンプ」
テーマのあと4分超ドラム・ソロ、4回も拍手・指笛の大声援。
ちょっと猫背に構えスティックを廻したり・上に突き上げたり、ハデ・ハデ・パフォーマンスに、
満場が歓喜したのでは(*^。^*)
このコンサートが〈ジャズ黒船騒ぎ〉だったに違いないと思う、もう一つは、
エラの来日だった。
戦後の軽音楽界は「センチメンタル・ジャーニー(1947年)」「アゲイン(48年)」「ブロードウェイの子守唄、トゥ・ヤング(52年)」のドリス・デイが女王に君臨してきた。
52年は女性歌手の当たり年…
ドリス・デイ「二人でお茶を」ほか、
「火の接吻/ジョージア・ギブスン」「セ・シ・ボン/アーサー・キッド」「テネシー・ワルツ/パティ・ペイジ」と、
「ハウ・ハイ・ザ・ムーン/エラ・フィッツジェラルド」などがヒット・チャートを賑わしている。
53年度ダウン・ビート誌批評家・読者人気投票1位…のエラが、
ジャズ・シンンガーの先鋒としてお目見えし、
しかも、初めて驚愕・究極のスキャット唱法を披露したのだから。
奇しくも、翌12月にはスキャット創始者のルイ・アームストロングが、来日した。
Ⅲエラ・フィッツジェラルド&カルテット
  フィッツジェラルド(vo)レイモンド・チュニア(p)ハーブ・エリス(g)レイ・ブラウン(b)J.C.ハード(ds)
“ツギハ…サイコウノ ウタイテ デス ドウゾ エラフィッツジェラルド”
拍手で迎えられた♪「オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」…イントロと同時に手拍子、1曲目から熱い…
続いて♪「ボデイ・アンド・ソウル」(スタンダード・ナンバー1位)は、涼しげなバラード…場内カロリーが一変する。
野川香文氏のレポートに
[フィッツジェラルドは、舞台のソデで椅子にもたれてトリオをききながら、自分の唄う曲をきめて、チュニアに話したが、ステイジに出ると、これが急に変更され、予定より数が減ったり増えたりした…]
CDはF.Oで終わりF.Iで始まる部分が2か所あるので、
3回の録音分から〈精選エラ〉の9曲というわけだ。
1曲ブルース(♪3)をはさみ、
エラ18番♪4「レディ・ビー・グッド」の渦潮スキャットは、拍手が間に合わない。
♪5エリントン・ナンバーのバラードがプログラムに緩急の妙をつけ、
♪6「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」
原詩(1940年ベニー・グッドマン・オーケストラ演奏、ヘレン・フォレスト歌でヒット)どおりミディアム・テンポで唄ったエラが奇想天外なフェイク(くずしかた)で、
満場を圧倒している。
アドリブ歌詞に次いでスキャットに入っても…直ぐに拍手できないほどの奇襲だった。
1947年9月、カーネギー・ホールで15ピース(5tp、2tb、2as、2ts、1bs、3rhythm)を従えて創唱した「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」(未発売)は、
30回を超えるセッションの殆どが、ライブである。
何時ごろのライブでドッキリ・スキャットになったか、
ひょっとして日劇からって?わけ、ないよね。
筆者の未熟を晒すようだが…スキャットは、毎瞬時即興だと思っていた。
ところが、
代表盤である『エラ・イン・ベルリン』(1960年バーブ)
『エラ・アット。モントゥルー』(1975年パブロ・ライブ)
を聴くと、
エラの光速シンキングは、日劇盤がベースになって、アドリブ歌詞の省略・順不同、引用フレーズが微妙に違うだけの、異母姉妹のスキャットではないか!

       
 エラ・イン・ベルリン          エラ・アット・モントゥルー
 【蛇足の注】
*『日劇』『ベルリン』『モントゥルー』3枚ともグランツ制作。
*ヘレン・フォレスト(1917.4.12-99.7.11)は、アーティ・ショー、ベニー・グッドマン、ハリー・ジェイムスのビッグ・バンドで人気歌手。1942年ダウン・ビート誌読者人気投票女性シンガー第1位。男性1位はフランク・シナトラ。
*You Tubeに、トミー・フラナガン(p)とデュオでスキャットなしのクリスタル・エラ「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」あり…おそらく70年代初めころの映像。
♪7「マイ・ファニー・バレンタイン」(スタンダード・ナンバー6位)がフェード・イン。
スイートなピアノにハグされたエラが情趣こめて唄うバラード…硬から軟。
コンサートの〈うまみ〉が醸成される。
♪8「スムース・セイリン」(作曲:アーネット・コブ)
失礼な表現かもしれないが…この曲は、
スタンダード・ナンバー961位にランキングされている。
原曲に歌詞はない…が、
エラは楽しい“のり”で1曲まるごとスキャット・シンギング。
独自に“エラ語”歌詞をつけたともいえる。
コブは過小評価されアルバムも少ない。
同じテキサス州出身バディ・テイトとのサックス・バトルは、
ワイルド・ブロウ&ブロウを繰り広げている。
♪9「フリム・フラム・ソース」(作曲:レッド・エバンス作詞:ジョー・リカルデル)
1945年のナット・キング・コール・トリオ(キャピトルSP盤)が初出。
エラは原詩の途中から唄いだし短いスキャットをはさみ、ナット・コール盤で間奏する部分からサッチモの声色(ものまね)で残りの歌詞をうたい&スキャット…年の離れた妹のようだ(実妹ベアトリスさんは歌手だったかどうか知りませんけど)、
ラストは、昨年夏(1952年)大ヒットしたサッチモの「ツー・ツー・タンゴ」「火の接吻」(デッカ)を笑ってサービス。
この曲、1964年のデッカ盤で彼と共演していた。
先にサッチモ、続いてエラがうたい、間奏ボブ・ハガート・オーケストラ、最後はトランペット・ソロ。
サッチモ、エラの絡みはなくスタンダードな構成だった。
 【蛇足の注】
「ツー・ツー・タンゴ」(原題「Takes Two To Tango」)
「火の接吻」(原題「Kiss of Fire」)はアルゼンチン・タンゴ「エル・チョクロ」(作曲:アンヘル・ビジョルド作詞:エンリケ・サントス・ディセポロ)にレスター・アレン、ロバート・ヒルが英詩をつけた。
 *「エル・チョクロ」はスペイン語で「トウモロコシ」の意。

フィナーレは、
“一*一*”の「パーディド」で…R。
「パーディド」はプエルトリコ:ベガバハ出身のバルブ・トロンボーン奏者ファン・ティゾールがデューク・エリントン・バンドに在籍していた1941年暮に作曲、翌52年1月21日、エリントン・フェイマス・オーケストラで録音され、エリントンのレパートリーになった。
♪9「パーディド」
ピーターソンの弾く(はじく)イントロを静かに唄い継いだあと…エラ語を炸裂する…
スキャットの大詰め、「カム・オン・ベン!~カム・オン・ベン・ブロウ!」とベン・ウエブスターをマイクに呼ぶ、
ウエブスターは気品音を響かせ疾走するSLだ…
追いかけるフィリップ・フィリップスがオープンカーのアクセルを踏む。
グランツ・ショウは、
J.A.T.P.オール・スターズ全員合奏で終わる。

草稿中、クラーク・テリーの訃報に接した。
テリーが一番長く在籍していたデューク・エリントン・オーケストラで、
「パーディド」にフィーチャーされたアルバムがある。
『公爵演奏会』(ドクタージャズ:キング)
1957年6月、オールスター・ロード・バンドがペンシルバニア州キャロルタウンで録音したライブ盤である。

テーマのあと、直ぐテリーのリップ・コントロール良い陽気なフレーズ…
 リーダーを除く平均41歳の中で3番目の若さを謳歌(おうか)…
 直立不動・一点凝視・端正姿勢が、眼に浮かぶ。

セッション・メンバー15人全員は既に他界している。
クラーク・テリーも2月21日、逝った。
94本の灯(と mo しbi)が眩しい。             終