オシム語録を読んでいると、彼の目指す方向性が見えてくる。曰く「われわれは、軍隊ではないので命令などしなかった。」「ベンチに頼らず、自分たちで相手の出方を見極めろ。」「日本社会には、自分で判断して行動する習慣がありますか?私が何を言うか待っている選手はいらない。ピンチにタイムをとって監督の指示を仰げないのがサッカー。アイデアのない選手は、向かない。」「選手には、自由を与えるが、流れの中で守るべき原則や責任がある。どんなタイミングで何をするか、彼らは考えなければいけない。」まったく同感である。また、これは、サッカー界だけに言えるのではない。全ての世界において言えることだ。例えば他のスポーツ界においても、バレーボール、バスケット、ハンドボール、テニス、あらゆるスポーツにおいて、プレー中にここでどうしたらいいですか?と監督の指示を仰ぐ場面はない。1つの競技を除いて。
それは、野球。野球は、1球、1球。監督の指示を仰ぐ。監督は、1球ごとにサインをだす。(また、前述のスポーツはどれも、試合中は、全員がいつも競技場の上に立っているが、野球は、攻撃の時に椅子に座って休憩している。)上記のような理由で「野球は、スポーツではない。」という人もいるが、ここで結論は、ださない。
日本の社会全体がそうなっていると私は、言いたい。オシムさんも同じ意見だと思う。会社でちょっとでも部下がミスをすると雷をおとす上司がいる限り、日本の社会は、変わらない。日本の社会が変わるには、枠の中で自由を認めることだ。自治の中の自由である。「何でもかんでも自由にやれ」ということではない。会社だって組織である。1つの目標に向かっているのだから、一人ひとりが、好き勝手をしていいわけがない。(それは、子育てにおいて「放任」と呼ばれる。放任が、よい人間を育成しないことは、みんな分かっている。)
会社がそうだから、学校でもそうである。私の子供に「こんなことしたら?」と言っても「だめ。先生に怒られる。」という。子供もかわいそうなものだ。
要は、「この中で、この条件の中でなら自由にやっていいよ。」というシステムを社会全体で構築していく必要がある。ということである。そして部下がだした結果がその枠の範囲なら自分が考えた結果と少しずれていても大いに認めることだ。そうすることで部下の何が変わるか?
まず部下に自主性が生まれてくる。自分のアイデアが生かせるのである。それがその組織の活性化を生み、発展につながるのだ。今までは、上の者が、条件(枠)を示さないから、結果に対して上の人が考える結果と少しでも違っていたら、怒られやり直しをしなくてはならなかった。自分が自主的に考え、アイデアをだしてやった仕事(結果)は、評価してもらえず、上司の思うままにするのが仕事と考えるようになると、一番簡単な方法は、初めから上司に聞くことだ。「ここは、どうしますか?」「これはどうしましょうか?」そんなところに自主性、アイデアは入り込む余地さえなかった。
昔、日中友好の船というのがあった。日本の青少年を乗せて中国に親善にいくのである。それが、数年前になくなった。消息筋から聞いたところ「表向きの理由は、他のところにあるのだが、本当のところは、青少年が変わったから。」と言う。「何が変わったの?」と聞くと「昔は、長い航海の間、青少年が、自主的に仕事をしてくれたが、今は、すぐに何をしたらいいのか聞きにくる」というのである。(家の子供と同じだ。)
オシムさんも、この日本の風土をずばり言い当てている。ただ、全てがそうではない。少しづつ変わってきている。あのホリエさんのライブドアや楽天なんかは、社員の自主性を大切にしているらしい。
そんな会社が日本において主流となってきたとき、日本のサッカーいや全てのスポーツは、強くなる。そうオシムさんは言いたいのだ。