山の頂から

やさしい風

【死ぬ作法】と【送る作法】

2008-09-22 12:57:45 | Weblog
  
 朝食のとき母が、昨夜、父の夢を見たと涙ぐんだ。
「ハッ」と目覚めたが、その経過が分からないと寂しく言う。

 最近発売された雑誌に「死ぬ作法」との見出しを見て買い求めた。
その中で、「尊厳ある死など幻想である」と書かれた個所がある。
昨夜まで普通に暮らし、家族団欒を楽しんでいたが、
翌朝、冷たくなっている。まさに眠るような「死」
誰もが思い描く理想的な「老衰による大往生」の自然死。
しかし、外科医、S・B・ヌーランドは絵空事だと言い放つ。
 比較的平穏に旅立って行く人でさえ、数日あるいは数週間は、
精神的、肉体的にいやというほど苦痛を味わうという。
つまり、【概ね、死ぬことは苦しい営み】だというのだ。

 そう云われれば、父も2~3日前から頭痛やだるさを訴えた。
今まで一度も口にはしなかった。また、握る手を何度も握り返すのだった。
もっと何かを伝えたかったのかも知れないと母が悔やむ。
が、息を引き取る間際まで母や私達の名を呼び、存在に頷いてくれた父。
我々家族は、父に残された時間をかけて、それなりに別れを交せた。
或る意味、理想的と云えるのかも知れないと思い始めた。

 父親が、朝、布団の中で息を引き取っていた知人がいる。
80歳後半のその方の死は、まさに‹大往生›と誰もが言った。
前夜、全く何の変わった様子もなく会話を交わしての翌朝の永久の別れ。
余りに呆気なく、心の準備も無いままに去られた家族の驚きと悲しみ。

 父の死を経験して初めて、その心の痛みが理解できた。
悲しいかな、人間は経験を通してのみ実感をものにするのだ。

 今朝、母が夢に見た父はもしかしたら寂しい~と訴えたのか?
いや、穏やかにに微笑んでいたと思いたい。


      喪の家の屋根に激しい秋の雨      初桜