はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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013―堀景山と宣長2/2下 ―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

2015-02-21 12:37:03 | 本居宣長と江戸時代の医学

 

 宣長は平素、書斎「鈴の屋」に堀景山が『唐詩選』から選んだ詩、「春思」や「上皇西巡南京歌の軸を掛けており、賀茂真淵の命日には「県居大人之霊位」と自ら書いた軸を掛けていたと伝えられています。*1

 宣長は宝暦二年三月に京に上って景山の弟子となりました。彼はこのことを『家のむかし物語』でこう述べています。(難しくない文章なので原文で引用します)

まづ景山先生と申せしが弟子になりて、儒のまなびをす、[此先生は、堀禎助と申て、先祖惺窩先生の弟子、堀正意先生より、世々安芸殿の儒士にて、禄二百石なり、宣長すなはちその綾小路室町の西なる家に寄宿す]

 宣長は医学を学ぶ前に、儒学を学ぶために景山に入門しました。これは当時ありふれたことであり、貝原益軒は『養生訓』巻第六の中で、「およそ医となる者は、まず儒書をよみ、文義に通ずべし。文義通ぜざれば、医書をよむちからなくして、医学なりがたし。また、経伝の義理に通ずれば、医術の義理を知りやすし。故に孫思邈いわく、およそ大医たるにはまづ儒書に通ずべし」、と言っています。そして、『家のむかし物語』は、こう続きます。

此時より、小津といひし称をやめて、むかしの本居にかへれり、同三年九月、弥四郎を健蔵と改む、同四年五月より、武川幸順法眼の弟子となりて、くすしのわざをまなぶ、[此先生、南山先生と号す、世々児くすしにて、其業いよいよ盛に行はれ、後桃園天皇の、いまだ親王と申せし御ほどより、典薬としてつかうまつり給へりき、宣長、同年の十月より、かの室町四條の南なる家に寄宿せり、] 同五年三月、健蔵を改めて、春庵と号し、名を宣長とあらたむ、かくて此ほどの皇朝の学びのすぢの事は、玉かつまにいへるが如し、同七年十月に、京より松坂にかへり、これよりくすしのわざをもて、家の産(ナリ)とはして、[ 医のわざをもて産とすることは、いとつたなく、こころぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよいよ道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業をまめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうをはかるべきものぞ、これのりなががこころ也、] もはら皇朝のまなびに心をいれて、よるひるといはずいそしみつとめぬ。

 おそらく誰もがここに宣長のジレンマを感じ取ると思います。彼は「医のわざをもて産とすること」を、とても愚かであり、心汚く、男子の本意ではないと考えていました。それなのに医師にならざるを得なかったのです。どうして医師になれたのか。そのジレンマをどのように解消したのか。そもそも、宣長はなぜ「医のわざをもて産とすることは、いとつたなく、こころぎたなくして、ますらをのほいにもあらぬ」と思っていたのでしょうか。医師の身分や世間からの評価が低かったから、というのは見当はずれです。宣長は後の寛政四年に、加賀藩から藩校明倫同の国学学頭として禄二三百石で招聘されましたが、それを断っています。彼には身分やステータスなどよりも大切なものがあったのです。また『養生訓』巻第六を覗いてみましょう。

医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て、志とすべし。わが身の利養を、専に志すべからず。

 宣長の心の中に、この言葉は残っていたでしょう。彼は『経籍』に『養生訓』を書き記し、近世名人の一人として藤原惺窩や林羅山とともに貝原篤信(益軒)の名を挙げ*2、益軒の『大和本草』を読み、貝原先生と呼び*3、吉野や大和路への旅行には益軒の『大和めぐりの記』を携帯して行きました。宣長は景山のもとで儒学を学んだうえ、上記のように考えたのです。「医のわざ」を用いる目的、その条件、宣長にはそれらが観えていて、ある時期には、それらが本末転倒にならぬよう心を悩ませていたかもしれません。「医者になった、さあ、たくさん宣伝して患者さんを集めよう、生活を豊かにしよう」という積極的な気持ちは、はたして宣長にあったのか。開業してもしばらくは暇であり、四五百の森を散歩している時、宣長は何を思っていたのでしょう。

 さて、景山の下で学問をしている中、宣長は師の『不尽言』を読みました。これについては前回抜粋したので、宣長の思想、学問の方法の多くが景山の大きな影響を受けいていることに気づかれたでしょう。とくに和歌に関するもの、古今伝授や八雲伝授とよばれる和歌流派の秘伝に関するものなどは、ほぼ景山の受け売りと言ってよいかもしれません。このあたりも重要なところですが、今回は後回しにしておき、『不尽言』の中に、こんな一文が出てきます。

いかなればとて儒医などと云う名目は、文盲の甚しき事なり。医などの類は、世上の事を打忘れ、一向三昧に心を我が業に専らとし、他事なきゆへ、自然と世上の事は不案内なるが、成程妙手にもなるはず、また殊勝不凡にもある事なり。儒者の業と云ふものは、五倫の道を知り、古聖賢の書を読み、その本意を考へ、身を修め国家を治める仕形を知る事なれば、人情に通ぜずして、何を以てすべきにや。

 景山は、儒者と医師はその業がまったく異なり、儒者であり、かつ医師であるというのはあり得ないと言うのです(004-本居宣長と江戸時代の医学―儒医2/2―)。

 これを、いつ宣長は読んだのでしょう。宣長の『不尽言』の筆写は『本居宣長随筆』第二巻にあります。その筆写の直前と後の文にて、彼は「栄貞(ナガサダ)」という、彼が寛延二年九月から使っている名を用いていることから、彼が名を「健蔵」に改める前の、宝暦二年三月から宝暦三年九月の間に、それを読み写したと推察できます。実際、随筆中の『不尽言』の後で、「宣長」の名を用いたり(宝暦五年三月に改名)、『本草綱目』を抜粋しました(武川幸順に入門し『本草綱目』を学び始めたのが宝暦四年十一月)。やはり、医学を学び始める前の、儒学を学んでいた期間でしょう。

 景山は、「儒者の業と云ふものは、五倫の道を知り、古聖賢の書を読み、その本意を考へ、身を修め国家を治める仕形を知る事」と、宣長が儒学を学んでいる時に言ったのです。また、宣長は『経籍』の裏表紙に以下のように書き入れました。

○学問に四あり
○訓詁の学とは、聖人の書の文義をくわしくしる事をつとむ
○記誦の学は、ひろく古今書古事事跡を覚る事
○詞章学は、詩文をつくる事をつとむ
○儒者の学は、天地人の道に通じて、身を治め人を治る道を知るを云*4

 これは、書き記されている場所の前後から推測すると、景山から直接、あるいは間接的に教えられた学問の分類かもしれません。そして宣長は、『玉勝間』で以下のように言いました。

道を行うことは、君とある人の務めなり。物まなぶ者の業にはあらず。もの学ぶ者は、道を考え尋ねることこそ務めなり。吾はかくのごとく思ひとれる故に、自ら道を行おうとはせず、道を考え尋ねることこそ務める。そもそも道は、君の行い給いて、天の下に敷き施し給う業にこそあれ、今の行いが道に適わないだろうに、下なる者の、改め行なわむは、私し事にして、中々に道のこころにあらず。下なる者はただ、良くもあれ悪しくもあれ、上の御おもむけに従いおる物にこそあれ、古への道を考え得たからといって、私に定めて行うべきものにはあらず。*5

 と言うように、宣長は儒者の政治的な業は「君とある人の務め」であり、一般庶民の行うものではないと、当時の、今でも、常識的な、いわゆる分をわきまえた考え方をしています。またある日、彼の同門の友人、清水吉太郎が、宣長の和歌好きを批判した時、彼はこのような手紙を書きました。

足下僕の和歌を好むを非として当る、則ち誠に僕の師なり。敢へて敬領せざらんや。足下僕の和歌を好むを非とす。僕も亦たひそかに足下の儒を好むを非とす。是れ何となれば則ち儒なる者は聖人の道なり。聖人の道は、国を爲め天下を治め民を安んずる道なり。ひそかに自づから楽しむある所以の者にあらざるなり。*6

 と、宣長は吉太郎の儒を好むところを批判し返しました。友人同士の手紙であり、皮肉も込められているところが、若い学生らしいですね。宣長は、儒は聖人の道であり、それは個人的に楽しむ道ではない、と言うのです。そして孔子が曾皙に賛同したという話を挙げつつ*7、こうも言いました。

大日霊貴の寵霊に頼り、自然の神道を奉ず。そして之に依れば、則ち礼儀智仁、あに異国の道を待ちて之をもとめんや。僕の六経論語を読むや、ただその文辞を玩ぶのみ。そして六経論語は是れ聖人の言にして、或いは黙して去る。それ是くの如くなれば、僕の学を好むは、人の学を好むに異なるなり。その好む所は、ただ文辞のみ。そして僕の好む所、文辞よりも甚だしき者あり。和歌なり。ただに之を好むのみならず、また之を楽しみ、ほとんど寝食を忘れる。*8

 言ってしまいましたね。仲間うちだったとしても、景山の門下だから許された発言かもしれません。また宣長は、当時の日本の多くの儒者にある問題を感じていました。

儒者に皇国の事を問うには、知らずと言いて、恥とせず、漢国(カラクニ)の事を問うに、知らずと言うをば、いたく恥と思いて、知らぬことをも知り顔に言い紛らわす。これはよろずを漢めかさんとするあまりに、その身をも漢人めかして、皇国をばよその国のごとくもてなさんとするなるべし。されどなお漢人にはあらず。御国人なるに、儒者とあらんものの、おのが国の事を知らであるべき業かは、ただし皇国の人に対ては、さあらんも、漢人めきてよかめれど、もし漢国人の問いたらんには、我は、そなたの国の事はよく知れれども、我が国の事は知らずとは、さすがにえ言いたらじや。もしさも言いたらんには、己が国の事をだにえ知らぬ儒者の、いかでか人の国の事をは知るべきとて、手をうちて、いたく笑いつべし。*9

 外国かぶれ、西洋かぶれが今もあるように、この時代は漢国かぶれというものが大手を振っていたのです。自分の国の事を知ろうともしないで、ただよその国の事を学ぼうとする風潮があったのですが、このころは日本最古の神話でもあり歴史書でもある『古事記』や、歌集『万葉集』は、その特殊な表記方法から正確な解読が出来ていない状態でした。宣長は医学を学び始めると、それらの書を購入しましたが、それらを本格的に読み解いていくのはまだ先の話になります。*10

 さて、景山の弟子のうち医師志望であったのは、宣長だけではありませんでした。宣長の友人、岩崎榮令(藤文與)も医師のたまごでした。景山は、「医などの類は、世上の事を打忘れ、一向三昧に心を我が業に専らとし、他事なきゆへ、自然と世上の事は不案内なる」と言いましたが、彼は門弟たちがそのような医師になることを望んでいたとは考えられません。また、門弟たちすべてが聖人の道を行う儒者になることを望んでいたとも考えられません。

  宣長は景山の下で、『易経』、『詩経』、『書経』、『史記』、『晋書』、『礼記』、『左伝』、『世説新語』、『漢書』などを学びましたが、『不尽言』で景山が主張した通り、学問に興味を持たせるために歴史をかなり学ばされています。また、しばしば門弟たちと、琵琶とともに平家物語を謡いあったり、花見で歌を詠みあったり、月見で歌や詩を詠み、風流な京生活を一緒に楽しんだのでした。景山は、学問を好み、そして楽しむ、人間らしい人を育てていたのです。*11  しかし、「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て、志とすべし。わが身の利養を、専に志すべからず」、といった原則があるにもかかわらず、医師として「産業をまめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうをはかる」という目的をいかに果たしたらよいのか。宣長がその解決方法を得るのは香川修徳(修庵)からでした。

つづく

(ムガク)

(特にことわりのない宣長の文は、ある程度読みやすいように、今風にアレンジしています)

*1: 吉田悦之『心力をつくして―本居宣長の生涯』
*2: 『萬覚』、本居宣長全集より
*3: 『在京日記』、全集
*4: 『経籍』、全集
*5: 『玉勝間』、道のおこなふさだ
*6: 『書簡集』、全集
*7: 『論語』先進、「貝原益軒の養生訓―総論下―解説 036」
*8: 『書簡集』、全集、何某宛(おそらく手紙の内容から清水吉太郎宛)
*9: 『玉勝間』、儒者の皇国のことをばしらずとてある事
*10: 『経籍』、全集
*11: 『在京日記』、全集

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学



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