こちらのブログへ久しぶりの投稿・・・(ちょっと長いですよ)
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ねおす風NPO経営
「居場所づくり」と「北海道らしい自然体験文化の創出」この二つのキーワードが、私達の活動の大きな目標です。そして、私達が生み出す社会的サービスの第一の具体的な対象者(顧客)は、「未来を生きる子ども達」です。子ども達が元気に過ごせるコミュニティの創出は、親とお年寄りの世代の元気な暮らしに結びつくはずです。
我が国は、右肩上がりの経済成長と物質的に豊かな生活を目指してきました。ところが、年金制度の人口予想を誤った国ですら、2010年に10歳の小学生が私と同じ歳になる2055年の日本の社会は、現在の人口の1/3が減少し9000万人を切ると予想をしています。新幹線を延長し、空港をたくさん作ったとしても、いったい誰が管理運営するのでしょうか?自分の周りの二人に一人は同年以上の人々、あるいは海外からの移民が多数増えている世の中かもしれません。現代を生きる大人達は、未来を生きる子ども達の社会の様子をしっかりとイメージすることが今必要です。
現実に目の前にある社会課題に対応する解決策と行動は必要です。しかし、「未来の社会の暮らし方へ向けた対応準備」も今から始めなければなりません。NPO法人ねおすの活動の震源はここにあります。
◆価値観の形成 「旅」しましょう。
関東で生まれ育った私が、北海道に初めて訪れたのは中学時代。苫小牧に走る汽車の前方に線路はどこまでも続き、遥かかなたの地平線から空に続くような点となって消えていたことに大そう驚いたことを覚えています。それから、この広い大地が憧れ19歳に移住をし、山登り三昧の青春時代を送りました。さらにはネパールの山間も旅をしました。そんな私も、1970年代終わりに人並みに貿易会社に就職し、後にバブル景気と言われた80年代には観光開発業者として、すっかりと自然から離れた生活を送った時代もありました。20歳から30代半ばの15年間、今の私の価値観の形成に大きく影響を与えた出来事が幾つもあります。
憧れの北海道に来てすぐに母親がクモ膜下出血で倒れ、長期間意識がなくなり、その看病のために大学を休学、そして亡くしました。その後の虚無感は相当なものでした。それを事のごとく取り払ってくれたのが「ネパールの旅」でした。この世にこんなにも大きな山々があり、その山間で貧しくも明るく暮らしている人々の姿を忘れることはできません。私の生命観に大きく影響を与えた旅でした。
商品の買い付けに北欧に出張する機会がありました。それもいつも厳寒期でした。北緯65度にある町の工場へ行ったことがあります。白夜で昼でも薄暗い街中で人々は心豊かに暮らしていました。バイヤーとして日本から来た若造の接待に「私の町を案内しよう」ということが、しばしばあったことも私の「暮らし方」についての価値観に大きく影響を与えています。
「旅」することで、人に出会う、知らぬ事象や物に触れること、つまり多様な存在に思いを寄せる訓練は今でもとても大切なことだと考えています。私達の言葉でいうと「常にフィールドワーカー」であるべきです。
◆人生は出会いと別れ、そしてタイミング
経済がどこまでも拡大してゆくと信じられた、小さなアブクが大きな膨らみを増すような勢いがあった時代は観光開発の先兵として、我が子の寝顔しか見ないような仕事漬けの典型的サラリーマン生活を送りました。ついには、企画開発してオープンまで手掛けた大型レジャー施設では、深夜2時まで営業するスポーツクラブのマネージャーを担当し、「接客現場」にも2年ほど立ちました。ここで一緒に仕事をしたスポーツインストラクターや調理人、広報、営業マン達も、私にそれまでになかった「人や職業」に対する多価値観を与えています。その事業の中で「子ども相手のキャンプ」を始めて実施しました。しかし、その直後に起こった「バブル崩壊」。企業ビジネスの過酷さを肌身で感じ、冷徹に実行もしました。自らがヘッドハンティングして来たスタッフを自らが切るといった阿漕なこともしました。しかし、これが契機に「社会が大きく変わり始めた」ことは実感としてあります。
バブルがはじけたおかげで、人生を見直す機会を得ました。「始めたばかりの自然体験活動」への思いは返ってつのりました。挫折と後悔・・そして懺悔もあったのでしょう・・、自分の「思い・モチベーション」がある子どもキャンプを継続できる、携わる人材育成ができる仕事場を探しました。そして、ある専門学校の理事長に出会うことができました。
専門学校の経営再建に参画することを条件に、私の思いを実現する支援者が現れたのです。しかし、すぐに壁にぶち当たりました。私一人では到底事業を立ち上げることができません。そこで企画書を携えてあちこちを歩き回り同志を探しました。ぼんやりとした「思い」では物事は進みません。「ゆるがぬ思い」に昇華し固め発信することが大切です。すると、似たような別の「思い」を持った人が匂いを嗅ぎつけて必ず現れて来ます。エネルギーが集まり始め、成就するタイミングが自然と図られます。私に現れた盟友は樋口和生氏でした。山岳のスペシャリストで、私と少し違う角度で「アドベンチャー教育」という分野に興味を持っている男でした。
彼と私は性格がまったく異なります。それなのに、その彼と一緒に仕事を始めることができたのは、それまでの経験から「異質」に近づく能力が私の中に培養されていたからでしょう。
専門学校の付帯事業として子どもの自然体験活動とアウトドアのコースの創設を進め「北海道自然体験NEOS」をプロジェクト名にしました。平日は専門学校、土日は自然学校という山岳ガイドを中心とした仕事に明け暮れました。時代は「物(ハード)から心(ソフト)へ」という変化をし始めていました。会員登録者も二年間で100名を超え、スタート時の事業高60万円を2年度目400万円、3年度目600万円と伸ばすことができました。ところが、人生とはうまくゆかないもので、採算が取れそうな見通しがついた頃、親方の専門学校の経営の再構築、つまり、2度目のリストラに合う羽目に陥りました。
専門学校に残るか、外部に出て独立するかの選択でした。しかも独立資金は専門学校との売り上げを按分した残高現金、240万円也。スタッフは専門学校から一緒に抜けた職員三人と研修生二人。人はいる、事業はやれる、しかし金はない。腹を括るような決断でした。ちょうどその頃が「市民活動促進」の法案(その後の非営利活動法案)が阪神大震災の経験した日本の社会の話題に上がり始めた時期でした。私達は、専門学校で新たに集まった講師陣とも事業を分けることになりました。
◆ネットワーキング
一方、自然活動と言う守備範囲の広い事業は、「お金」以外にも新たな課題を抱えていました。最大の課題は「私自身」にありました。事業のサービスの主な相手(顧客)は私より年配の方々、そして子どもの後ろには親御さん方がいます。「うまく話せない」その方々に対するコミュニケーション能力の欠如が露呈してしまったのです。これには苦しみました。私は自分自身で「努力した」と胸を張って言えることはほとんどないのですが、このコミュニケーション力の自己開発だけは一生懸命にやりました。一念奮起して行動を起こしたのは、個人ではなく集団として異質な存在に近づくことでした。「環境教育」という全国的なネットワークへの参画、アイヌとの交流、そしてニューエイジと言われた精神世界です。さまざまなワークショップに参加しました。ストーリーテーリングから始まり、乳幼児と親向けの保育活動、環境教育系、コスミックダンス、サイコセラピーやインディアンのスエットロッジ、お坊さんとの交流などなど・・、たくさんの人と出会いネットワーキングを進めました。NEOSの活動にも各方面のアウドアの専門インストラクターや研究者との交流も始めてゆきました。
龍村仁監督の「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」の自主上映の実行は、ネットワーキングの意義を実感した出来事でした。阪神淡路大震災のあった1995年でした。環境や自然のことに関心がある、日頃自分の周囲には居ない顔ぶれの人達が職業や立場を関係なく大勢集まりました。どこから集まってきたのだろう、と考えるうちにネットワークの大切さ、そしてネットワーキングの手法を認識ことになりました。
色々な分野の人々とつながらなければ、子ども達の体験活動や自然の保護保全もできないし広がらない。スタッフのトレーニングもできない、NEOSの専門知識の蓄積には異分野の情報が必要だ。自分たちだけでやろうとすれば、事業の参加者も増えないし参画者も現れない。そのことに改めて気づかされました。
何もかもが暗中模索でしたが、「これからやろうとしていること」は前例がない、だから「ノウハウの蓄積は実践しかない」という気持ちで、行政や研究機関にも積極的に近づき、都市以外の地域への関わりを強め始め、スタッフ研修には演劇のトレーニング法やまちづくりのワークショップの手法を取り入れるなどの事業展開を始めました。「依頼されたことは断らない」何もかもが新たな社会実験だと思えば何にでも挑戦できました。
NPO法成立に合わせた独立を契機に、NEOS改め「ねおす」として、事業型NPOとして生計を立てて行こうと、決意も新たにしました。
◆法律との戦い
山岳や自然ガイド、子ども達への自然体験キャンプからスタートし、「エコツーリズム=教育と交流」をテーマに徐々に北海道各地にスタッフを定着させる「自然学校づくり」が大きな目標となりました。札幌から地域に活動拠点を移し、資金も必要になってくると様々な法律的な問題点にも直面しました。
第1は、自然体験活動を包括する法律がないため、私達の業務は現行法律で規制されることでした。主催事業は、「車による送迎」と「旅程(プログラム)」、時には「宿泊」がともないます。これらが適応される現行法は主に四つあります。一つは旅行業法。旅行業者の資格がなければ、移動や宿泊を伴うツアーの企画・販売ができない。二つ目は運送事業法。ガイドは車で移動しますが、有料での送迎ができない、三つ目は旅館業法。宿泊が収益事業の目的に含まれている場合は旅館業の免許が必要、そして四つ目は飲食業法。食事が収益事業に含まれている場合はこの免許も必要です。当たり前だと言われてしまいそうですが、日本各地にどこにでもあるような小さな地域にこの法律群を適応すると、地域が自立することが難しいことが分かるでしょう。旅行代理店が販売しないサイズ(多く人が集まらない、あるいは少人数で実施する)の旅程があるプログラム、安い公共交通機関や宿がない地域、旬な食材の提供、どれも私達の業務とは切れないサービスなのです。それぞれの資格を現行法の元で取得すれば、初期投下資金も運転資金も事業採算には合わないのです。小さな地域からは、自分達の手でプログラム販売ができないという現実となっています。
この問題に対応するために、さまざまなことを実行しています。旅行業法に対しては会員組織や小さな旅行会社との資本提携(個人として)、簡易宿泊許可や飲食業許可も取得した運営施設もあります。しかし、それは、地域振興という点からみれば、それが可能な場所だけの対処療法でしかありません。
この問題を「課題」にするために、1999年「全国エコツーリズム大会in福島」で提議し、前総理の麻生氏が政党の規制緩和懇談会で司会をしていた会合では、真っ先に手を挙げて、現場の実情を率直に訴え、居並ぶ国の官僚から事情聴取を受けたこともありました。その後グリーンツーリズム特区による規制緩和が始まり、旅行業法も改革も少しは進みましたが、地域立脚・地域発信の「交流事業推進」にはまだまだ法的な環境整備が必要だと考えています。
第2は、金融機関からの借り入れです。NPOというだけで銀行がお金を貸してくれない時代はつい最近までありました。ですから、北海道NPOバンクという市民サイズの貸金業の仕組みづくりにも参画しました。現在、銀行は事業規模の大きなNPOには1,000万円の単位で貸し付けはしてくれますが、信用保証協会から保証を取り付けることはできません。行政との委託契約書、理事会承認の書類の提出が必要で、個人として信用調査をされて約束手形まで切らされます。「こんな2重3重のリスクヘッジがある貸金業なら、誰でもできる」と、日本の金融は「事業を育てるコンサルティング力」を高めて欲しいと願うばかりです。
◆ 協働、地域に入る
ねおすの本部は札幌にありますが、スタッフの多くは、北海道各地の人口が少ない町村のさらに住民が少ない地域・地区に住んで活動をしています。その全員が都会育ちで、もともと地元住民ではありません。小さな地域のコミュニティは都会には薄れてしまった様々な「つながり」があります。地域に関わる時には「その地域のことをよく知らない」と、いい意味での「よそ者」としての自己認識を持った謙虚な姿勢が必要です。コミュニケーション能力が育成されていないと、説明や表現不足のため、地域の人の立場や考え方、地域のルール、価値観に配慮しないような発言をしてしまうことがあります。よかれと思って話したつもりでも、複数の人を介するにつれ曲折があり、とんだ誤解を生むことも多々あります。地域で活動を展開するためには、その地域の人間関係を把握しなければなりません。そして、しっかりと「私」の欠点、弱点も披露しなければなりません。また、地域にある基本的なルールは守り、地域にとって必要な「役割」をもらい果たす必要があります。
地域に住む時には、自分の仕事だけをしていては、地域住民にはなれません。地域の行事や会議に積極的に参加し、時には仕事より優先事項とすべきです。そこから信頼関係が生まれてきます。私が拠点にしている黒松内ぶなの森自然学校は1999年4月、ブナの北限である道南の人口3600人の黒松内に開校しました。国、町、(社)日本環境教育フォーラム、と「ねおす」がタイミング良く協働した結果であり、戸数60軒ほどの地区にある廃校を活用しています。事業は自然ガイド、学校団体受け入れ、主催の自然体験活動、地域交流事業、人材育成などです。ここでも、山村留学運営協議会、地域の生涯学習センターの事務局役、お年寄りの会の会員、水道組合の手伝い、子ども達の放課後活動、小学生の送迎、学校行事への参加など様々な地域活動を行っています。
◆ NPOのビジネスモデルって何?
最近ある取材を受けた後、出版された本に著者が私やねおすの事業について次のように記述しました。
「彼はビジネスを営んでいるという意識はない。自分がやってきたのは人づくり、地域づくりだととらえている。今はまだ軌道に乗ってはいない。目を転じれば課題が山積している。それでも希望をもっている。」
つまりビジネスモデルとして成功していないということなのでしょうが、ちょっと納得ができない考察です。取材時は気がつきませんでしたが、そもそも著者と私は社会を見る違ったメガネをかけていると思われます。著者は、資本主義経済におけるビジネスの成功モデル像(軌道)を持ってNPOを見ようとしていると思います。NPOがどの位の事業収入をあげ、それによって日本人の年齢と平均収入を比較した物差しで、いったい何人が雇用されているかをもって、「軌道に乗ったか否か」を判断しているのではないかと思われます。
「お金」だけではない豊かさを測る物差しが日本にはまだないのかもしれません。私は、人づくり、地域づくりがビジネス(仕事)だと意識していますし、軌道を敷設する場所は「地域」だと考えています。これまでは、地域に軌道を敷くのも、軌道の上で客車や貨車を牽引する機関車となるもの行政でした。これからは、新たな「軌道づくり」が必要なのです。NPOはその新たな軌道づくりをしていると考えています。しかし、造った軌道には終点がありません。無限軌道です。世の中(人が住む地域)は課題だらけです。課題がやまないのが「人が生きる場所」であり「社会」なのです。だから、その軌道の地盤整備(地域づくり)と軌道そのものも常に保守点検もしなければなりません。そして、軌道上の課題を解決しながら自らも走る機関車(人材)づくり、それらの動きを止めない「解決し続ける仕組みづくり」が必要なのです。そのビジネスモデルはなんとかこさえています。行政の仕事(ビジネス)に終わりがないのと同じです。
「永遠の未完、これ完成なり」、宮澤賢治さんの私が好きな言葉です。ついでに、「風と往き来し、雲からエネルギーをとれ」これも座右の銘です。これは「希望を持つ」のとは異なります。そもそも私には、大した希望はありません。羊を飼いたい、おいしいコーヒーが飲みたい程度です。しかし、「願(がん)」はあります。地球平和級の大きな願いです。
◆ねおす風味のNPOマネージメント
NPOの経営が目指すところはミッションの実現です。しかしそれは、ゆるぎない確固とした事業推進の基盤となる考え方があって打ち立てられるものであり、ミッションは単なるフラッグ(旗)にすぎません。大事なのは掲揚台の「土台」です。そして土台を立てる土壌です。どこに掲揚台をつくるか、土壌は福祉という分野であっても、まちづくりであっても「課題解決が必要な」地域であり、現場です。私達は「自然がある場所」が現場ですが、最近は「農村地域」も土台を造る現場とするようになりました。土台には土中に深く埋める基礎が必要です。そして頑丈にするためには鉄筋が必要です。その鉄筋は、「ねおすツーリズム憲章」という9カ条の文言で作っています。例えば、第1条「学びの場の創造と提供」、第3条「環境保全と持続可能な利用」が謳われ、第4条には「世界へ向けて北海道らしさを発信する」、第5条には「訪問地へ愛と責任」について明文化しています。
しかし、掲げるフラッグ(旗)は一つでなくて構いません。むしろ複数ある方が多様な人々に目にとまります。そして、旗はいつもてっぺんに掲揚しなくてもかまいません。ある旗は途中に、ある旗は時には降ろすこともあります。そして、風になびくような「しなやかさ」が大切です。私達のミッションは、例えば「森づくり」、「森のようちえん活動」などでの具体的な行動目標で表しています。これは、できるだけわかりやすいことが大切です。
さらに、ミッションフラッグをどのように掲揚するか、行動原則もあります。経営者としての経営原則と言っていいでしょう。旗を掲げたのはいいが、誰も集まってこない、一緒に活動しないのでは運営ができません。「思い」ではなく「思い込み」に陥ります。経営のマンネリ化を防ぎ、スタッフや関わる人が集いやすい、働きやすい環境づくりのためには、フラッグの掲揚加減が必要なのです。その加減のあり方を「ねおす活動のエコロジー8原則」などと唱えています。「相互協働の原則」「変化変容の原則」「多様性の原則」「進化の原則」などです。最近では、「組織と個人のミッションのバランスの原則」なるものも加えています。
◆未来に向けて
100年という年月に起こった過去は、人間の寿命から考えると想像しやすい長さだと思います。北海道は、多くの和人が入植してからちょうどそのぐらいです。今ならまだ原生だった自然が想像できます。だとすると、100年先の未来がかなり異なる社会環境になることに想像も及ぶはずです。(環境教育でいう、時間的・空間的な視野の拡大)
これまでの借金にまみれた国家運営は続けば破たんしてしまうことは、想像に難くありません。国がコントロールし、全国同質な社会を目指していた高度成長型経済は転換せざるを得ないでしょう。国が公共を取り仕切り、地域を開発し国民と国土を護る施策から転じ、地域の独自性が問われる厳しくも「新しい時代」到来です。しかし、暮らし方の全国同一性化から、地域の独自性を生み出すことは、そうたやすいことではありません。
まずは、自らの生き方に誇りを持つ必要があります。その上で未来を想像し新たな「暮らし方」を創造することができるのです。都市住民は「田舎を愛する心」、地域住民にとっては「郷土愛」を育むことが今必要だと考えています。
これこそが、私達が見ざすNPO活動であり、掲揚台の土台そのものです。自然豊かな地だからこそできる、人が人に関わり合いながらお互いに育つ「心の豊かさ」を育む地域活動であり、農山村漁村の社会的価値を高めることにつながると考えています。
私達の活動は、必然的に三世代の交流の場づくりを目指しています。今、目の前に居るこの子たちに託せる未来への軌道を作りたい、そう大人が感じてくれればいい。「子どもの笑顔と歓声がある地域や活動が、間違いなく未来を創る」と信じて「願かけ」をしています。
かつて、あるアイヌに、『嘘でもいいから祈れ。そのうち本当になる』と教えられました。
これが、NPO経営の本質かもしれないと思います。
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ねおす風NPO経営
「居場所づくり」と「北海道らしい自然体験文化の創出」この二つのキーワードが、私達の活動の大きな目標です。そして、私達が生み出す社会的サービスの第一の具体的な対象者(顧客)は、「未来を生きる子ども達」です。子ども達が元気に過ごせるコミュニティの創出は、親とお年寄りの世代の元気な暮らしに結びつくはずです。
我が国は、右肩上がりの経済成長と物質的に豊かな生活を目指してきました。ところが、年金制度の人口予想を誤った国ですら、2010年に10歳の小学生が私と同じ歳になる2055年の日本の社会は、現在の人口の1/3が減少し9000万人を切ると予想をしています。新幹線を延長し、空港をたくさん作ったとしても、いったい誰が管理運営するのでしょうか?自分の周りの二人に一人は同年以上の人々、あるいは海外からの移民が多数増えている世の中かもしれません。現代を生きる大人達は、未来を生きる子ども達の社会の様子をしっかりとイメージすることが今必要です。
現実に目の前にある社会課題に対応する解決策と行動は必要です。しかし、「未来の社会の暮らし方へ向けた対応準備」も今から始めなければなりません。NPO法人ねおすの活動の震源はここにあります。
◆価値観の形成 「旅」しましょう。
関東で生まれ育った私が、北海道に初めて訪れたのは中学時代。苫小牧に走る汽車の前方に線路はどこまでも続き、遥かかなたの地平線から空に続くような点となって消えていたことに大そう驚いたことを覚えています。それから、この広い大地が憧れ19歳に移住をし、山登り三昧の青春時代を送りました。さらにはネパールの山間も旅をしました。そんな私も、1970年代終わりに人並みに貿易会社に就職し、後にバブル景気と言われた80年代には観光開発業者として、すっかりと自然から離れた生活を送った時代もありました。20歳から30代半ばの15年間、今の私の価値観の形成に大きく影響を与えた出来事が幾つもあります。
憧れの北海道に来てすぐに母親がクモ膜下出血で倒れ、長期間意識がなくなり、その看病のために大学を休学、そして亡くしました。その後の虚無感は相当なものでした。それを事のごとく取り払ってくれたのが「ネパールの旅」でした。この世にこんなにも大きな山々があり、その山間で貧しくも明るく暮らしている人々の姿を忘れることはできません。私の生命観に大きく影響を与えた旅でした。
商品の買い付けに北欧に出張する機会がありました。それもいつも厳寒期でした。北緯65度にある町の工場へ行ったことがあります。白夜で昼でも薄暗い街中で人々は心豊かに暮らしていました。バイヤーとして日本から来た若造の接待に「私の町を案内しよう」ということが、しばしばあったことも私の「暮らし方」についての価値観に大きく影響を与えています。
「旅」することで、人に出会う、知らぬ事象や物に触れること、つまり多様な存在に思いを寄せる訓練は今でもとても大切なことだと考えています。私達の言葉でいうと「常にフィールドワーカー」であるべきです。
◆人生は出会いと別れ、そしてタイミング
経済がどこまでも拡大してゆくと信じられた、小さなアブクが大きな膨らみを増すような勢いがあった時代は観光開発の先兵として、我が子の寝顔しか見ないような仕事漬けの典型的サラリーマン生活を送りました。ついには、企画開発してオープンまで手掛けた大型レジャー施設では、深夜2時まで営業するスポーツクラブのマネージャーを担当し、「接客現場」にも2年ほど立ちました。ここで一緒に仕事をしたスポーツインストラクターや調理人、広報、営業マン達も、私にそれまでになかった「人や職業」に対する多価値観を与えています。その事業の中で「子ども相手のキャンプ」を始めて実施しました。しかし、その直後に起こった「バブル崩壊」。企業ビジネスの過酷さを肌身で感じ、冷徹に実行もしました。自らがヘッドハンティングして来たスタッフを自らが切るといった阿漕なこともしました。しかし、これが契機に「社会が大きく変わり始めた」ことは実感としてあります。
バブルがはじけたおかげで、人生を見直す機会を得ました。「始めたばかりの自然体験活動」への思いは返ってつのりました。挫折と後悔・・そして懺悔もあったのでしょう・・、自分の「思い・モチベーション」がある子どもキャンプを継続できる、携わる人材育成ができる仕事場を探しました。そして、ある専門学校の理事長に出会うことができました。
専門学校の経営再建に参画することを条件に、私の思いを実現する支援者が現れたのです。しかし、すぐに壁にぶち当たりました。私一人では到底事業を立ち上げることができません。そこで企画書を携えてあちこちを歩き回り同志を探しました。ぼんやりとした「思い」では物事は進みません。「ゆるがぬ思い」に昇華し固め発信することが大切です。すると、似たような別の「思い」を持った人が匂いを嗅ぎつけて必ず現れて来ます。エネルギーが集まり始め、成就するタイミングが自然と図られます。私に現れた盟友は樋口和生氏でした。山岳のスペシャリストで、私と少し違う角度で「アドベンチャー教育」という分野に興味を持っている男でした。
彼と私は性格がまったく異なります。それなのに、その彼と一緒に仕事を始めることができたのは、それまでの経験から「異質」に近づく能力が私の中に培養されていたからでしょう。
専門学校の付帯事業として子どもの自然体験活動とアウトドアのコースの創設を進め「北海道自然体験NEOS」をプロジェクト名にしました。平日は専門学校、土日は自然学校という山岳ガイドを中心とした仕事に明け暮れました。時代は「物(ハード)から心(ソフト)へ」という変化をし始めていました。会員登録者も二年間で100名を超え、スタート時の事業高60万円を2年度目400万円、3年度目600万円と伸ばすことができました。ところが、人生とはうまくゆかないもので、採算が取れそうな見通しがついた頃、親方の専門学校の経営の再構築、つまり、2度目のリストラに合う羽目に陥りました。
専門学校に残るか、外部に出て独立するかの選択でした。しかも独立資金は専門学校との売り上げを按分した残高現金、240万円也。スタッフは専門学校から一緒に抜けた職員三人と研修生二人。人はいる、事業はやれる、しかし金はない。腹を括るような決断でした。ちょうどその頃が「市民活動促進」の法案(その後の非営利活動法案)が阪神大震災の経験した日本の社会の話題に上がり始めた時期でした。私達は、専門学校で新たに集まった講師陣とも事業を分けることになりました。
◆ネットワーキング
一方、自然活動と言う守備範囲の広い事業は、「お金」以外にも新たな課題を抱えていました。最大の課題は「私自身」にありました。事業のサービスの主な相手(顧客)は私より年配の方々、そして子どもの後ろには親御さん方がいます。「うまく話せない」その方々に対するコミュニケーション能力の欠如が露呈してしまったのです。これには苦しみました。私は自分自身で「努力した」と胸を張って言えることはほとんどないのですが、このコミュニケーション力の自己開発だけは一生懸命にやりました。一念奮起して行動を起こしたのは、個人ではなく集団として異質な存在に近づくことでした。「環境教育」という全国的なネットワークへの参画、アイヌとの交流、そしてニューエイジと言われた精神世界です。さまざまなワークショップに参加しました。ストーリーテーリングから始まり、乳幼児と親向けの保育活動、環境教育系、コスミックダンス、サイコセラピーやインディアンのスエットロッジ、お坊さんとの交流などなど・・、たくさんの人と出会いネットワーキングを進めました。NEOSの活動にも各方面のアウドアの専門インストラクターや研究者との交流も始めてゆきました。
龍村仁監督の「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」の自主上映の実行は、ネットワーキングの意義を実感した出来事でした。阪神淡路大震災のあった1995年でした。環境や自然のことに関心がある、日頃自分の周囲には居ない顔ぶれの人達が職業や立場を関係なく大勢集まりました。どこから集まってきたのだろう、と考えるうちにネットワークの大切さ、そしてネットワーキングの手法を認識ことになりました。
色々な分野の人々とつながらなければ、子ども達の体験活動や自然の保護保全もできないし広がらない。スタッフのトレーニングもできない、NEOSの専門知識の蓄積には異分野の情報が必要だ。自分たちだけでやろうとすれば、事業の参加者も増えないし参画者も現れない。そのことに改めて気づかされました。
何もかもが暗中模索でしたが、「これからやろうとしていること」は前例がない、だから「ノウハウの蓄積は実践しかない」という気持ちで、行政や研究機関にも積極的に近づき、都市以外の地域への関わりを強め始め、スタッフ研修には演劇のトレーニング法やまちづくりのワークショップの手法を取り入れるなどの事業展開を始めました。「依頼されたことは断らない」何もかもが新たな社会実験だと思えば何にでも挑戦できました。
NPO法成立に合わせた独立を契機に、NEOS改め「ねおす」として、事業型NPOとして生計を立てて行こうと、決意も新たにしました。
◆法律との戦い
山岳や自然ガイド、子ども達への自然体験キャンプからスタートし、「エコツーリズム=教育と交流」をテーマに徐々に北海道各地にスタッフを定着させる「自然学校づくり」が大きな目標となりました。札幌から地域に活動拠点を移し、資金も必要になってくると様々な法律的な問題点にも直面しました。
第1は、自然体験活動を包括する法律がないため、私達の業務は現行法律で規制されることでした。主催事業は、「車による送迎」と「旅程(プログラム)」、時には「宿泊」がともないます。これらが適応される現行法は主に四つあります。一つは旅行業法。旅行業者の資格がなければ、移動や宿泊を伴うツアーの企画・販売ができない。二つ目は運送事業法。ガイドは車で移動しますが、有料での送迎ができない、三つ目は旅館業法。宿泊が収益事業の目的に含まれている場合は旅館業の免許が必要、そして四つ目は飲食業法。食事が収益事業に含まれている場合はこの免許も必要です。当たり前だと言われてしまいそうですが、日本各地にどこにでもあるような小さな地域にこの法律群を適応すると、地域が自立することが難しいことが分かるでしょう。旅行代理店が販売しないサイズ(多く人が集まらない、あるいは少人数で実施する)の旅程があるプログラム、安い公共交通機関や宿がない地域、旬な食材の提供、どれも私達の業務とは切れないサービスなのです。それぞれの資格を現行法の元で取得すれば、初期投下資金も運転資金も事業採算には合わないのです。小さな地域からは、自分達の手でプログラム販売ができないという現実となっています。
この問題に対応するために、さまざまなことを実行しています。旅行業法に対しては会員組織や小さな旅行会社との資本提携(個人として)、簡易宿泊許可や飲食業許可も取得した運営施設もあります。しかし、それは、地域振興という点からみれば、それが可能な場所だけの対処療法でしかありません。
この問題を「課題」にするために、1999年「全国エコツーリズム大会in福島」で提議し、前総理の麻生氏が政党の規制緩和懇談会で司会をしていた会合では、真っ先に手を挙げて、現場の実情を率直に訴え、居並ぶ国の官僚から事情聴取を受けたこともありました。その後グリーンツーリズム特区による規制緩和が始まり、旅行業法も改革も少しは進みましたが、地域立脚・地域発信の「交流事業推進」にはまだまだ法的な環境整備が必要だと考えています。
第2は、金融機関からの借り入れです。NPOというだけで銀行がお金を貸してくれない時代はつい最近までありました。ですから、北海道NPOバンクという市民サイズの貸金業の仕組みづくりにも参画しました。現在、銀行は事業規模の大きなNPOには1,000万円の単位で貸し付けはしてくれますが、信用保証協会から保証を取り付けることはできません。行政との委託契約書、理事会承認の書類の提出が必要で、個人として信用調査をされて約束手形まで切らされます。「こんな2重3重のリスクヘッジがある貸金業なら、誰でもできる」と、日本の金融は「事業を育てるコンサルティング力」を高めて欲しいと願うばかりです。
◆ 協働、地域に入る
ねおすの本部は札幌にありますが、スタッフの多くは、北海道各地の人口が少ない町村のさらに住民が少ない地域・地区に住んで活動をしています。その全員が都会育ちで、もともと地元住民ではありません。小さな地域のコミュニティは都会には薄れてしまった様々な「つながり」があります。地域に関わる時には「その地域のことをよく知らない」と、いい意味での「よそ者」としての自己認識を持った謙虚な姿勢が必要です。コミュニケーション能力が育成されていないと、説明や表現不足のため、地域の人の立場や考え方、地域のルール、価値観に配慮しないような発言をしてしまうことがあります。よかれと思って話したつもりでも、複数の人を介するにつれ曲折があり、とんだ誤解を生むことも多々あります。地域で活動を展開するためには、その地域の人間関係を把握しなければなりません。そして、しっかりと「私」の欠点、弱点も披露しなければなりません。また、地域にある基本的なルールは守り、地域にとって必要な「役割」をもらい果たす必要があります。
地域に住む時には、自分の仕事だけをしていては、地域住民にはなれません。地域の行事や会議に積極的に参加し、時には仕事より優先事項とすべきです。そこから信頼関係が生まれてきます。私が拠点にしている黒松内ぶなの森自然学校は1999年4月、ブナの北限である道南の人口3600人の黒松内に開校しました。国、町、(社)日本環境教育フォーラム、と「ねおす」がタイミング良く協働した結果であり、戸数60軒ほどの地区にある廃校を活用しています。事業は自然ガイド、学校団体受け入れ、主催の自然体験活動、地域交流事業、人材育成などです。ここでも、山村留学運営協議会、地域の生涯学習センターの事務局役、お年寄りの会の会員、水道組合の手伝い、子ども達の放課後活動、小学生の送迎、学校行事への参加など様々な地域活動を行っています。
◆ NPOのビジネスモデルって何?
最近ある取材を受けた後、出版された本に著者が私やねおすの事業について次のように記述しました。
「彼はビジネスを営んでいるという意識はない。自分がやってきたのは人づくり、地域づくりだととらえている。今はまだ軌道に乗ってはいない。目を転じれば課題が山積している。それでも希望をもっている。」
つまりビジネスモデルとして成功していないということなのでしょうが、ちょっと納得ができない考察です。取材時は気がつきませんでしたが、そもそも著者と私は社会を見る違ったメガネをかけていると思われます。著者は、資本主義経済におけるビジネスの成功モデル像(軌道)を持ってNPOを見ようとしていると思います。NPOがどの位の事業収入をあげ、それによって日本人の年齢と平均収入を比較した物差しで、いったい何人が雇用されているかをもって、「軌道に乗ったか否か」を判断しているのではないかと思われます。
「お金」だけではない豊かさを測る物差しが日本にはまだないのかもしれません。私は、人づくり、地域づくりがビジネス(仕事)だと意識していますし、軌道を敷設する場所は「地域」だと考えています。これまでは、地域に軌道を敷くのも、軌道の上で客車や貨車を牽引する機関車となるもの行政でした。これからは、新たな「軌道づくり」が必要なのです。NPOはその新たな軌道づくりをしていると考えています。しかし、造った軌道には終点がありません。無限軌道です。世の中(人が住む地域)は課題だらけです。課題がやまないのが「人が生きる場所」であり「社会」なのです。だから、その軌道の地盤整備(地域づくり)と軌道そのものも常に保守点検もしなければなりません。そして、軌道上の課題を解決しながら自らも走る機関車(人材)づくり、それらの動きを止めない「解決し続ける仕組みづくり」が必要なのです。そのビジネスモデルはなんとかこさえています。行政の仕事(ビジネス)に終わりがないのと同じです。
「永遠の未完、これ完成なり」、宮澤賢治さんの私が好きな言葉です。ついでに、「風と往き来し、雲からエネルギーをとれ」これも座右の銘です。これは「希望を持つ」のとは異なります。そもそも私には、大した希望はありません。羊を飼いたい、おいしいコーヒーが飲みたい程度です。しかし、「願(がん)」はあります。地球平和級の大きな願いです。
◆ねおす風味のNPOマネージメント
NPOの経営が目指すところはミッションの実現です。しかしそれは、ゆるぎない確固とした事業推進の基盤となる考え方があって打ち立てられるものであり、ミッションは単なるフラッグ(旗)にすぎません。大事なのは掲揚台の「土台」です。そして土台を立てる土壌です。どこに掲揚台をつくるか、土壌は福祉という分野であっても、まちづくりであっても「課題解決が必要な」地域であり、現場です。私達は「自然がある場所」が現場ですが、最近は「農村地域」も土台を造る現場とするようになりました。土台には土中に深く埋める基礎が必要です。そして頑丈にするためには鉄筋が必要です。その鉄筋は、「ねおすツーリズム憲章」という9カ条の文言で作っています。例えば、第1条「学びの場の創造と提供」、第3条「環境保全と持続可能な利用」が謳われ、第4条には「世界へ向けて北海道らしさを発信する」、第5条には「訪問地へ愛と責任」について明文化しています。
しかし、掲げるフラッグ(旗)は一つでなくて構いません。むしろ複数ある方が多様な人々に目にとまります。そして、旗はいつもてっぺんに掲揚しなくてもかまいません。ある旗は途中に、ある旗は時には降ろすこともあります。そして、風になびくような「しなやかさ」が大切です。私達のミッションは、例えば「森づくり」、「森のようちえん活動」などでの具体的な行動目標で表しています。これは、できるだけわかりやすいことが大切です。
さらに、ミッションフラッグをどのように掲揚するか、行動原則もあります。経営者としての経営原則と言っていいでしょう。旗を掲げたのはいいが、誰も集まってこない、一緒に活動しないのでは運営ができません。「思い」ではなく「思い込み」に陥ります。経営のマンネリ化を防ぎ、スタッフや関わる人が集いやすい、働きやすい環境づくりのためには、フラッグの掲揚加減が必要なのです。その加減のあり方を「ねおす活動のエコロジー8原則」などと唱えています。「相互協働の原則」「変化変容の原則」「多様性の原則」「進化の原則」などです。最近では、「組織と個人のミッションのバランスの原則」なるものも加えています。
◆未来に向けて
100年という年月に起こった過去は、人間の寿命から考えると想像しやすい長さだと思います。北海道は、多くの和人が入植してからちょうどそのぐらいです。今ならまだ原生だった自然が想像できます。だとすると、100年先の未来がかなり異なる社会環境になることに想像も及ぶはずです。(環境教育でいう、時間的・空間的な視野の拡大)
これまでの借金にまみれた国家運営は続けば破たんしてしまうことは、想像に難くありません。国がコントロールし、全国同質な社会を目指していた高度成長型経済は転換せざるを得ないでしょう。国が公共を取り仕切り、地域を開発し国民と国土を護る施策から転じ、地域の独自性が問われる厳しくも「新しい時代」到来です。しかし、暮らし方の全国同一性化から、地域の独自性を生み出すことは、そうたやすいことではありません。
まずは、自らの生き方に誇りを持つ必要があります。その上で未来を想像し新たな「暮らし方」を創造することができるのです。都市住民は「田舎を愛する心」、地域住民にとっては「郷土愛」を育むことが今必要だと考えています。
これこそが、私達が見ざすNPO活動であり、掲揚台の土台そのものです。自然豊かな地だからこそできる、人が人に関わり合いながらお互いに育つ「心の豊かさ」を育む地域活動であり、農山村漁村の社会的価値を高めることにつながると考えています。
私達の活動は、必然的に三世代の交流の場づくりを目指しています。今、目の前に居るこの子たちに託せる未来への軌道を作りたい、そう大人が感じてくれればいい。「子どもの笑顔と歓声がある地域や活動が、間違いなく未来を創る」と信じて「願かけ」をしています。
かつて、あるアイヌに、『嘘でもいいから祈れ。そのうち本当になる』と教えられました。
これが、NPO経営の本質かもしれないと思います。
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