2012年、7か月の被災地支援活動を振り返って
◆なぜ初動できたか、なぜボラセンを独自運営できたか。
発災し本州に渡る交通手段が途絶えた状況下で、支援活動を初動できた直接的な要因は四点ある。第一は釜石出身の職員、柏崎未来の存在であった。発災後、釜石の状況はなかなかTV映像では流れなかった。3月12日の昼頃、初めて釜石市街地に流れ込む濁流が画面に映し出された。同時に刻々と事態が悪化する福島原発事故も伝えていた。出動するか否か暫し逡巡したが、ねおすというコミュニティ全体が彼女と彼女の郷里を心配している、「通常業務はできない」と直感した。出動以外の選択肢はなくなった。 第二点は、野外行動技術を有する私達はテントと寝袋、マッチと鍋があればどこでも生きてゆけるとの自信がある。被災現場は想像を越えていたが、そこに向かうことに大きな不安は覚えなかった。第三点は、ねおす自体がネットワーク型組織であったことだ。例えば、函館に居住するスタッフが本州に渡るフェリーを押さえ、車両燃料を確保した。札幌本部では多くの人が住む大都市の利点を活かして即座に資金集めを開始した。黒松内ぶなの森自然学校はワゴン車両を複数台保有し、食糧や装備の備蓄があった。異なる地域に拠点を持つ個別の事業体がそれぞれの特徴を一気に発揮した。そして、第四点は、NPOの定款に「災害支援」を書き込んでいることにある。これは阪神大震災時に初動できなかった反省の上に立って明文化した。災害支援は定款上で、ねおすの本来活動であり、理事会や正会員の意向を聞くことなく理事長判断で迅速に行動を起こすことができた。
私達の本業とする野外活動では、スタッフは刻々と変化する自然環境の状況や参加者の状態の中で、スタッフ間で活動目標は共有するが、その到達へのプロセスは各自の判断で臨機応変に対処する力が求められる。今回はそのノウハウが活かされた。初動では監督の指揮命令が優先する野球型ではなく、実働者に瞬時の判断と行動を任せるサッカー型のチームプレーを行った。しかし、第2陣以降は、スタッフの個性と特性を考えて人材を投入した。「自主・自律できる人材の学び場づくり」、「ツーリズム = 学びと交流の場づくり」がねおすのミッションであり、職員は常日頃から北海道の各地域拠点で地域住民と関わりを持ち、かつ地域内外とのネットワークづくり、交流創出を展開している。これらの経験があったからこそ、緊急事態の中でも初動からボランティアセンターの立ち上げまで職員同士が連携し一気に走りぬけることができた。
◆ワーキングネットという概念
「現在より状況が改善されるベターを求めて、今できることを各自が判断して実行する。しかし、協働の大切さを忘れてはならない」これが、ねおすの野外活動の行動規範である。それができるようになることが、ねおすの人材育成の目標である。今回は、まずは組織内において事態に対応する連携を作り上げるワーキングネット・Workig-NETを実践した。連続的に支援車を現地に送り込んだ。第1陣はテント生活、第2陣は遊休施設を探し出し地域との連携を図り、第3陣が現地入りした3/19には被災者児童のケア活動を開始した。テントから地域施設に拠点を移すまでをわずか1週間で成し遂げたことは、これまで私達が北海道各地で実践してきた地域活動のWorking-NETのノウハウが応用できたことに他ならない。
その後は、被災者のニーズ調査、周辺集落状況把握、他NPOと連携、物資配送の体制づくりを行い、3月末には独自のボランティアセンターを立ち上げた。そして北海道や全国からの数多くのボランティアの受け入れを行った。物資提供、瓦礫の撤去作業、洗濯もできる被災者同士・ボランティアともお茶を飲みながら交流ができる、「青空喫茶」の開店、地域住民と協働し高齢者のディケア活動等、広く生活一般への支援を本格化し、スタッフが交代しながら徐々に地域との信頼関係を築いて行った。
◆情報の途絶・・被災地支援から起こった協働意識
東日本大震災は、近世において日本人が直面したことがない沿岸津波の大災害であり、それも過疎地域において壊滅と言われる程に市街地や小さな集落が被災した。阪神淡路大震災は数多くの人々が居住する地域であり都市の被災であったが、今回は福島から岩手に及ぶ広範囲の沿岸地域の被災であった。まず、情報が途絶した。釜石鵜住居地域は長期間停電し通常電話、TVはもとより携帯電話も通じなかった。福島原発の状況は朝晩の電波状況がやや良い時に雑音に混ざってかすかに聞える携帯ラジオだけが頼りであった。原子炉建屋の爆発を全く知り得ることができない人々が被災地の大多数であっただろう。あの状況下で放射能が北へより拡散していたらと考えると戦慄すら覚える。市職員からの聞き取り調査から3月末頃までは市災害本部と鵜住居地域の間でも情報のやり取りは人による伝達だけであり、極端に情報が不足していたこともわかった。物資があまりにも不足しているので、3/16に被災を受けていない内陸の遠野市へ初対面のNPOに連携を求めに車で1時間かけて行った。その時、市街の大型スーパーの衣料品コーナーが開いており、たくさんの商品が並んでいる様を見て驚愕した。避難所には食糧は自衛隊が配送し確保されていたが、生活必需品類は下着すらまだ届いていなかった。「現地では今何が必要だ!」という照会に「下着、靴下、トイレットペーパー、歯磨き・・」など様々な品目を伝えた。まさしくアナログな伝令であった。それを現地NPOが物資支援の要望品としてインターネットに書き込んだ。すると、10分もたたないうちに、歯磨き5,000本、下着も大量に送ると言う回答がメールで送られてきた。現代社会の情報のやり取りが携帯電話やパソコンにあまりにも頼り過ぎていることに気づかされた。通信手段が途絶する広域災害に対して情報社会はあまりにも脆弱であることが露呈された。と同時に、インターネットは顔が見えないままにも社会に協働意識を育んできたことの一端を見せつけられた瞬間でもあった。
外から来た支援者だけが行うのではなく、地域住民と顔を突き合わせ身体を張り合って行う、それも必要な支援をタイミング良く即座に行う支援活動から地域との相互信頼関係が生まれる。それがあってこそ地域との協働意識が醸造されることを改めて痛感した。また、ワーキングネットの過程でのインターネットの活用がとても有用であること、またインターネット介したこれまでの人々とのつながりが、緊急事態においては、それに即応した協働を促進させてゆくとも強く意識させられた。
◆ボランティア、被災地支援という活動からの学び
被災地支援活動には数多くの若者が参加した。特に支援初期から夏にかけて1週間、2週間と長期に現地滞在するボランティアには、指示を受けて活動するだけではなく、ある一定の範囲で支援の仕方まで工夫して形作ることもお願いした。例えば、青空喫茶の開店では場所の選定と土地所有者からの了解は、ねおすが責任を持って取り付け、目的(避難所からなかなか出てこない人達を外出させ気分転換・健康維持ができるようにしたい、ボランティアと被災者、被災者同士の交流の場をつくりたい、必要な物資が得られる自由無料市場としたい)だけを共有し、その具体的なやり方についてはボランティアの裁量を大きくした。その結果、自分達で苦心して人を集めることに務めた。自らが考え自らが行動を起こし、その結果として利用者から喜ばれた体験は、若者達の達成感が大きく自己肯定感を高め自信につながって行った。当初は大学がお膳立てをし、バスでボランティアセンターの応援に駆け付けた山梨県の都留文科大学はその後、学生自らが支援補助金を獲得し被災地支援を始め、ねおすを現地調整役に使うようにもなった。また、札幌のえぞロックは、現地へ送り込むボランティアの独自の募集・事前オリエンテーションの仕組みを作り上げて行った。
ねおすボランティアセンターは、単なる労働力としての瓦礫撤去作業だけでボランティアが帰ることがないように、被災者や地域住民と触れ合う、話ができる場を可能な限りコーディネイトをした。夏になり被災漁業者自らが復興を目指すようになると、漁師さんと一緒に養殖筏の資材準備を行い、食事をする機会も多くなった。被災者や地域住民から直接聞く被災・避難の話はそれを聞いた者の心に深く浸透し、彼らのこれからの生き方にも強い影響を与えたと思う。瓦礫撤去作業をし、地域の農家に民泊したある女子学生が「今回の体験は私の人生観に大きく影響を受けたと思う」と振り返った。その話を聞いた農家のご主人の眼には涙が浮かんだ。人が人に関わることによる歓びをお互いに感じ、大きな人生の学びを得た瞬間だった。「絆」とはこういう場面で結ばれるものだと思う。
今の被災地支援は、初期のように外から大勢のボランティアを必要とする局面ではない。しかし、過疎地域での大災害は人の流失を加速化させている。被災地復興は元に戻すことではない。そして長い時間がかかる。元の良さを残しつつも、被災地に新しい「交流」を創出する地域再生だと考えなければいけない。私達、地域外から関わる者の支援はそのやり方を変えつつ今後も必要とされるだろう。しかし、ボランティアは学ばせて頂く姿勢が大切になっている、その姿勢が被災者と相互に学び合える態度となり、新たな地域再生につながると考える。