はる風かわら版

たかぎはるみつ の ぼやき・意見・主張・勝手コメント・コラム、投稿、原稿などの綴り箱です。・・・

今あらためて「自然体験型環境教育」の役割をおもう

2023-12-24 17:49:28 | 徒然なるままに・・
あらためて「自然体験型環境教育」の役割をおもう

コロナ禍が広がり始めた頃、川向の隣町寿都にて、突然に高レベル放射性廃棄物地下埋没最終処分場の建設に関わる文献調査が始まった。一部の町の有力者だけで検討し首長の専決権を持って調査応募された。当然に反対活動も始まり町を二分している。 地震多発な日本、周辺には活断層も存在する。福島原発事故も収束を見通せもしないままである。国のエネルギー問題にも直結する重大事にも関わらすに人口が3千人も満たない過疎の町だけの問題になっている。世界的にみても戦争や経済紛争も絶えない。
 環境教育の大切な教育目標は「時間的視野と空間的視野の拡大」である。その能力を育むために自然体験活動をライフワークとしてきたが、どこか虚しさも感じる昨今である。
地球上の人類は生活風習、見かけが違ってもホモサピエンスサピエンスというただ一種類の生き物なのだが、私はその生態に置いて、力(昔は武、今は経済)を使って勢力を広げようとするホモエコノミクス、そして、その地域居住を大切にしたいホモエコロジスに分化がすでに両者わかりえないほどに進んでいると思う。しかし、同時に人類はあらゆる自分とは異なる存在と偶然ではなくて自らの意思で近づき交流し進化してきた存在であるとも考えている。しかるに、現代の紛争、環境などあらゆる社会問題の解決においても、このふたつの視野の拡大を持って「他者への共感力」を育み解決できると信じて疑わない。

高木晴光 黒松内ぶなの森自然学校代表


ゆきむし

2023-12-24 17:46:06 | 徒然なるままに・・
「彩とりどり日本紀行」第7弾!
立冬: 2023年11月8日(旧暦9月25日)

「ゆきむし」

道東の仲間から「ゆきむしを見てしまった!」という便りが届くようになりました。
雪虫とは、トドノネオオワタムシといい、アブラムシの一種です。

夏には羽根がない姿で単位生殖し多数が集まってコロニーを作りトドマツなどで暮らしていますが、
秋も深まると羽根を持つ成虫が現れ、交尾して産卵をするために
蝋物質の細い綿毛のような物を身にまといヤナギへと越冬のために移動をします。

しかし、羽根はあるがその飛翔力は極めて貧弱で、山々が色付いた頃の晴れた日に、
ここぞとばかりに一斉に飛び立ちます。
その先兵のような気の早い虫がふわりふわりと風にゆられて飛ぶ様子は
綿雪がちらほら舞うようで、ユキムシと北国では呼ばれ、冬の到来を里人に感じさせます。なので、人々には「あー、いよいよ冬が近づいてきたなあ」と、
風物詩というよりもちょっと嫌われているふしもあります。
なので、「見た」というよりも、「見てしまった!」と、残念な表現がされてしまいます。

それにしても、晴れていても風のある日もあるわけで、
その一斉の飛び立ちは、目的地に向かってイチかバチかの賭け事のような決死移動なのです。
だからこそ、大集団で一斉に飛び立つのは、万にひとつのゴールを目指しているのでしょう。
その集団の中を車で通過すると、フロントガラスは彼らの付着が著しくもなります。
それもまたやっかいな連中とうとんじられてしまいます。

なぜゆえに、そんなめんどくさい生態に彼らはなってしまったのだろうか。
見知らぬ未知なる場所に移動したがるのは、「生き物」としての証(あかし)なんだろうか・・・と、
ぼんやりと我が身の先を想う秋の深まりの午後のひだまり・・・、でした。

※コラムを頂いたのが10月中旬でしたので、道東からの便りはそのころのお話しになります。

【エコセン理事 / 黒松内ぶなの森自然学校代表 高木晴光】

くろす野外計画社設立趣意書

2016-04-03 14:45:53 | 活動理念
NPOくろす野外計画社 設立趣意書

私たちはいま、未来に向かって解決しなければならない、たくさんの問題を抱えています。中でも環境問題は地球規模的な大きな課題であります。しかし、地域に根ざした活動を展開してゆくと、環境問題のみならず、社会福祉、地域振興、活力ある社会を形成するために若い人材の育成、グローバル社会における国際交流など、さまざまな社会課題が複合的に絡み合っていることに気づかされました。そして、「自然と人、人と人、社会と自然」の繋がりづくりを使命とするとき、地域の特性に着目しながら各地で事業責任を持った独自な活動を展開すべきであるという考え方に到達しました。
本NPOの源流となる北海道自然体験学校NEOSは、1992年に子どもの自然体験活動、大人の自然講座や登山を中心に自然体験型環境教育の実践を旗印に設立されました。その後、「交流と学び≒エコツーリム」を実践することでNPO法設立と同時に全国でも先頭を切ってNPO法人化し「ねおす」となりました。以後、20数年をかけ、この活動は自然体験活動をベースとした地域づくりや人材育成へと広がりを見せ,北海道の各地に自然学校の設立を行ってきました。
私たちは、『限られた自然』と人間社会が共存できるシステムの創造が、持続可能な地球社会の実現につながるものだと考えています。そして、そのシステムは「自主自律できる個性ある・専門性ある小集団・コミュニティ」を数多く創出させ、それらのネットワーキングを緻密に進めることで「社会の真のセイフティネット」を育むことができると考えています。

その結果として、東川町、苫小牧市、登別市、七飯町等に「個性ある地域活動を展開する自然学校コミュニティ」を複数創業独立させ、各地に人材を輩出してきました。各地域の経営の自主自律性を育む方針を取り、NPOねおすは、2016年度より、いち組織ではなく、「自主自律する個性ある集団」による連携体へと発展的解散をすることになりました。

 人は価値観や行動様式が異なる非常に『多様な存在』であり、複雑な利害関係をもちながら社会を形づくっています。この人が他の生物の存在も考慮しながら、共生できる社会を構築するためには、まず人自身が、その立場、考え、暮らし方が異なる他のあらゆる人々(世代間、地域間、職業間等)の相互理解を促進してゆく必要があります。つまり、お互いに一緒に時を過ごす場をつくり、情報や考え方を交換し、自らの価値観の見直し作業を行いながら、これまでの生活様式(暮らし方)の変革を継続的に模索して行くことが、今の世の中に求められていると考えています。

 ここ黒松内町での活動現場でも同様であり、これまでの黒松内ぶなの森自然学校の事業を土台としNPOねおすの理念を継承しつつ、黒松内・寿都の自然豊かな北海道の大地を次世代にバトンリレーすべく、関わる人材を育成し自らの仕事と生活を生み持続可能な地域社会に貢献できる事業型小集団(コミュニティ)として、特定非営利活動法人くろす野外計画社を設立致します。

注釈) 「くろす」は、黒松内と寿都地域という語呂合わせと、さまざまな価値・活動をcross(十字継手、交差十字路)するという思いを込めています。

                                 2016年2月吉日
                                特定非営利活動法人 クロス野外計画社
                                設立代表者 高木晴光

今、後志に生きる

2015-10-02 00:20:57 | ツーリズム
今、後志に生きる ~ 自然や農村が先生    
~ 自然・産業体験型、生活体験型 地域教育の場づくり ~
                                NPO法人 ねおす 理事長  木晴光

◆ プロローグ  黒松内ぶなの森自然学校の活動とその背景
 黒松内ぶなの森自然学校は、1999年4月、落葉広葉樹・ブナの北限の町、北海道の南・渡島半島の付け根に位置する黒松内町に、国、町、(社)日本環境教育フォーラム、NPOねおすの支援のもとに開校しました。 純酪農地帯にある生涯学習館(元作開小学校)を拠点に、「自然体験型、地域産業体験型学習プログラム事業」の推進、「自主・自律した次代を担う人材の育成」、「子どもを中核とした地域交流促進事業」の展開を3つの主要事業とした地域交流を創出することを仕事としています。
 
 地域に立脚した「自然学校」という範疇で仕事をする団体は、実は全国では数多くありますが、北海道では希な存在です。自然体験事業をすることにおいては体験型観光業とは外見上は同じように見られがちですが、私たちの活動は「民間社会教育事業」であり、非営利活動という位置づけを当事者が強く認識していることが大きな違いです。
これまで、田舎(過疎地)の観光地域資源は、都市生活者のニーズに合わせて、企画・実施されて来たと思います。旅行業者が企画する、あるいは行政予算で補助された、参加費が安いイベントが田舎で開催され、集客を図るという構図です。しかし、これだけでは、地域に多少なりともお金を落とし続けるリピーターを創出することには、難しいと思います。また、地方財政はひっ迫し、イベントが開催できない、縮小化される事態も現実化しています。
 これからは、田舎自らが、その地の固有の良さを再確認し、それらを自らが発信してゆくという、内発的なエネルギーの醸造が求められています。
ぶなの森自然学校も、地域の繁栄を築く一翼を担える事業体としての成長を図ろうと、今、もがいています。そのために、地域社会の顔の見える人間関係性を活かし、1次産業との連携・協働を進めながら、自然豊かな農山漁村全体を学びのフィールドとし、「教育」と「交流」が連動した、自然・産業・生活体験の仕組みづくり = 地域・ツーリズムづくりを手がけています。 

◆ 地域の教育力と自然学校の役割
「地域の教育力とは何か?」という論議がよくされます。難しそうに聞こえますが、その教育力は、来訪者に向けて発揮されるものだとすると、農山漁村地域に住み暮らす人々が、案外気がついていないことがたくさんあります。 実は、自らの日常生活、仕事それ自体が、都市からの来訪者に対して、大きな学びを促す教育力を持っているのです。
自然学校に地域外からやってくる大人も子どもも、トラクターや大きな農業機械が大地を耕す、牧草を梱包して大きなロールを作る作業を見たことがありません。 牛の大きさも実感したことがありません。ですから、それらに風景として出会うだけでも、感じとることは、とても大きいものがあります。広い大地の中で作業をする農業者から声をかけられた時にも、実は大きな感動を味わい、「農業」の存在そのものを、体全体で感じ取っているのです。 農山漁村地域の教育力というのは、地域に住み暮らして来た先祖から積み重なる体験により培われた深い存在感があるものです。それは、決して、単に知識や技術として習得できる力ではなく、来訪者に身体感覚を持って体感させ、それまでに知らなかった、わからなかったような、何か「新しいこと」を感じ取らせます。
自然学校の役割の第一は、地域に住み暮らす人達の協力を得て、来訪者を、地域に本来ある懐深い事象や人(農作業、農村風景、農業者など)に出会わせる、触れさせる、体験させることにあると考えています。 そのためには、まず、その仲介役となる私たちが地域の仕事を体験する必要があります。そして、あるときは地域の代弁者として来訪者に語り、今、目の前にありながら気づかないことに気づいてもらい、あるいは、目の前には見えないのですが、風景にある物語を感じさせる(見えないものをみせること)で、その地域のファン作りを進めます。
そのためには、単に「楽しみ」だけに終わらない活動を企画する事が必要です。つまり、体験する事によって、人生(生き暮らす事)にとって大切なことや自然の営み、動植物や作物についての新しい発見や気づきを促すようなプログラムを構成するのです。そして、役割の三つ目は、この活動を展開するための人材育成にあります。プログラムを企画・実施できるだけでなく、地域との関係性を築き上げることができる人材を育成することが大事です。
  
◆農山村漁村の社会的価値を高める
 現代社会の都市生活者は、自らの生活の基盤に農山漁村地域があることを普段はほとんど意識していません。生鮮食品は、物流の進歩で自宅からわずか数分の距離にあるスーパーの棚に並んでいるので、私達の命の源となるエネルギーが、途方も無い時間と手間をかけて収穫され供給されていることを忘れがちです。食料の供給地として、農山漁村地域が存在することの意義を都市の人達に改めて見直してもらい、その社会的価値(存在価値)を高めてゆくことが必要です。そして、そのプロセス自体が、過疎地=農山漁村地域の活力再生につながると考えています。 都市からの来訪者に、日本海寿都(すっつ)湾で捕れた魚、地域の農家の協力を得て作った畑の野菜など、地域内で生産された新鮮な食材をつかった食事を提供する、ちょっとした見学だけでもいいですから、農家と一緒に過ごす、そういった、直接的に生産者、生産地に消費者が触れ合い、体験することが、農山漁村の社会的価値に気がつく、まず第一歩だと思います。

◆ 多様性の原則 
 ぶなの森自然学校は、自然豊かな地域に立脚した自然体験・地域産業体験型プログラムを開発実行することにより、それらに関わる人々(プログラムの参加者、実施者、地域住民)が相互に影響を与え合いながら自ら育つ「相互学習」を促進する「交流拠点」と「交流の仕組み」を創り続けています。そして、交流の拠点と仕組みを整備することにより、より多様な人々が、その拠点に継続的に関わり続けることができるようになります。
現在、自然学校のプログラムの参加者は、幼児から大人まで幅広く、学生、社会人、外国人もスタッフとして活躍しています。訪れる人を多様化することにより、新たな人のつながりが生まれ、また新たな人が訪れるようになるのです。 多様な人が集うと、複合的かつ交錯的な「交流」が広がり、プログラム開発の更なる構造的な発展が期待できると考えています。
同じ価値観や生活圏の人ばかりでは、均一で同質でしかありません。異質な考え方、生活をしている人達が集まってこそ、新しい気づきや発見がなされ、新しいものが生まれる「可能性」があります。
過日、札幌で「田舎と都会を考える」若者が多く集まる場に参加しました。その折に、「都会の方が田舎に比べて多様である」という意見が強くありました。果たして本当にそうでしょうか? 確かに都会には娯楽施設も多種あれば、飲食店やファッション店舗も多い。しかし、それは消費活動を喚起させる仕掛けでしかない、お金があることによって「できること・手に入れること」ばかりではないでしょうか。目的性においては同質なのです。それに比べて田舎は、川ひとつとっても流れも姿も一本の川でも変化があり、そこに生息している生き物も多様です。それさえわかれば、付き合い方は無限です。

◆ モデルとする、「繁栄ある地域」とは何か
現代社会は、さまざまな社会問題を未来へと先送りをしています。しかし、その未来を生きるのは、今の若者や子ども達です。少子高齢化社会、経済の仕組みの変化、それに伴う雇用形態の変容。社会全体が大きく変化しない限りは、抱える社会問題も解決してゆかないでしょう。つまり、人々、特に今の若者や子ども達には、その変化に対応する新しい生き方、暮らし方が求められています。
人が生きるためには、さまざまな能力が必要です。その力は、「体験」の積み重ねに「知識」が付加されて身につくものです。 しかし、現代の若者や子ども達は、日常生活の中で、多様な人に関わることや、多様な生き物や環境に出会う「体験」の場はとても少なく、限られた狭い環境の中で生活をしています。彼等の交友関係や活動範囲は極端に狭められ、特に子どもの姿自体が街から見えなくなってきています。これは社会全体に起きている現象です。このことに、大人たちはもっと注視すべきです。
子どもの歓声や笑顔がある地域は、活気があります。それは、大人達が相互に関わり合っている地域でもあるはずです。つまり、子ども達を安心して養育・教育できる地域こそが、今後「繁栄」してゆく地域であると思います。
これは、若者にも言えることです。自らの成長、自らの未来の生き方に大いに参考になる「体験」ができる場所を若者に提供することは、大人の役割です。一生懸命に大地や海や森と格闘しながら働く人達、心を癒す美しい自然、それらに若者が出会うことにより気づかされることはとても大きいのです。 心やすらぐ地域、新しい自分を発見できるような体験ができる場所を若者は欲しています。繁栄する地域とは、子ども達の笑顔と歓声に満ち溢れ、未来を築く若者達が自らに磨きをかけることがある生活力がある地域だと思います。

◆ 自然が先生、農村が先生 
都会に住んでいると、社会の仕組みは若者や子どもたちには分かりにくいものです。小さな農山漁村に住むことにより、見えてくる社会の仕組みは実はたくさんあります。「この畑でAさんが作ったものが、ここでBさんにより加工され、あそこでCさんによって売られている」ということが、いとも簡単に目の前の現実として体験的に理解することが、小さな社会では可能です。 黒松内は、人口3000人の小さな町ですが、「町」が構成できるということは、人が暮らすために必要なさまざまな社会的機能(例えば、議会や役場があり、福祉施設や商店、さまざまな職業人がいる)を有するということでもあります。ですから、体験プログラムを企画する時に協力をしてもらえる人が、相手の顔が見える中で身近に存在するというメリットがあります。自然ばかりでなく、社会(環境、環境、産業構造など)をしっかりと体験的に知ることも可能なのです。

環境運動に、「地球規模的に考え、足元から行動する」という有名なスローガンがありますが、小さな地域住むと、逆の考え方のほうが、分かりやすいことに気づきました。つまり、地域社会に住み・暮らしながら、「地域のことをしっかりと考え、地球規模的な行動ができる人づくり - We Think Locally, Act Globally !」という態度の方が、実は重要なのです。 人が健全で心豊かな暮らしを営むためには、まず、自らの地域社会でのあり方を問い、自らが地域社会で、相互扶助の役割を担えるようになることが基本です。 そのうえで、はじめて、全体として持続可能な地球社会への貢献が、身近なこととして、捉ええられるようになると考えます。 この考え方は、まさしく農山漁村の暮らし方にあてはまる、原理原則です。

このような視点に立ち、自然学校は、次のような基本姿勢で体験的な学びの場づくりを目指しています。
① 人は、個々が相互に影響を与えながら「自ら育つ」 (相互交流学習)
② そのために、地域内外の様々な人々が交流する、多様な仕組みを作り続ける 

◆ 自然学校の生徒達
自然学校は、学校と言っても、子ども達や学生が毎日通ってくるわけではありません。定期開催の自然体験活動「イエティくらぶ」の子ども達、春夏冬休みに1から3週間にわたって実施する長期体験村に全国からやってくる子ども達、実習研修で長期滞在する若者達や農村体験のスローツアーや森歩きのエコツアーにやってくる大人が、自然学校の生徒です。しかし、これだけでなく、自然学校が大切にする生徒は、実はまだたくさんいます。
 それは、プログラムを企画し、実施する私達を含めたプログラムを支えてくれるスタッフ、カウンセラーと呼ばれる子どもを相手するボランティアの若者達です。 「相互交流学習」という考え方に立っていますから、実は、私達も自然学校で学ばせてもらっているわけです。
研修生は、NPO法人ねおす(北海道自然体験学校NEOS)に在籍し、プログラムを企画・実施進行するディレクターを目指して、毎年2-3名程度が、1年単位に自然学校で研鑽を積んでいます。また、他の団体から、指導者養成の実習の先として1ヶ月から半年程度の期間、滞在する人も毎年3-4名ほどいます。卒業生はすでに30名を越え、各地で活躍をしています。ITさんは、道北で独立、養鶏と自然学校を経営、三重県大杉谷自然学校を立ち上げたOKさん、アウトドアガイドのKさん、栃木で児童福祉の仕事をしているKSさんもぶなの森自然学校で研修を積みました。このほか、札幌や台湾の大学から単位を重ねた実習として参加する人、教員の長期研修者(最長6ヶ月)の受け入れ、国際ボランティア組織を介して長期滞在するアジアやヨーロッパ人も毎年3~5名ほどいます。

◆新幹線がやってくる
 2016年3月に新幹線が道南に到達し、その後、札幌への伸張工事が進むようです。新幹線は、果たして言われているように地域活性に寄与する存在なのでしょうか。来道する旅行者は増えるでしょうが、東京方面へでかける道民も増えることでしょう。経済収支からみれば、経済の持ちだし・ストロー効果が強く現れると思えます。 ましてや後志圏においては在来線の函館線が廃止となります。地域交通体系の見直しと確実な計画実行をしないと、ますます地方は疲弊する危険性をはらんでいます。 地域間が連携されたコミュニティバスを中心とした交通体系は地域生活の基盤を支えるために必須なものとなるでしょう。この組立が観光とも結びつくような論議が早急に必要だと思います。

◆ エピローグ
事務所の窓を見ると、真っ暗闇が張り付いています。でも、外に出て、夜空を仰ぐとオリオン座が東の空に上っています。散りばめられた星達の間隙を埋める暗闇を見つめていると、宇宙空間の途方もない奥行きも感じられます。
大都市は、高層ビルの窓の明かりとネオン照らされて、夜空は薄明るくなり、星はまるで見当たりません。同じ空を見ているとはとても思えません。そんな東京が夕暮れを迎える頃、満員電車に乗り空港へ、そして黒松内まで帰ることがありました。すると、夜10時頃には、半径2km以内でも人影が見えない我地に到着することができました。つい、4,5時間前には、私の周り半径2m以内に折り重なるように、ずっしりと人がいたのに、我が地には、東京とは比べものにならない大きな空間が広がっていることに今更ながら気がつきました。
夜空は満天の星です。そして、ゆるやかなに時間が流れ、酸素をいっぱい含んだ新鮮な大気に包まれているのが、黒松内という田舎です。
 私達は、田舎と都会という、とても環境が異なる2つの世界の中で生きています。人間が作り出したお金と物を消費することにおいては多様な世界である都会、自然界という多様性が高い田舎。そのどちらが住みやすいかは、人それぞれでしょう。しかし、どちらか一方の世界だけでは、こんなにも多種多様化した人間達を養いきれないでしょう。 また、どちらか一方の環境だけに身を置くのでは、社会全体のあり方に対して、バランスの取れた感覚を持った「人」は育たないと思います。
 ぶなの森自然学校は、田舎に存在していますが、「2つの世界」観から考えると、両者の波打ち際に立つ存在でもあります。二つの世界を知りながら、バランス良く未来を見据え、バランスがとれた未来を創造する人達が、後志地域から輩出されれば、嬉しいかぎりです。

2015NPOバンク事業組合年頭ご挨拶

2015-01-10 18:59:29 | まちづくり
去年の年頭のご挨拶は、次のようでした・・・・
「地域の時代の幕開けです。2年続けて社会的挫折を味わった年末でした。」行政が「国家あっての国民」「大企業の経済グローバル化あっての国民生活」が推し進められ、かたや国が公助から共助・自助の号令は日増しに高まり、ついに地方創世とか言いつつ、「頑張る自治体に地方交付税」を増やすという競争を押し付け始めました。

三年続けての挫折はさすがに味わいませんでした。社会に対する危機感性が鈍化したというよりは、嘆いてばかりでは社会は変わらないとの思いが切実にあります。

北海道NPOバンクの資金は市民事業、いわゆる社会起業・企業化に用いられています。決して大きな仕組みではありませんが、地域社会が活力するような使われ方を目指しています。私達NPOは「新しい共助型社会を創る」市民社会企業セクターだと胸を張って事業展開を目指してゆきたいと思います。そのためには企業や行政セクターに新規事業や協働を求めるプロジェクトを数多く提案するチカラをつけてゆく必要があるでしょう。

 そのためには、「このままではだめだ」となんとなく不安を持っている多くの人びとにもっとアプローチする工夫が必要です。社会科学者や心理学者、マーケティングの専門家も参画してもらえるような事業を起こしてゆきたいものです。社会が混沌(カオス)状態になればなるほど、私達NPOセクターの出番もある意味わかりやすく表出されます。

それをチャンスとしてバネにすべく2015年を過ごしてゆきたいと思います。会員、理事の皆さま、関係諸氏の今後とものご指導ご鞭撻、そして、ご協力をお願い申し上げます。

北海道NPOバンク事業組合 理事長 高木晴光

寿都の海に生きる

2014-04-30 17:25:31 | ツーリズム
BayWay後志原稿 2013夏

寿都の海に生きる。  川地純夫さん
                   黒松内ぶなの森自然学校・NPOねおす
                             浦西茉耶  高木晴光

寿都湾に面した横澗の磯から見える海は、昼下がりの光を受けてきらきらひかり、ゆったり広がっていた。日本海に面した国道229号線沿いに「よってけ!日本海」という大きな看板が見える。傍らのこじんまりとした漁港に川地純夫さんの船、「海生丸」と「正栄丸」が休んでいた。

はじめて川地さんに出会った時、「漁師」という空気の中に「面倒見の良い親分」の顔と、さらにそれだけではない「強い意志」を持つ目を見て、寿都と海を愛する漁師の新たな心意気を感じ心地よい衝撃を受けた。どこかからやってきた旅の若者の面倒をみ、漁業や釣り船等を体験させるなど寿都の水産業漁業のことを色んな人に伝えたいという熱い想いをもった人だ。

「海に行く」ことは「獲る」ことだった
昭和37年生まれの51歳。ナマコ漁師、遊魚船の船頭、日本海食堂(お連れ合いのさつきさん経営)、さらにライダーハウスのオーナーという顔を持つ川地さん。川地一族はその昔、石川県からニシンを追いかけて寿都へやってきた、かなり大きな網元で、川地さんは4代目になる。といっても、もともと漁師であったわけではない。お父さんは次男だったが、川地さんが小学校6年生の時に漁師の仕事をはじめ、春は定置網でサクラマス、ホッケ、ヤリイカなどを漁獲し、秋には厚岸のサケマス孵化場に出稼ぎに出ていた。川地さんも小学校6年生の時から、学校に行く前に定置網の手伝いをし、お父さんの遊漁船に一緒にのせてもらうこともあったが、どんなにがんばっても1時間で酔ってしまい、船にはいい思い出がなかった。そのため自分が漁師になるとは思わなかったそうだ。
今のように車があるわけではない、父親が子どもをかまうような時代ではない。6月の中旬になれば、子供同士で誘い合わせて海に行くのが日課だった。おにぎりと、切った芋、玉ねぎ、豆腐などをいれた鍋だけを持って海に行くと、暗くなるまで海にいた。潜って捕まえたウニ、アワビ、ヒルガイ、ツブなどを焚き火で焼き、たらし釣りでガヤやアブラコを獲って持参した鍋に入れて食べていた。もちろん、当時もそれは密漁にあたるが、子どもが海で遊ぶことにとやかくいう大人はいなかった。海は豊かだったし、「食べるくらいはいいべ」という暗黙の理解があったという。それどころか、密漁監視の大人が、「俺が見てるから大丈夫だ」と子どもたちを遊ばせてくれる大らかさがあった時代だった。
川地さんは、「それは子どもに必要な体験」だという。今から30年前ごろから、密漁が組織化すると同時に監視が厳しくなったそうだ。地域の人からでさえ「あそこの家の子、また潜ってるべ!」と言われるため、親も子どもを海から遠ざけるようになった。さらに「海は危険な場所」という指導が広まり海離れを助長した。だから、「今は漁師の子どもでも海に入ったことがない。若い漁師で海を知らないやつが多い。漁師が海がどんな所か知らないってのは問題だ」と川地さんは言う。

建築の世界にいた10年
とはいえ、川地さんが寿都へ帰ってきたのは37歳の時。建築の専門学校をでた後、大手のゼネコンに勤め、学校やマンションを作る仕事をしていた。27歳の時には独立して自分の工務店を持った。それから会社をたたむまでの10年間について、「大変だった」と川地さんはぽつりといった。バブルがはじけた後に起業してがんばっていた矢先、手形の事故にあい、借金を負った。引きつづいて離婚。ようやく手形の返済したころ、追い討ちをかけるように手に怪我を負ってしまう。それを機に、川地さんは寿都に帰ってきた。

釣り船「正栄丸」
 寿都に帰ってきても、川地さんはホタテの作業などの仕事を続けたが、無理をすると怪我を負った親指が疲労骨折してしまう。それでも仕事しなければと無理を重ね、指が治るのには8ヶ月を要した。建築も駄目、かといって漁師もできない。がんばらなきゃならないと思い、がんばっているのに空回りしてしまう。親との葛藤もあり、「ひきこもり」になったと言う。「なぜ自分だけこんな悪いことばかりおきるかな・・・」と思った。
 そんな期間が1年半くらい続いたある日、青森で大工をしていた母方のおじさんに「出てこい」と呼び出され、「何がやりたい?」と聞かれた。札幌に戻って、建築の現場はできなくても営業はできるかもしれない、でも何をやっていいのかわからない・・・そんな川地さんに、おじさんは「漁師はやらないのか?」ときいた。親父と肩を並べて漁にでることはできない、でもずっと好きでやっていた釣りは仕事にできるかもしれない。「釣りの仕事なら」と答えると、おじさんは「船を持てばいいんじゃないか?」と提案した。これがきっかけとなり、釣り船「正栄丸」を手に入れる決心となった。寿都の海で遊んだ子ども時代の思い出が蘇り、川地さんの人生の流れが大きく変わったのはそれからだった。

漁師・食堂・釣り船
 釣り船を持った川地さんのことを、たまたま縁のあった北海道新聞の記者さんが釣り新聞に紹介してくれた。そのこともあり、釣り船のお客さんは一気に上がり調子となった。
日本海食堂はお母さんが切り盛りして、春から秋の半年のみ営業していた。お父さんは漁師で、ナマコ漁とホタテの養殖をしていた。ナマコは当時でキロ380円と、現在よりはかなり安かったが、釣り船と食堂とナマコ漁で1年間充分食べられるくらいだった。このころ川地さんは、当時70歳で現役だったお父さんと大喧嘩をして、お父さんにホタテ業をやめさせたという。何十年も続けてきたホタテ養殖だったが、会社経営を経験した川地さんは「自分も含めて生計を立てるには、ホタテだけでは無理だ」と考えて、「申し訳ないけど経営方針をかえたい」と説得した。
川地さんとお父さんは、一緒に船に乗って仕事することができない。いわゆる「船頭多くして・・・」の状態になり喧嘩が絶えなかったそうだ。考え方が違う。お父さんは自然の中で長年培った勘を頼りにする漁をするが、川地さんは魚群探知機やGPS等の機械も使って漁船を動かし釣果につなげる。さらに、決められた漁獲量があればお父さんはその量をきちっととろうとする一方で、川地さんは、量は少なくても生産性を挙げるため付加価値をつけるのにどうするか、ということを考えていた。「量をとる人は薄利多売を覚悟でやらないといけないところがある。かといって小口単位は漁連では扱えない。そこを、自分のところで加工、売り方も工夫してブランド化し、お客さんに納得して買ってもらうことができればいい。獲るだけではなく、自分のところで出来るように考え、それに必要な経費がまかなえればいい。」と考えている。
一見、昔と変わらぬ寿都湾が広がってはいるが、水産資源は減っている。漁師業にも商売感覚が必要な時代なのかもしれない。

人と人、人と海をつなぐライダーハウス
 横澗漁港の日本海食堂から一段上がった高台に川地さんが作ったライダーハウスがある。もともとは、川地さんの釣り船のお客さんを泊めるための場所だった。日本海食堂は民宿も経営している。だが、お母さんが経営していた時代は川地さんの釣りのお客さんに泊まってもらうことができなかった。そこで、建築の世界にいた時の技を駆使してプレハブやトレーラーを早朝の釣り客の簡易宿泊所に改装し、展望風呂や洗濯場も作り2年前にはライダーハウスにした。「生産者であり、食堂もあり、ライダーハウスもある。人と、海の仕事をつなぐことが出来る」という。
川地さんの「弟子」の潤さんは、縁あって川地さんに漁を教わっているが、3年前の春、突然川地さんを訪ねてきたという海に興味のある若者だ。「仕事ないですか?何でもいいんだけど」と川地さんの扉をたたいた。
漁業を目指す人の受け入れに補助が出る研修制度もあるが、川地さんはそれだけでは、自分も若者も成長できないと、その補助制度を利用しない。すべて自腹で若者を預かり、若者が様々な体験を積める育て方をしている。「海に関わる仕事をたくさん体験させ、どの部分をがんばれば自分が伸びられるのか、背中で見せなければならない」と考えている。
川地さんは潤さんに漁業を教えるだけではなく、地域の人に手を貸して、といわれれば手を貸せる人に、地域の中で人と信頼関係を築くことが出来るようになって欲しいと考えている。「今の若い人は、すぐになんとなく他人に同調してしまう。『人は人!自分は自分!』という気迫が足りない。うわべだけの付き合いではなく、一歩踏み込んで痛い思いをしても、人ときちっと信頼関係を作れなければならない」と若い人への支援にも熱い思いを持っている。

「明るくなったら起きて、暗くなったら寝る。」
 川地さんの朝は早い。4時半に起きると、船を出すための段取りをして、6時に出港する。ナマコ漁の場合も釣り船でお客さんと出る場合も同じだ。釣り船の場合、12時には帰ってくる。ナマコ漁の場合ならば14時頃に戻り、ナマコを出荷して15時半には仕事を終える。晩ご飯は17時過ぎ、21時には就寝。明るくなって起き、暗くなったら寝るという生活だ。一方、同じ寿都の漁師さんでも、会社員と同じように、漁から帰ってきても17時まで仕事という人たちもいるが、「その必要はない」と川地さんはきっぱり言う。春は4月1日から5月いっぱいタコ漁。ナマコ漁は6月16日にはじまり、お盆過ぎまで。後は遊漁船のみだが、それも海が荒れる冬場はできないので12月いっぱいで終わる。冬は全く海にはでない。
日本海食堂は、31年前からやってきたお母さんから昨年、代替わりして今はさつきさんが受け持っている。川地さんにとって「あ・うん」の呼吸の人だ。日本海食堂も営業は春から秋で、船が海に出ない冬はお店を閉じる。
 「都会の仕事をやめて、海に戻ってきて仕事をしているので、自然に癒されている。建築の仕事は月末に追われていたが、今は自然のリズムに合わせて生活も仕事もできる。ストレスがなくなった」と川地さんは笑う。

水産資源が減少し、船の燃料代も上がり、輸入品も増え国内水産物の浜値も下落している時代となり、水産業の未来の展望は決して明るいものではない。しかし、川地さんのように海を愛し、海で働く若者を育てようとする浜の人がいる。

***
日本海食堂
寿都郡寿都町字磯谷町横澗  tel 0136-65-6351
http://www.aurens.or.jp/~nihonkai/

生きる力

2013-12-20 09:59:25 | 活動理念
ねおすにて、子どもの体験活動の意義について小冊子を作ります。
編集者のちえさんからの質問

*****

ねおすが言っている「生きる力」を上手く表現し発信したいと思っています。
いろいろ周りでも「生きる力」が必要だとは聞きますが、
ねおすが言っている生きる力とは他とどう違うのか?
それは、「どうにかする力」ではないのかというところで上田さんとは腑に落ちています。
これはあくまでも私たちが考えていることなので、ねおすの歴史を振り返る意味も込めて
まずは、高木さんにとっての生きる力はどういったものなのかはお聞きしたいと思っております。

*****
私の回答エッセイ

♪そうだ! うれしいんだ 生きるよろこび・・なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ♪ 
アンパンマンマーチが頭の中を回っている。

思い起こせば1990年、私は21世紀にも対応するある大型レジャー施設の計画を担当していました。しかし、時代は高齢社会。難しい仕事でしたが、ある時はたと閃めきました!「建物ではない、自分がその時代に楽しめる仕組みを作ってゆけばいいのだ。私が年寄になるまでは30年はある!」と。

一区切りついたところで会社をやめ、自分がやりたいことに精力を傾けるために北海道自然体験学校NEOSを立ち上げました。そして、21世紀からは「新田舎づくり実践人」として黒松内に移住し、閃きから20年を越えました。

私にとってのよろこびは、自然の中で人と人が幸せに過ごすことです。子どもからお年寄りまで、障がい者や病を抱えている人も海外の人も。その「場」づくりを続けています。けれど一人ではできない。いろいろなキャラクター(スタッフ)達がいないと楽しい場はできない。ねおすは様々な場と担い手を作り続ける仕組みです。

21世紀は社会激動の世紀です。今目の前にいる子ども達は大人達の経験が役に立たないような困難に立ち向かうことになるでしょう。その時代であっても、生きるよろこびを自らが見つけられる若者に仕立てたい。そのためには、好奇心を育み想像力を養うことが大事です。「夢を見る力、実現に向けてあきらめない力と実行力、その時におこる変化を恐れない力」を身につけてほしいと願い、子ども達と向かい合っています。

♪時ははやくすぎる 光る星は消える だから君はいくんだ ほほえんで♪

日本列島の地質的問題を無視するな。

2013-11-05 14:59:01 | 徒然なるままに・・
◆日本列島の地質的問題を無視するな。

毎週金曜日の夕方に全国各地で脱原発のデモは一時ではないにしろ、今も続いているようです。泊原発訴訟も「生存権」を持って裁判が続いています。しかし、政府は再稼働を目標とし、安倍政権は原発プラントの輸出に前のめりになっています。
  
私も一度だけですが、札幌のデモに参加しました。道庁の周りを歩く参加者はごく普通の市民ばかりでした。つい先日は東京で反原発スーツデモというサラリーマンが中心となったデモもあったようです。原発推進派が左翼と名指し対峙している反核・平和運動の人もいるでしょうが、参加者の多くは、原子力発電=放射能汚染の心配から、再稼働を反対する脱原発社会を望む人達でしょう。

民主党政権下で、圧倒的な多数の「脱原発社会を望む」パブリックコメント等の結果により原発ゼロ社会への模索がやっと政府レベルでも開始される「気配」が出てきました。しかし、民主党政権は、その場限りの迎合的な対応だったのか、原発推進・電力業界の圧力??によって、「脱原発社会への実現」は、明確に閣議決定もされず、長い時間をかけ国民から集めた意見は、今後のエネルギー政策を考える上の「参考」と位置付けられてしまいました。原子力規制委員会や規制庁の重要ポストもこれまでの推進派と目される人々が占め、さらに、建設凍結だった大間原発の建築再開を経産相が認め、産業界はこぞって原発推進を国や原発立地自治体へ表明をし始めました。そして、その中での衆議院が行われ、民主党は壊滅的大敗をきし、自民党が大勝し、政権は自公へ戻ったのでした。

昨年の日本の経済指南役と言われる竹中何某の、「貧乏の自由、貧乏をエンジョイしてもいいが、(経済発展に精力を注いでいる人の)足は引っ張らないで欲しい」との発言にはびっくり仰天しました。日本の産業と政治構造は明治以来、「経済富国」を目指すだけで、なんら変化することができないのでしょうか。

 電気エネルギーの生産は、国と電力会社が進める国策的事業として国民は黙って供給を受ける側であり、消費者でしかありませんでした。しかし、東日本大震災による福島第一原発の過酷事故は、原子力発電の危険性を国民の多くにわからせました。しかし、電力会社は放射漏れの原因が想定外の高さの津波によって冷却装置が故障したことによるとの主張を変えず、各地の原発の防波堤の嵩上げが始まっています。実際の地震の揺れによる故障や破壊の検証は全くされていないと言っていいでしょう。日本は地震が多発する地殻プレートの境界に生まれた列島であり、これからも巨大地震が発生し続けることは、今では子どもでも知っています。

 そもそも、日本は原発によるエネルギー社会を作るべきでなかった。

プレートテクトニクス論が科学的に説明される以前に原発を中心据え既定路線化された長期的エネルギー戦略が間違っていたことを、今、しっかりと政府だけでなく、国民が広く認め、新しい社会の構築を目指さなければなりません。しかし、その新しいエネルギー戦略を組み立てることもとても難しい。が、そのスタートは切らねばならない。

原発頼みの経済再建ってなんなのでしょう・・・・。 新しい産業の構築ができない経済構造は既得権益のほかならない。今こそが、新しい科学技術の開発、資金の投入、頭脳の結集だと思います。 一方、新しい産業や経済、暮らしの在り方を模索する段階では、当然、さまざまな社会的な痛み、雇用・経済の大転換が伴います。その痛みを取り払うのが政治の役目でしょう。

◆エネルギー問題は経済の問題か?

福島の農産物が売れないことや観光客が途絶えていることを「放射能の風評被害」と消費者側を非難する報道の姿勢が目につきます。スポット汚染ははっきりと現象化しています。放射能数値は明らかに高い地域に人々は何事もなく暮らしており、食糧生産も続いている。そして、福島第一原発は今も壊れたままで放射能が放出され続けているのです。その報道はTVも新聞も現在では皆無です。「今も続いている現実」から国民の目をそらそうとしています。 明日にでも大きな余震が起これば、未回収の使用済み核燃料が暴走する危険性のあるままの状況下に日本はあります。

また、すべての食品の全量検査などは到底無理なわけですから、サンプル検査だけで出荷される産物が安全と言い切れるはずがありません。風評被害で片付ける問題ではありません。売れない原因は、放射能という目には見えない危険な物質が事故により相当広範囲に相当量放出され、今現在も放出され続けていることにあります。この不安が払しょくされない限り「被害」はなくなりません。

原発はリスクが高いエネルギーです。

一度過酷事故が起こると周辺何百Kmに及ぶ被害を長い期間に渡り及ぼし、その地域の生活も産業も破壊してしまうことについて、私達はもっと直視しなければなりません。原発のリスクと経済はリンクさせて論じるべきことです。

 しかし、今の政権は、経済発展と原発エネルギー問題がリンクして議論されています。電力利用が減少する、原発開発がなくなると経済も減少する、国の経済力が落ちると生活レベルも落ちる、だから安定した電力供給が必要であり、そのために原子力発電は不可欠だと、私達は刷り込まされて来ました。確かに両者には相関関係があるでしょう。しかし、ちょっと立ち止まって考えてみたいものです。

 「原子力発電のコストは本当に安いのか」
 「放射性廃棄物の処理は未来永劫続く課題である」
「片付けることができない放射性の廃棄物を増やし続けていいのか」
「私達は必要以上に電気を使っているのではないか」
「日本は地震が多発する地域である」
 「猛烈な人口減、少子高齢化社会に突入している状況での電力需要予想は?」

それでも、経済成長のために原子力発電を続けるべきなのか・・・、

これから原発とどう向き合うかは、国民ひとりひとりが「自分の暮らし方」の問題として捉え考える必要があります。ましてや後志に住む我々は、原子力発電所を事実抱えています。たとえ廃炉になったとしても、電源開発の恩恵を直接受けて来た地域の振興、放射能汚染廃棄物の処理の問題と難題がなくなるわけではありません。

今、後志に住む私達は、これからの「生活・暮らし方」を考える絶好な立ち位置にいます。

 原発の可否を現状経済の成長とリンクさせて考えるべきではありません。

原発の可否は、私達大人が子ども達へ、未来の新しい暮らし方の模索を始めるスタートラインを切るか、切らないかを示せるか否かの問題だと思います。

某竹中氏が、「貧乏の自由、貧乏のエンジョイする者は経済成長の足をひっぱるな」と迫る、なチャチな発想とはかなり性根が違いますな・・・。

ツィッター連動を変えました。

2013-11-05 14:49:22 | お知らせ・ご案内

本ブログは・・・、ここのところツィッターのつぶやきを転送するだけになっていました。
ツィッターの連動は、私の本編ブログ?(というのかな)に移動しました。
http://blog.goo.ne.jp/haruneos/  

本ブログ、「はる風かわらばん」は、もともと、私の主義主張や記事原稿などを投稿記録していたので、本来の趣旨に戻しました。

生きるよろこび

2013-11-05 14:45:56 | 活動理念
♪そうだ! うれしいんだ 生きるよろこび・・なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ♪ 

アンパンマンマーチが頭の中を回っている。

思い起こせば1990年、私は21世紀にも対応するある大型レジャー施設の計画を担当していました。しかし、時代は高齢社会。

難しい仕事でしたが、ある時はたと閃めきました!「建物ではない、自分がその時代に楽しめる仕組みを作ってゆけばいいのだ。私が年寄になるまでは30年はある!」と。一区切りついたところで会社をやめ、自分がやりたいことに精力を傾けるために北海道自然体験学校NEOSを立ち上げました。21世紀からは「新田舎づくり実践人」として黒松内に移住し、閃きから20年を越えました。

私にとってのよろこびは、自然の中で人と人が幸せに過ごすことです。子どもからお年寄りまで、障がい者や病を抱えている人も海外の人も。その「場」づくりを続けています。けれど一人ではできない。いろいろなキャラクター(スタッフ)達がいないと楽しい場はできない。ねおすは様々な場と担い手を作り続ける仕組みです。

21世紀は社会激動の世紀です。今目の前にいる子ども達は大人達の経験が役に立たないような困難に立ち向かうことになるでしょう。その時代であっても、生きるよろこびを自らが見つけられる若者に仕立てたい。そのためには、好奇心を育み想像力を養うことが大事です。「夢を見る力、実現に向けてあきらめない力と実行力、その時におこる変化を恐れない力」を身につけてほしいと願い、子ども達と向かい合っています。

♪時ははやくすぎる 光る星は消える だから君はいくんだ ほほえんで♪

(ねおす子どものための自然学校 イエティくらぶ の紹介小冊子の原稿)


10月25日(金)のつぶやき

2013-10-26 01:49:40 | 徒然なるままに・・

10月24日(木)のつぶやき

2013-10-25 01:49:44 | 徒然なるままに・・

10月23日(水)のつぶやき

2013-10-24 01:48:51 | 徒然なるままに・・

根拠なんてなくてもいい。まずは夢を語ることから始めるべきだ。語り続けることで夢は信念になる。賛同した人たちからの協力も得られる。いろいろなことが動き、自分も成長して、いつの日か夢は現実になっていく。(三浦知良)



10月19日(土)のつぶやき

2013-10-20 01:48:34 | 徒然なるままに・・

明日に向けて(741)福島原発汚染水大量漏れの考察(3) 東電が「実はもっと漏れていた」と次々に告白! blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/… @toshikyotoから


【緊急呼びかけ】 祝島現地から、次の呼びかけがありましたので、お知らせいたします。 wp.me/p3cD6O-eT @wordpressdotcomから



10月16日(水)のつぶやき

2013-10-17 01:56:37 | 徒然なるままに・・