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ブログを書く時間こそ、自由な時間。

あのぉ

2006年11月26日 | Japan
カナダから帰国し、就職活動に対する熱が冷めることを恐れ、翌日の今日、説明会(企業の人事と対話をする)に参加してきた。

5分間の企業PRが終わり、それぞれのブースへと話を聞きに行く。

①某中堅商社
とても人事の方がはっきりしており、他のブースと比べて本音で話しているような感じを受ける。商社の人事の方はこういう方が多いのは事実で、誰の下で働くかと考えた時は大いにプラスになる要因であると思う。仕事が辛いことも、実力主義であることなどもはっきり言うが、嫌な気はしない。

②某大手複写機メーカー
このメーカーに関して言えば、俺が岡山出身ということを言えば、鳥取に戻ってきて働くように勧められた。
「東京や大阪で働くのは分かるが、将来歳をとった時にそんな大都市で働けるか?」

と質問されたが、理屈では理解できても、実際そうなることをあまり想像したくない。

③今回の一番の目的であった某トイレタリーメーカー
会っていきなり

「会社のホームページも見てきてないんだろ?お前らに就職活動はする気はないのか?」

としばらく説教を受けることになった。「面接はお見合いだと」フレーズ文句なのだろうが、もうそんな言い草も古いのではないかと思ってしまう。
そこで、転職歴があるその人事の方に

「なぜ、○○に転職されようとしたのですか?」
と聞くと、

「日本で仕事がしたかったのと、○○がチームワークを大事にする会社であったからだ。」

と答えた。しかし、

「あのぉ、チームワークなんか実際入社してみないと分からないですよね?」
と聞き返すと、

「確かにな」
と答える始末。

いくら人事の言葉でもよく聞けば、おかしいところなんかいくらでもある。
それを指摘するかしないかは個人の勝手だとしても、俺は見逃すようなことはしない。

それが嫌だと思われるかもしれないが、うんうんと言って就職活動をするのも俺に合ってない気がする。

その方からは会社の倫理的な問題で名刺ももらえず、履歴書を受け取ったりもできないと言われたが、以外とメーカーにしては固い会社だなといった印象を受けた。
そういう気がなかったのかもしれないが。

相手が求めていることを答え、時には自分に嘘をつかなければならないのかと思うこの就職活動。
いつか自分のニーズに合った会社もあるんだろうな、いつかは・・・

思い出すもの

2006年11月24日 | U.S

⇒アラスカ上空

とうとうカナダから帰国し、たった10日間という短い間にもどこか日本を遠く離れたような思いを大阪の夜景に感じていた。

家を開けると、目をそむけたくなるようなチラシや配達物が受け口から落ち、受け取られていない届け物はいつ受け取ろうかとも考える気になれなかった。

出発前夜、NICOさん家族にお食事に呼ばれ、日本でも食べれない手巻き寿司や海鮮物をいただいた。そして、味がよすぎるワインを4本以上開けてもらいすでに日本に帰国しなければならないことなど頭から離れてしまっていた。

そして、もちろん食事の後は組み手が始まる。

合気道自体の存在を信用していなかった俺に変化をもたらしたのは、この組み手であった。今回もその差は少しは埋まったように感じても、やはり違う部分から力が生み出されているような気がし、「勝つ、勝たない」という問題以前に、そこの考え方に触れなければならないことを再び実感したのであった。

剛は決して柔に勝てない。常人を超えたレベルに達してればの話だが、つまりはそういうことになる。

その後も組み手を続けた俺は、とうとう裏拳をくらって鼻血を出してしまった。もちろん当てるつもりもなかったのは十分承知で、俺もなぜか何も痛みや羞恥心を感じなかった。

それは、そこに俺の存在をしっかり感じることができたからだろう。

ワインが回った俺はその後も、酔拳で寺尾を困らせる結果となるが、それもいい思い出だ。そうだろ、寺尾?

こうして、ブログを書くにあたり、頭の中では2pacのあの歌が頭の中ではっきりと流れている。

この歌を聴く度に思い出すだろう。
あのボストンでの楽しい日々を、

歳をとっても思い出すだろう
この10日間での小学生のように大笑いしたこの日々を

再び、お世話になったたく、
今回深い付き合いになった寺尾、

短期間のステイながら、家に招いてくれたNICOさん
空いた時間を見つけてくれ、話してくれたありさ、

感謝しています。

そして、会えなかったゆうき、Tomoさん、いつか再開果たしましょう。
それでは、またこっちでがんばります。

その後も

2006年11月21日 | U.S
何度も日記に出てくる名前、友達のたくの家に居候している俺だが、さすが変人、多くの伝説を生んでしまう。

まず、あの高速道路を180キロ近くとばし、罰金を払うことになったたくは家からかかってきた電話をとり、そのことをしぶしぶ話した。すると、ボストンで大手証券会社の内定をもらった息子に対して、就職する前に刑務所入っておいで!と言ってしまう母もさすがというしかない。

その後も嘘のようなほんとを続ける彼と生活していると生きているという感じもしなくなるので、とりあえず自分のペースで寝たり食べたりはしている。

4日寝ないこともあるよ。と聞いたこともない話をするが、ほんとに毎日2時間くらいしか寝ていない。

極めつけは、晩御飯を作ってもらった時に、
「隠し味は、プロテイン」
といって、チャーハンにかけはじめた。そして、ところどころ甘いバニラの味のするプロテインチャーハンが出来上がる。しかし、チャーハン自体は隠し味の中国の調味料が隠されており、おいしいというしかない。

明日はこの生活から一日離れ、前にいた寮に遊びに行く。今日も行って来たのだが、明日は一人3階の台所で何でも相談所を開くことになっている。

前の寮もいい加減無茶な人が多かったので、明日も何か起きそうなそんな気がする。

というわけで、こちらでキャッシュカードをなくしてしまった俺は一人気を紛らすためにブログを書いている。

寺尾の父

2006年11月21日 | U.S
ボストンキャリアホーラムの最終日。

その前夜、ハーバード大学に遊びに行くという計画のもと、ハーバード大生の寮に知り合いがいる友達がいて、そこに遊びに行くことになった。

中では難しい会話が飛び交い、会話にも参加せずぼーとしており、お酒も飲んでなかった俺はその後ユースホステルに戻ってきても眠気を感じることはなかった。

友達が明日最終面接だから、少し仮眠をとりたいというし、他の友達も死んだように眠っていたので、俺しか起きていられるやつはいないと思い、寝ないことを約束した。

その後、シャワーを浴び歯を磨くと布団に入らずに部屋の玄関に座り込むことにした。そこからの一時間、地獄のような眠気が襲い、俺はあらゆる方法を使って眠気を覚まそうと努力を続けた。

そんな俺の目を覚ましたのが、ある一本の電話。

友達の携帯であり、何度も鳴るので、これはとって知らせてあげた方がいいと思い、半分寝起きのような声で電話に出た。

"Hello″

「誰が、ハローじゃ調子にのっとるな」
という声が聞こえてくる。どなたですかと聞いても、滑舌が悪いので、中国人の名前にしか聞こえない。

「すいません、どなたですか?」
再び聞くと、寺尾の父です。

とやっと分かり、その友達に電話を変わったが、海外で人の電話にはなるべく出ないようにしようと心に誓った。

変な男

2006年11月21日 | U.S
同じく一緒にボストンに行く友達に俺と同じ歳のやつがいる。
大学をトランスファーし、このカナダの大学にやってきたバックグラウンドを持つ彼だが、見た目も俺より歳をくっているように見え、しっかりしたように見える。

そんな彼と、友達の最終面接に行く途中に二人で朝食を食べる機会があった。向かったのはDUNKIN DOUNUTS。

彼はボストンに就職活動に来ている友達と会うために、時間があるので一緒に朝食を食べたいということだったのだが、友達に電話しても友達が電話に出ないといったところからおかしいなぁとは感じていたのだが、彼のおもしろさはこれだけにとどまらなかった。

その後、友達とべーグルを注文し、俺のべーグルがオーダーしたものと違っていたため取り替えてもらっている間に、彼を一人にしていた瞬間があった。

すると、友達が俺に近づいてきて、
「シルバーシートだから、お年寄りに席譲ってきた、でもハル君のはちゃんととってあるから大丈夫、俺は立って食べるよ」
「でもシルバーシートは嘘だけどね」

変な嘘つくなぁと思ってはいたけれど、なかなかいいところがあるなと感心はしていた。しかし、注文しなおしたべーグルを手に持ち、席に戻ろうとすると席がそのお年寄りに完璧にとられているではないか。

「ごめん、ごめん、席とられてしまった」

笑うしかなかった。優しすぎる彼にとって、こういうトラブルはよくあるらしい。
手に持ったコーヒーはまだ温かいままでまだ飲める状態ではなかった。
まぁこの状況は書くよりも、実際にこのコントのような様子を見ていただきたかった。

ちなみに、ここでのべーグル、サーモンべーグルを頼んで、どこにサーモンがあるんですかと聞いた俺も他の人から見ればおかしかったのかもしれない。

赤い色をしたサーモンクリームがそのべーグルの正体だったのだから。

面接

2006年11月21日 | U.S

↑     ↑      ↑
Boston Carrer Forumのセンター

ボストンで道に迷ったものの、ユースホステルも見つけ、ボストンのキャリアほーラムの場所も確認することができた。時計を見ればもう10時を回っており、ここまで来るのに11時間はかかっていた。

俺はあまりの疲れのあまり、ボストンに入る前の40EXITから31EXITまでの記憶がない。窓を開け閉めして眠気を覚ましていた俺に友達は後から言葉をかけてくれた。「顔が死んでいた」と。なぜ早く言葉をかけてくれないか。

その後は、死んだように眠り面接の準備もないまま当日の朝を迎えた。実際は初日の金曜日が勝負であるらしく周りにも重い空気がたちこめている。

そしてゲートが開く。

俺の本格的な2社の面接は明日であり、この日はあらゆるブースを周り、面接の約束をとりつけようと奔走した。すでに交換留学を終え、日本に戻っている、しかも年齢が24歳になっているということで不利な立場に立たされていることは分かっていた。

とはいっても、周りの会社の風当たりは予想以上に悪く、ほぼ会社の前で履歴書は受け取ってもらえるものの、ほぼ門前払いのような形が続いた。

特に記憶に残っているのは数社。

①某大手広告会社
ボストンで大きな目玉となっている会社のひとつで、開門と同時に面接の予約をとるためにダッシュするという中でも花形のブースである。

そこでの面接では、すでに履歴書を見た時点で面接官が質問をする気をなくしている。
俺の履歴書がひじの下にメモ帳のように置かれているのが目に見えた。
そこでの面接、すべてが会社側からの質問ではなく、俺の質問となった。ここでも興味がないのが見て分かるだろう。

日本にも次に来るらしいが、そのときはリベンジを果たさなければならない。

②某大手コンサルティング会社
これは、履歴書を受け取ってくれる女の人が面接官だったというパターン。面接に行くまでの人材をできるだけ削るためにこの時点から用意されている。面接の準備が万端でなかった俺はどこか内容がはっきりしないことを述べ、受けている最中で手応えがないことは分かった。

③某総合商社
ここでは俺の友達が既に内定を獲得しており、とりあえず行ってみようということで友達が俺を紹介してくれるという形で、そのブースへと向かった。

実際には俺ともう一人の友達が紹介され、どうせ調べてもない会社なのだからおもしろいことやってこのホーラムで伝説を残そうということで、体当たりで向かった面接であった。

始めに書道で今の気持ちを書かなければならず、俺は「キバ」とおもしろいつもりで書道に書きとめた。しかし、もう一人の友達の筆跡をみると「昇心」とまじめな答えを書いている。一体どこまでがおもしろく、まじめでいかなければならないのか分からず、俺は一人残されてしまったような気がした。

しかもまったく深みのなかった「キバ」という言葉も話の勢いをつけることはできず、いやな形でスタートすることになり、自己PRの後、一番されてはならない問題、この会社の志望動機を聞かれてしまった。いくら融通の利く俺でもこの時ばかりはあらゆる視覚的情報に頼ってしまった。

その時、目に入ったのがテレビに映る電車の様子。

「電車の部品を扱う部署に興味があったからです」

「そんなものは扱っておりません」
即答だった。
それでもその面接に通った俺は伝説として、ここボストンのいい土産話を作れた気がする。

最後に、この日の面接で気づいたことだが、俺の日本の大学での履歴書指導が無茶なことが会社の指摘で発覚した。学校側は、履歴書の学歴には交換留学は載せてはいけないと指示しており、俺もそのように書き直したが、それではその空白時間は何をしていたのか分からないではないかと会社側から強く指摘されたのだ。これには、大学側の対応の信憑性を疑わずにはいられなかった。

伝説

2006年11月21日 | U.S
運転にやる気をなくしたたくと変わり俺が国境まで運転を任された。
国境までくれば、もう恐れることはない。
たくと運転を変わり、また助手席でナビを始めた。

そして、国境を越え・・・

彼はデロリアン号にのったかのように、あらゆる車を追い越し、違う世界に向かおうとしている。

「時空を超えろ」

これが後に伝説の言葉となる。

後ろから煽ってくる車がある。なぜか青い光を車内にまとった異様な姿の車に迷うことなく俺らは進み続ける。あまりにしつこいので、横の車線によけると再びついてくるではないか。

「いやないじめだな、警察のふりでもしているのか」

その後、横につけてきたのはバーモンド州警察。
横で運転していた友達が発した言葉は

「時空を超えた瞬間は180キロに迫っていた」

まさにYOU TUBEの世界。俺らはしばらくの間警察とカーチェイスをしていたのだ。
ピンクの紙を切られたものの、友達は米340ドルの罰金を課されただけで、すぐに釈放された。

後にわかったことだが、アメリカ在住の人間ならすでに刑務所にぶちこまれているところらしい。警察はだいぶ大めに見てくれたようだ。

その後、バーモンド州のサービスエリアで飲んだ無料のコーヒーの味は340ドルの味がしたのは言うまでもない。

しかし、この話を最終面接の食事会の中で持ち出した友達のたくも今後俺らは忘れることはないだろう。周りはMBAの取得者ばかりで、難しい話をしている中、彼はこの話を誇張し続けたようだ。

序章

2006年11月20日 | Canada
18日の朝、俺はカナダ在住の3人の日本人の男友達と2人の韓国人の友達とともにボストンの会場へと向かった。レンタカーを借り、地図を片手にひたすら目的地へと近づいていくのを漠然とした景色の中に感じている。

2時間近く車を走らせ、アメリカとの国境へと近づくにつれて社内の興奮は高まっていく。昨日友達のたくと作ったCDの中にある尾崎の歌は20歳を超えた俺らの心から少年のような無邪気さを引き出そうとしている。

伝説はここから始まる・・・

「直線はとばす」
運転していたたくがすでに男気を見せようと、アクセルをふかす。
そんな様子に周りも飲み込まれ、周りの標識がほとんどフランス語になっていることにさえ気づきもしない。もうアメリカの国境近くについていてもおかしくない時間に俺らはケベックシティにいた。つまりモントリオールよりも北部(ボストンは南部)

不思議に思った俺らは高速を下り、目に入った事務所で今いる位置を尋ねると、明らかに地図にない場所を指さしている。

ともに競争していた他の友達の車に追いつくために俺らはまた逆の道をとばしはじめた。隣にいたたくはすでに運転する気をなくしている。

メール

2006年11月16日 | Canada
空港で海外用の携帯端末を借りたので、日本からのメールを確認することができます。
用がある方や、今何をしているか知りたい方は日本での携帯アドレスにメールを送ってください。



そして到着

2006年11月16日 | Canada
ほぼ半年ぶりにモントリオールに到着した。
アメリカで一番広いであろうシカゴ国際空港を後にし、モントリオールに着いたのは夜の2時を回ろうとしていた。飛行機の中でも機内食を忘れるほど熟睡していたものの、これが時差ボケというのか常に体が疲れていていつでも眠れるような状態だった。

夜も遅いだろうし、タクシーで行こうと考えていたのだが、バスがあったのでバスに乗り込んだ。てっきり、あるターミナルまで送ってくれるのだと思っていたら友達の住所のところまで親切に送ってもらい、こんなサービスがあることにも驚いた。

その後、友達とも夏以来の再会を果たし、4箱もある友達のプロテインボックスを眺め、その夜は眠りについた。

そして、朝。マギルの大学の図書館でこうしてブログを打っているのだが、昔のあのたまらなく忙しい時を思い出し、日本でのなまった体があの時の生活にもうついていけないだろうと感じる自分がいた。