アラビア語に興味があります。

 イランはペルシア語の国です。トルコはトルコ語で、現代トルコ語はローマ字で表記されます。

『太陽の男たち』

2007年12月22日 23時31分39秒 | アラブ文化など
 集中講義「映像で見るパレスチナII」の最終日、今日は『太陽の男たち』を観てきました。シリアの1972年の映画で、白黒フィルムでした。3人のパレスチナ難民が、運転手として働いている別のパレスチナ難民の運転する給水車のタンクに隠れて、クウェートに密入国を企てるが、結局タンク内で熱中症となり死んでしまう話。

 しかしそもそも、原題は رجال في الشمس “太陽の中の男たち”(のどかに訳せば“日向の男たち”)で、太陽光線の熱に焼かれて死んだ男たちを直接的に指しているので、邦題(黒田寿郎訳)の“太陽の男たち”はまずい訳だ、とアラブ文学のぬ田原教授が在任中にコメントしていらしたのを思い出します。

 さて、いきなりラストシーンの話ですが、原作では、タンク内で運命を甘んじて受け入れ黙って死んでいった男たちに、運転手が、
「なぜタンクの壁を叩かなかったんだ? なぜだ、なぜだ、なぜだ」
と激しく問いかけて終わるのですが、映画では、男たちが内側からタンクの壁を叩く音が、出入国管理事務所の冷房の室外機の音にかき消されることになっています。上映前に配布された資料には、
  「このラストシーンを中心に原作と脚本とを比較すると、
   時代状況や製作者とのスタンスの違いが透けて見えてくることだろう」
とあったのですが、ちっとも透けて見えなかったので、午後の討論を聞くことにしました。

 結局、どういう違いだったかというと、ガッサーン・カナファーニーが原作を書いた時点では、パレスチナ難民は運命を甘受するのみだったが、9年後、映画化されたとき、監督は、パレスチナ人は壁を叩き始めたじゃないか、その音を聞かなければならない、と考え、またカナファーニーもその意見を受け入れて、上記のような改変が行なわれたとのこと。

 なお、本日のゲスト講師が現代企画室の編集長の太田昌国さんだった関係で、ルティ・ジョスコヴィッツ著『私のなかの「ユダヤ人」』(増補新版)他を税抜き価格で購入することができました。楽しみに読み返したいと思います。

【追記 2007/12/23】なお、映画版の原題は المخدوعون 『騙されし者たち』だそうです。いつ騙されたんでしょう? クウェートに連れて行ってやると言われたのに、死なされたからでしょうか。
 ラストで、沙漠に捨てられた三人の男たちの遺体のうち一体の右手が、ノックをする形に丸くなって硬直していたのが忘れられません。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿