妄念の凡夫

日々是称名

『教誨師』(堀口惠子著、講談社)

2014-07-11 08:54:50 | 本と雑誌
 死刑についてのノンフィクションを発表し続けている、広島の元テレビディレクターによる渾身の新作。
 死刑囚がどんな事件を起こしてどのように刑を受けたのか、という怖い物見たさや下衆な気持ちで読み始めたのが、正直なところ。
 しかしながら、そんな野次馬根性は読み進めていくうちに吹っ飛んでしまった。
 タイトルにあるように、この本の主題は死刑囚のレポートではなく、ある浄土真宗・教誨師の生涯である。
 石、瓦礫以上に地獄に沈もうとする力の強烈な死刑囚を、どのようにして浮かび上がらせるのか。主人公は、そんな苦悩の人生を送ったのである。後半、アルコール依存症に陥る下りも、きれい事ではない人間の業を正直に吐露しているなあ、と共感できた。
「これを読めば、法座でわからん、わからんといってる自分がちっぽけに思えてくるよ」と、Y村くんに貸した。なにか得るところがあるといいのだが。
 以下、本文からの引用。

 大橋は紛れもなく老夫婦を殺害した「加害者」である。その事実に間違いはない。しかし彼は、自身が最も気に病んでいる右手のことを平然と馬鹿にされたことへの「被害者意識」を拭えないでいた。罪を犯しながら、心は被害者のそれなのである。

 そんな人間に心の平穏を説いても伝わることはまずないことを、若い渡邉も教誨師として十分すぎるほど経験してきた。死刑事件の加害者である死刑囚には、大橋と同じような被害者的な恨みにとらわれている者があまりにも多く見受けられた。幼いころから家や社会で虐げられ、謂われのない差別や人一倍の不運に晒されて生きてきた者が圧倒的に多い。そして成長するにつれ、自己防衛のために自己中心の価値観しか持てなくなっていく。だからと言って罪を犯すことが許される訳ではなく、自業自得と言ってしまえばそれだけのことだが、そして行き着いた先が「処刑台」では救われない。事件のことはさておき、まずは彼ら自身に向き合って、その「被害感情」を取り払わなくては、事件に対する真の反省も被害者への慰藉の気持ちも永遠に訪れることはない。



 自分は女だから絶対に死刑はないと信じ切っていたカウは、拘置署長から翌日の執行を告げられたときも事情がすぐには飲み込めぬ様子で「キョトン」としていた。
(中略)

 あまり多くは語らなかったカウだが、一連の儀式を終えて、いよいよ刑場に移動させられ絞縄をかけられようとする間際、こう言って周りを驚かせた。

「すみません、もう二、三日、待ってもらえないもんでしょうか?」



(教誨師になった頃、死刑囚を救いたいと思った、と仰っていましたね)

 うん、その救いっていうのはね、心の問題であってね、命が助かるという意味じゃないんですよ。多くの人はね、救うというのは命を救うという解釈なさいますがね、われわれの言っている救いっていうのは、阿弥陀様に抱かれていく救いということですから。本人は死刑にはなるんだけれども、本人の心が……、難しいね、とても。「先生、死刑になっていきますけど、今度は人を救える人間になっていきますからね」と、そういうものにしていく。それをあえて救いということで表現していく。だから一般社会でいうところの救いと、われわれの言う救いというのは全然、違うんです。そう言いながらね、「じゃあ、あなたは人を救ったのか」なんて聞かれるとそれは難しいね……。



↓善知識にあうことも、おしうることもまたかたし。よくきくこともかたければ、信ずることもなおかたし。

教誨師教誨師
価格:¥ 1,836(税込)
発売日:2014-01-31



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