かくの如く宗祖にあっては、この信の一念は迷と悟との分極として、ここにおいて如来の救済を受け浄土の証を得る分位におさめられながらも、しかもまだ自己が宿す無明煩悩によって、その浄土の証とはどこまでも遮断隔絶されていることを自覚せしめられたのであり、涅槃佛果の顕現はあくまでも未来でしかなかったのである。このように既に浄土の証を得る分位におさめられながらも尚無明煩悩に纏わられていると言う信の一念の構造のところにこそ、宗祖がその得益論において正定聚と滅度とを分立し、それを現当二世に分属して、浄土の証果は悉く捨命以後の来世においてのみ獲得されうるものと領解した根本的且つ必然的な理由があると窺われるのである。
信の一念の二種深信(地獄一定・浄土一定)によって、後世において浄土へおさめとられることが知らされても(正定聚)、同時に、現実の自己は浄土とはどこまでも遮断・隔絶された煩悩具足の凡夫である。したがって、大般涅槃(ニルバーナ、滅度)の仏果は、現世ではなく当来世において得る利益であると親鸞聖人は領解されたのである。
即ち宗祖はこの信の一念において、無明煩悩に覆われながらも既に浄土の業因を成弁せしめられ、往生成佛を得証することに決定せしめられているところを指して、正定聚と言い不退転と呼んだのである。だからこの正定聚と言い不退転と言うも、それは直ちに具体的生活面に顕われる機相について言うのではなくて、本質的には如来の本願を信愛するものに必然的に付与される宗教的な価値を意味するものに外ならないのである。宗祖がこの正定聚を明かすについて時にそれを往生と説くことがあっても、それはあくまでも往生を得ることに決定せしめられたことを表わすものであり、またそれについて等正覚、便同弥勒、諸佛等同などと言うことも、全てこの信の一念において得るところの入信の巨益について嘆じたものであって、この現生正定聚が信心の具徳の所談であり、密益であると言われる所以である。
「即得往生住不退転」というときの往生は、あくまでも浄土へでの往生を当来世において得ることが決定させられたことを述べたものである。現世では、不退転に住すのである。それは、念仏者の表面的生活態度などに現れるようなものではなく、念仏者自身の信仰において必然的に付与される価値(利益)なのである(【密益】行者の表面に明らかにあらわれない利益。信心の徳)。しかもその価値は、正覚とひとしく、すなわち弥勒菩薩と同じで、諸仏ひとしく同じなどという巨大な価値なのだと、親鸞聖人は感嘆されたのだ。
ここで、気になる表現がある。「まだ自己が宿す無明煩悩」とか「尚無明煩悩に纏わられている」とか「無明煩悩に覆われながらも」とか、信楽先生は無明煩悩を一括りにしておられる。煩悩は死ぬまでなくならないので信後も続くのだが、無明までくっついてくるいるのはなぜだろう? 信の一念で無明の闇は破られるはずだ。闇は光でなくなるけれども、無明であり煩悩ばかりの自分の正体は変わらない、という解釈なのだろうか。