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エレミヤ書39章

2017年05月17日 05時57分07秒 | エレミヤ書
 エルサレム陥落と、ゼデキヤ王の処罰が語られる。ネブカデネザルの全軍が結集している。ゼデキヤは、その包囲網から逃れることはできなかった。神は、ゼデキヤに繰り返し語られたし、また最後はエレミヤを通して個人的に、神の御心を確かめる機会を与えられた。しかし彼に神のことばに従って降伏する勇気はなかった。ただ一国の王が降伏するなど、そう簡単にできるものではないだろう。日本がその昔、敗戦色濃い状況の中でなかなか降伏できなかったと同じである。しかし神は、敢えてその難しいところを通るようにされたのである。人間素直さと謙虚さがあれば、と思うところだが、それができない病があるというべきだろう。たとえ、もしこの道を進むなら、自分は失うばかりで、何も良きものを期待しえない、と思うことがあっても、神の最善のお取り扱いに委ね、敗者として歩んでいくことをよしとせねばならぬ時がある。自分を失う恐れではなく、神を覚える恐れこそ持つ必要がある。神に聞き従うことが私たちの幸せなのであるから。
 一方エレミヤとユダの何も持たない貧民、そしてクシュ人エベデ・メレクの場合は、神の恵みを得た。エレミヤは、バビロンの王ネブカデレザルによって解放されていく。彼の働きは人間的に見れば失敗である。彼の神の言葉を伝える試みは、結局受け入れてもらうことはできなかったからである。誰もエレミヤのことばに耳を貸すことはなかった。むしろエレミヤは、地下牢に入れられ、泥に沈められ、散々な扱いを受けた。しかし、神のみこころが一通りなされる中で、エレミヤは監視の庭から解放され、ネブカデレザルの厚意をうけることになる。それは、すでに多くの逃亡者がエレミヤの存在をネブカデネザルに伝えたため、という説もあるが、ネブカデネザル自身がイスラエルの神を認めていたことを覚える必要もあるだろう(ダニエル4章)。ブカデネザルがバビロン全軍の統帥となりアッシリヤ帝国を滅ぼしたのはBC605 年、その年に初めてエルサレムに侵攻し、ダニエルたちを捕虜としている。その後、ネブカデネザルは夢を見、ダニエルの神を認める出来事があった。彼がエルサレムを攻略したのはそれから7年後のBC588年のことである。
またユダの何も持たない貧民は、土地を得る恵みを得た。ただ後に彼らはその故に高慢に陥り、本当に残された者は、むしろ、バビロンに連れ去られた者という、更なる逆説的結果を見ることになる。
そしてクシュ人エベデ・メレクも、異邦人であったが神の恵みを得た。神のみことばは、異邦人ではなくユダヤ人に対して語られたが、たとえ異邦人であっても、神のことばの正しさを認め、神の言葉を語り告げる神の働き人を助ける者があれば、神はその志を認められる。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち。しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)とあるように、神は神の働き人に対する心遣いを見ておられるのである。神の言葉を恐れ、神の言葉に従う事の結末は、安息であり、祝福である。使命を果たそうとしている間は負け犬かもしれないが、最後まで果たすならば、神の恵みに浴することは確かなのである。

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