【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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エレミヤ書50章

2017年05月27日 05時11分31秒 | エレミヤ書
 バビロンに対する宣告。イスラエルを打つ神の道具として用いられたバビロンが、一瞬にして滅ぼされることを伝える預言である。しかしすでにエレミヤは、バビロンのくびきがもうまもなく打ち砕かれる、と語った偽預言者のことばに反対して、降伏すべきこと、残された民はユダヤに安住すべき事を語っていた。ここでは、そのバビロンが、もうまもなく、打ち砕かれる事を語っている。
 この預言については、どうも後代のもの、つまりバビロン帝国末期(BC538年頃)に未知の預言者が、エレミヤ風に加筆したものではないか、と考えられてきた。しかし、そのように理解しなくてはならない、という決定的な根拠はない。むしろ、エレミヤは、預言者として超自然的に神によって知らされた、さらに先の幻を語り伝えたのだと理解しても差し支えない。実際、エレミヤはすでに25章において、バビロンの滅亡を語っている(12、26)。46章以降、ユダに打撃を与えた数々の小国に対する裁きを述べた後に、致命傷を負わせた大国バビロンの裁きを明瞭に語ることは自然な流れである。
 2節「ベル」は、バビロンの守護神、「メロダク」は、マルドゥクとも呼ばれる最高位にある神である。しかしその神々も、バビロンと運命を共にして、北からの敵によって滅ぼされる、と語る。神はバビロンを、イスラエルの裁きの道具とされたが、だからといってバビロンの在り方が正当化されるわけではない。神の前に正しく歩むことがなければ、神はその罪を見過ごしにはされない。神は公正に正しいことをなさるお方である。
 また、バビロンの勢いを考えた時に、当時誰が、その勢いに終わりがあると考えることができただろうか。目に見えるところだけで生きていたら、決してそのように考えることはできないものではないか。この預言は国家レベルのものではあるが、私たちの身近な事柄においても、一体どのようにしてこの勢いを逆転させることができるものか、と思うことがあったりするものだろう。圧倒的な勢いに飲み込まれ、倒されてしまった自分の人生がどのように、逆回転するのか、救われるのか、と思うことはあるものだ。
しかし、「高ぶる者よ。見よ。わたしはあなたを責める。あなたの日、わたしがあなたを罰する時が来たからだ」(31節)。「彼らを贖う方は強く、その名は万軍の主」(34節)「見よ。獅子がヨルダンの密林から水の絶えず流れる牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう」(44節)。目には見えないが、確かに生きておられる神がおられる、その方が語っておられることに耳を傾けよ、ということではないか。 
 時を興した神は、時を終わらせる。どんなに永続しそうな勢いがあっても、神はそれを一瞬にして取り去られる。そんな神に対する信仰をもって、私たちは人間として遜った誠実な歩みをすることが大切である。いついかなる時も、たとえ不本意な境遇に置かれることがあっても、その勢いに飲み尽くされることもなく、ただ、神の時を待ち、なすべきことをなさせていただく。これを今日の最善であると考えて歩ませていただこう。