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エレミヤ書37章

2017年05月14日 05時41分29秒 | エレミヤ書
 エルサレムは、バビロニヤ軍の包囲網の中にあったが、一時的にそれを解かれている(34章)。といのも、エジプトの援軍がエルサレムに近づいていたためである。この時のエジプトの王パロは、BC589-570年まで統治したホフラであろうと考えられている。ホフラはゼデキヤを助けるために進軍してきたが、実際には戦いを交えずに帰還している。バビロニヤ軍がすぐに包囲網を解いたこともあるが、これは危うい戦争になるかもしれない、という予感もあったのだろう。再びエルサレムはバビロニヤ軍に包囲され、エレミヤの語り伝えた預言が成就することになる。

ともあれこの包囲網が解かれている間に、エレミヤは、ハナメルから手に入れた土地を見るために、エルサレムの外へと出かけている(32:1-24)。ところがその行為は、カルデヤ人に投降するものと誤解され、逮捕され、丸天井の地下牢に押し込められてしまうのである。地下牢は、恐らく、貯水槽のことであって、囚人を閉じ込めておくために一時的に用いられたと考えられているが、劣悪な状態であったことに間違いはない。

そんなエレミヤに、ゼデキヤが人を遣わし、彼を召しよせ、再び、神が何と語っているのかを尋ね求めている(17節)。ゼデキヤはエホヤキムと違い、エレミヤの言葉を真っ向から否定はしなかった(36:24)。むしろ、彼はエレミヤのことばを聞こうとした。しかしただ耳当りのよいことを聞こうとしたことに間違いはなく、結局、彼は、語られた神の言葉を受け入れようとはしなかった。神のみ言葉に対する心の態度は、エホヤキムもゼデキヤも五十歩百歩である。いずれも神と自分の関係を取り違えているのである。神が天地万物を創造し、人間を造られたお方であるなら、私たちは神のことばに従うのみである。

エレミヤは言う。たといイスラエルがカルデヤの全軍勢を打って、重傷を負わせたとしても、彼らがエルサレムを攻め滅ぼすであろうと(10節)。エレミヤは人間的に政治情勢を読んで、預言しているわけではない。神が意志されたことを伝えているのであり、それは、人間の不可能性を越えた業である。神を恐れなくてはならない。

エレミヤは、事態は自分が預言したとおりであることを指摘している(19節)。ゼデキヤはエレミヤが語る神の言葉を受け入れなかったが、それでも一目置かざるを得なかったのだろう。エレミヤは地下牢から監視の庭、つまり宮殿内の営倉に移され、そこで一定の食事を与えられることになった。

エレミヤにとって、神のことばの故に一国の王と戦わねばならなかったことは、単に勇気を持つだけでは乗り越えられないチャレンジであったことだろう。事実、エレミヤは、これらの試練を乗り越えるためにただ奮起したわけではない。神はエレミヤが預言者として立つ時に約束をしている。「恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ」(1:8)。「彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ」(1:19)エレミヤは神の約束にしがみついて、神のあわれみに支えられたのである。神のことばに語られる現実に生きたのである。神は、私たちにも同じ恵みを与えてくださる。たとい逆風が吹いたとしても、神が味方となって、それを跳ね返す力を与えてくださる。大胆な働きも、神の意思に服従する結果である。


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