昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

大和撫子 は 日本女性の鑑

2017年08月13日 05時07分54秒 | 8 大和撫子

男児は、大和魂

女は、大和撫子

5,6歳の頃

大人達から、そう聞かされた

私の親の時代の、理想像である

親の世代・・国から、そう聞かされたのである

大和撫子

凛としていて、清楚

慎まやかで

一歩己の身を引いて男を立て、男に尽す

甲斐甲斐しい女性を謂う

野菊の如き君なりき  1955年(昭和30年)
有田紀子演じる民子

私が抱く

大和撫子かも知れない

コメント

歴史との出逢い

2017年08月12日 15時31分55秒 | 5 右翼青年 1974年~


茨城 ・東海村の浜は
波が高く、遊泳禁止

千葉 ・九十九里の浜も波が高かった。
さすがに太平洋である。
打寄せる波の所為か、人影も疎らであった。
稀に来る大波、その反す波は、沖まで一機に引くと謂う。

「 都会もんは、沖に流されまいと、岸に戻ろうとする 」
「 だから、反す波に 負けて溺れてしまう 」
「 そういう時は、逆わらずに沖に出て、じっと しとったらええのに 」
地元の漁師が、そう呟いた。

 8/4 水戸 偕楽園
昭和49年 ( 1974年 ) 8月3日 ~ 7日の 4泊5日
高校の同窓4人 ( 3人は電気科卒 ) で、夏の旅行をした。
東海村原子力発電所~水戸偕楽園~九十九里浜~渋谷・銀座 の、スケジュールであった。

8月7日の最終日は、私の希望する 「 渋谷 」 に行く
それは、私の要望であった。

東京駅で下車すると、吾々は皇居へ向かった。
昭和44年 ・中学の修学旅行以来の皇居 ・二重橋である。 

歩くと、腹が減った。
丸之内、立派な建物ばかりである。
けれども、 食事する処が、分からない
東京駅なら、レストランがあるだろうと、一旦 駅へ戻る も
田舎者の吾々
東京駅構内 探せど レストランが見つからなかったのである。
「 大阪なら、食べるところ、何処でもあるのに 」
「 東京のもん、どこで 飯し 食うとんやろ 」
「 喫茶店も無いなぁ 」
 右端のドームに食堂を見つけた。

しかし
中に入ると、「 美味いもん 」 などとは、ほど遠い雰囲気であった。
嫌な予感がした。
吾々は、「 焼き飯し 」 を注文した・・・が
やっぱり 不味かった。
「 これで、金 とるんか!」
悪いとは、想ったが
吾々全員 最後まで食べることが出来なかったのである。

でも、悪いことばかりでも無かった。
ウェートレスの女性の初めて聞く、シャキシャキした歯切れ良い言葉づかい
それは、私には新鮮で心地良かった。
「 江戸っ子の気立ての良い女 」
・・・
彼女みたいな女を、謂うのであらう。
「 掃き溜めに鶴 」
・・・とは、旨く謂ったものである。
聞けば、高校生だと云う
焼き飯し 」 は不味かったけれど
美人で しかも、気立ての良い女 と、遭えた為らば
想い出では、一つである。

旅先での食事は それはもう 不味かった。
殊に、九十九里浜の、
真っ黒い汁のうどん は
生涯の想い出 に成った。

「 大阪は 美味い 」
・・・
つくづく、
そう想った吾々であった。

ちなみに、
銀座の喫茶店では、「レーコ」 「コールコーヒー」 
・・・通じなかった。

私は、ウェートレスの彼女に、渋谷までの道順を尋ねた。
地図上の位置は しっかり把握しているものの
皇居を中心に周っている東京の路線は、複雑であった。
何せ、東京は初めて
しかも、「 渋谷を目指す 」 は私だけ、他は 伴の者である。
頼りにしては為らない
彼女は親切に 教えて呉れた・・・のだけれど
せっかくの親切を無駄にした。
彼女の言う、
「 駅を出て直ぐの地下鉄の階段 」 を、降りなかったのである。
路線を乗り継いで、皆を引率して行くには、どうしても自身が持てなかった。
不安であったのだ。
結局のところ
駅を出て直ぐに居た、タクシーに乗ったのである。
「 許されたし 」 ・・・と 

「 渋谷区役所へ 」
「 シブヤ・・ 」
「 このタクシー大丈夫かな ・・・」
「 NHKホールの前 」
そう言い替えすと、タクシーは出発したのである。 

タクシーはNHKホール前交叉点に着いた。
目の前に大勢の若者が居て、それは、祭りの如く賑やかであった。
然し、肝心要の渋谷区役所が判らない。
斯の道路向にパラソルの露店をみつけた。
売り子に尋ねてみようと、( わざわざ ) 道路を渡ったのである。

「渋 谷区役所は何処ですか?」

「後ろですよ」

「後ろ?」

なんと 私は 渋谷区役所を背負っていたのである。

私の脳裡には、目的の位置は、しっかり焼付いている。
渋谷区役所の隣りが 渋谷公会堂、
更に渋谷税務署と続く

渋谷公会堂での、有名歌手のコンサートに由り、若者が集まっていたのである。

目的地は直ぐそこ哉、気が逸る・・・・
そして
「 ああ・・あった 」
一人 声無き歓声を上げた私
「 神達と逢いたい 」
・・・との、
夢が現実のものと成りし瞬間である。

やっと、辿り着きし
二・二六事件慰霊像
神達の処刑跡地に建立されし、慰霊像
昭和49年 ( 1974年 ) 8月7日
二十歳の私
昭和維新の神達 と、初めて
直接接点を持ったのである
言い替えらば
歴史 との、記念すべき感動の 出逢い であった。
・・・リンク→男のロマン 1975
22602

 

 

 

 

 

 

コメント

新聞少年

2017年08月10日 05時45分58秒 | 2 男前少年 1963年~

貧しくとも
働くことが大きな希望であった時代
だれも皆、前向きで元気であった。

キューポラのある街
昭和37年 ( 1962年 )
胸が篤く成る、シーン である

歌は時代を反映する。
戦後最大の不況と謂われた 昭和40年 ( 1965年 )
こんな歌が流行った。
当時小学5年生の私、今も偶に口遊む

「新聞少年」
 一
 僕のあだ名を 知ってるかい
 朝刊太郎と云うんだぜ
 新聞配ってもう三月
 雨や嵐にゃ 慣れたけれど
 やっぱり夜明けは眠たいな
 二
 今朝も出掛けに 母さんが
 苦労をかけると 泣いたっけ
 病気でやつれた 横顔を
 思い出すたび この胸に
 小ちゃな闘志を 燃やすんだ
 三
 たとえ父ちゃん いなくても
 ひがみはしないさ 負けないさ
 新聞配達つらいけど
 きっといつかは この腕で
 つかんでみせるよ でかい夢
  ・・・山田太郎 歌

「 ハナダー 」
路から小声で私を呼ぶ声がする。
2階の窓から顔を出すと、
チーボー ( 級友・早石の兄、6年生 ) が、立っていた。
要件は分かっている。
小声で
「 アルバイト ・・・」
私は帽子を被ると、急いで階段を降りた。

二人して、大東商店街の協和ストアへ
そして、魚屋 八百屋 果物屋 雑貨屋・・・等々、周った。
どうしても、アルバイトをしたかった。
しかし、小学4年生を雇って呉れる店等、ひとつも無かったのである。
肩を落とした影ひとつ・・

夕食時、親父が私に訊ねた。
「 アルバイト、見つかったんか?」
「 えっ? なんで知っちょるん 」
「 わしは何でも知っちょるんじゃ 」
「 だめじゃった 」
事を親父に説明したら
「 ワレみたいな子供をだれが使ってくれるもんか 」

怒られると、想った。
「 まあええ、働こう いうことは、ええことじゃ 」
どういう風の吹き回しであらうか
誉められたのである。

昭和39年 ( 1964年 ) 夏休みの事である。

コメント

肩までつかれ

2017年08月09日 10時14分03秒 | 2 男前少年 1963年~

銭湯と謂えば、背景画
今は懐かし
昭和のひとこま であらう。
 類似イメージ

町の風呂屋に行くのが一般的であった、昭和39年 ( 1964年 )
毛馬町1丁目に
ラジウム温泉 「 新道湯 」 という風呂屋があった。
夏休みは
未だ、日の明るい夕暮に よく行った。
脱いだ服を 「 かご 」 に入れ、
洗い場へ入ると
♪ 赤い夕日が 校舎を染めて 楡の木陰にはずむ声
  あーあ あああ 高校三年生 ・・♪
・・・と、歌声が聞こえる。
見ると、
父親に体を洗って貰らいながら、
3歳程の女の子が唄っていた。
それも亦 大きな声で、
而も はっきりとした口調で唄っている。
「 ヘー、こんな小さい子が 」
・・・と、
10歳の私は、
その子に感心したのである。

肩までつかれ
私は
6歳の妹を連れて風呂屋へ
髪、体・・と、洗ってやり、
仕上げに液体の添加粉を、額・首筋に塗ってやる。
それが、いつもの工程であった。

「 肩までつかれ!」
「 100まで数えろ!」

えらそうに言う 「 あんちゃん」 に 、
「 妹 」 は、従順であった。

「 よし、あがれ!」

ところが
湯舟からあがった妹がおかしい
顔が真っ青になって、吐き出した。
浸かり過ぎて酔ったのだ。

「 あんちゃん 」 の、言う事はきかなければと
熱いのを じっと我慢していた妹・・・
私は、それに気が付かなかったのである。
斯のこと、
妹は覚えているだらうか。

コメント

ろくに犬も飼えないくせに

2017年08月07日 19時43分47秒 | 2 男前少年 1963年~

せきにん
3匹の犬を僕より二-三つ年下の子がもらって来た。
「この犬そだてんね。」
僕はこの言葉を聞いて犬がかわいそうになった。
この犬は全体成長するまでに死んでしまおうと思ったからだ。 (絶対)
僕は 「犬小屋はどこにおくね」 と聞いた。
辺ってきた言葉は 「ここや。」                    (返ってきた
ここというのはあきちのことである。
親が家で育てたらいけないといったにちがいない。
僕は犬がよけいにかわいそうになった。
犬はかいやすいようだが自分一人で育てるのはなかなかむつかしい
というのは、僕が二-三年前犬の子をもらってきて育てようとした。
でも母が反対し、自分の手でかうことにした。
ちょうど三匹の犬と同じだ。
夜はクンクンなくし、なにもたべなくだんだんやせてき、ついに僕はさじをなげた。
だから自分の手でかうということはむずかしいのだ。
だから僕は三匹の犬が死なないようにと心でいのつていた。
ある日曜日、朝例のあき地にいった。
そしたらあの子たちが犬小屋の回りをとりかこんでいた。
一匹の犬が死んだのである。
二匹も目がとろんとして鼻がかわききっていた。
「病気ちゃうか」
「何の病気やろ」
と話しをしていた。
僕は二匹のはらが大きくふくれているのに気がつき、
「その犬ムシや、かい虫がおんねんや。」
といって薬を買わせた。
「やっぱり殺しよった」 と僕は思った。
のこつた二匹に毎朝、毎夕、薬がのまされた。
そういったある日、一匹の犬がげりをした。
その中に二-三匹のかい虫が入っていた。
「やっぱりかい虫やったな。」
と、僕はうれしかった。
それは犬にのましていたのが虫くだしであったからである。
もう一匹もげりをした、やはりかい虫が出てきた。
二匹の犬のはらのふくらみもしだいになおってきた。
僕はとてもうれしかった。
でもそれもつかの間、二-三日後一匹の犬がまた死んだ。
残った犬はすてにいくといってどこか、つれていった。
僕はこういうことにはならないでほしいと思っていたのにやはりなった。
でもどうせ、こういう事になるのなら始めからもらってこなかったらと思う。
そして三ヵ月たらずで死んだ二匹がかわいそうでならない。
もう一匹は今どこで何をしているのかといつも思う。
日本じゅうではこういった例がたくさんあると思う。
こういった一生をおえる犬がたくさんあるのだ。
何事も自分でやることはせきにんを持ってやってほしい。
動物みたいに命のあるものならなおさらだ。
あの子らがせきにんをもって犬を育てたらと僕は思う。
 ・・・原文のまま掲載

      

昭和42年(1967年)、中学一年生(13才)
国語の授業の課題として作成したる文集
個人文集  「 鷹 」
に編集した作文である
中一としては、少々幼稚なるが・・
物語はその前年、小学6年生(12才)の体験を基に書いたものである
文中、二-三つ年下の子 とあるは、近所の子倅の中、(高西)ノリアキとカズトヨ兄弟のこと
かい虫 とは、回虫のこと、げり とあるは、嘔吐のこと
作文の 良し悪し ・・評価はしまい


昭和41年(1966年)
和歌山に在る親戚では、秋田犬を飼っていた
夏休み、産れたばかりの秋田犬を抱いて満面の笑みの私
然し、欲しいと想う心はままならない
大阪の間借り住まいでの境遇では、とうてい叶うものではなかったのである

昭和36年(1961年)、
犬を飼いたくて、貰ったものの手に負えず手放した。
翌年、捨猫 を家に持ち帰った。
やはり 母は反対した。
「 捨ててきなさい 」・・と
小犬もろくに飼えなかった私、子猫なぞ飼える筈もない。
私は母に言われたとおり、子猫を捨てた。
後ろ髪を引かれる想いで立去ったのである。
ミャーミャー ・・・ と、
その鳴声は耳を離れなかった。
・・・リンク→「 捨ててきなさい 」

そんな苦い体験が、切ない想いが、
斯の作文の因を為している。 ・・・のである。

コメント

トグロを巻いたヘビ

2017年08月01日 20時33分52秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

 「消えた空間と過ぎた時間」
時間の経過は 空間をも変えてしまった
曾 私が存在した空間は 時間の経過と共に存在しない
存在したのは 瞬間に於ける空間であり
瞬間の私であった
過ぎた時間は 限りなく 遙か彼方に行ってしまった
光の能力をもってしても 曾の私を確認はできない
消えた時間は 光をもってしても 追いつけない


               昭和44年(1969年)10月14日・・・想い出る故郷
たいていの家がそうであったらう
便所は外にあった。
電灯も無かったから
夜中便所にゆくのは嫌で堪らなかった。
殊に
怪談話に はながさく 夏の夜は怖ろしかった。
私は、蝋燭のともしびで用をたしたものである。

トグロを巻いたヘビ

丸谷の我家
部屋から障子を開けると縁側に出る。
ぬれ縁で外なのである。
縁側を左に突き当ると便所、外壁に小便器が据付けられている。

夏のある日
小便しようと便器に向ったところ
それはもう、びっくり
どぎもを抜かれた。
小便器にとぐろを巻いた、40~50cm程のヘビが居たのである。

赤っぽい 無地の小さいヘビ
それは、普段よく見る、シマヘビでもない、アオダイショウでもない
こともあらうに
私の姿を見るなり
いかにも気持ち悪い、かま首を持ち上げたのである。

 イメージ
更に
口を開いて
「 シャーッ ・・」
咽喉を鳴らして威嚇してくるではないか

ヘビの超きらいな私
怖ろしいて
もう、小便など できるものか。
腕のサブイボがクッキリ見えている。
それでも男の児
ほうきの柄の先で突いて、追い払おうとしたのである。
ところが、このヘビ
逃げるどころか、柄の先を噛みつかんと
かま首を伸ばしてくる。

なんと、イビしい・・・

この種のヘビ、気性が荒い
噛みついてくるのである。
「 小さいヘビほど恐ろしい、噛みついてくるんで 」
母がそう言った。
六歳年上の叔父は、畑でこれに腕を噛まれた。
その話を聞いたばかり
毒はない・・と雖も、やっぱり怖ろしい。

 イメージ
我家の縁側をそのまま降りると
ダリヤの花咲く花壇があり
其処で私は
ひまわり、朝顔、ヘチマを栽培した

花壇の向こうには
共同の井戸があって

井戸端は皆の憩いの場でもあった
 
写真は井戸端で遊ぶ私
昭和37年 ( 1962年 )
我家はこの石垣に沿って建っている
石垣の上はカボチャの畑


ヘビが、ムカデが、ハチが
家の中に入ってきても
不思議では無い

そんな環境で
幼年期を過ごしたのである。

コメント