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白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

サマディ記事(マハーヤーナから抜粋)

2007-01-19 02:29:30 | Weblog
教団機関紙「マハーヤーナNO 11」からサマディに関する記事を抜粋してみました。

(編集部)
今回サマディにはお二人とも、今まで「マハーヤーナ」等で出してきたものとは異なる、特殊な三昧に入られたそうですね。
(尊師)
それはどういうことかというと、釈迦牟尼の言う三昧と今私が言っている三昧とは違うと、一言で言うならば。今回言っている三昧というのは、ヨーガ経典でいわれている三昧であると。釈迦無二の言ってらっしゃる三昧というのはダラーナ、ディアーナ、サマディと。つまり精神集中、瞑想、超覚醒の三つを合わせて三昧と言ってらっしゃる。そして私も、今まではこの三つをまとめて三昧と言っていたと。要するにラージャ・ヨーガは一番目の精神集中(ダラーナ)の三昧は入れると、意志のヨーガだから。それからクンダリニー。ヨーガは瞑想(ディアーナ)だね。アストラルへ飛ぶという。で、ジュニアーナ・ヨーガは超覚醒(サマディ)というプロセスで当てはまるよね、これは。つまり、今回私が入った三昧というのは、この三番目の超覚醒の三昧ということになるね。
 とにかく。ケイマ大師は十二時間、酸素の消費量がゼロだということは、言い方を替えれば十二時間集中をし続けたと考えていい。これは異常な集中力だね。一般人の精神集中の限界は十五分というから、もう常人ではないんだね。意識は鮮明だったんだよな、ケイマ大師。
(ケイマ大師) 
はい。はっきりしていて、思考している感じですが。
(尊師)だから超覚醒なんだ。
                        (マハーヤーナNO11 P70)

水槽の酸素消費の原因としては、今のところ二つの説が挙げられている。一つはサマディ前にストーブで内部を乾かしたため、酸欠状態になった木材が酸素を消費したこと。もう一つは水槽内部になんらかの生物、例えば菌類が繁殖し、酸素を消費していることである。

(M博士)
さっき尊師が、水槽自体が生きているような気がするとおっしゃったのがすごく気になりますね。
(尊師)
水槽そのものが、何かの生命体になっちゃっているのかもしれないね。
(M博士)
まあ、例えば菌類とかいろいろなものがいたとして、その集合体ということかもしれないですがね。私はよくわかりませんが。
(編集部)
水槽に意識があるというのは非常に不思議なんですがね。
(尊師)
いや、それは君達が知らない世界がたくさんあるんだよ。
                        (マハーヤーナNO11 P82抜粋) 

(編集部)
ご自身の酸素消費量の良いデータが出ないとき、尊師はどのように考えていらっしゃいましたか?
(尊師)
とにかくこの水槽に入ることはシヴァ神の意思なんだと。意思というのは愛なんだと考えていたね。その理由というのは、私はあまりにも忙しいから、ここで四日半の、誰の邪魔もされない瞑想をさせてくれてるんだと。そう一生懸命思い込もうとしていたね。だから、今回はほかのこともちょっとやったよね。中ではね。
(編集部)
例えば?
(尊師)
ジュニアーナ・ヨーガをやったりとか、あるいはコーザル・ヨーガをやったりとか、アストラル・ヨーガをやったりとか、ちょっとマントラを唱えてみたりとか。とにかく何でもいいからやってみようと思ったんだよ。その理由は、何をやっても数値がどんどん下がってくるじゃない。ツァンダリーやって呼吸が止まった、これはOKだと思って、「M君、どう?」と聞くと「はい、0,2パーセントの減です。」って言われるじゃない。いかなるテクニックを使ってもダメなんだよ。何だろうこりゃあ、と思いながらねえ。・・・以下略
                        (マハーヤーナNO11 P82~P83)
(編集部)
ケイマ大師どうですか 、サマディが終った後の感想は。
(ケイマ大師) 
自分のことから言うと、初めて三昧というものを体験できて、まず自分の想像していたものと全く違っていたので、体験してみないとわからないものだなあと実感しました。あと、これから大乗のプロセスに入っていくということなんですけれど、ものすごく険しい道程だなと日増しにそれを実感していますね。それはまあ、尊師に付いていくしかないですから。
(尊師)
いや、違うよ。今からは君に人が付いていくんだよ。
(ケイマ大師)
とてもまだそんな段階ではないですから。
(尊師)
そういうふうに謙虚な言葉を吐いちゃいけないと言ってるだろ。つまり大乗というのは傲慢のプロセスだから。端から見たら傲慢と言われるくらいがちょうどいい。
(マハーヤーナNO11 P85~P86)

(編集部)
そうすると以前、尊師はあと「水中サマディ」、それから「テレポーテーション」、「空中浮揚」などをおやりになるとおっしゃっていましたが。
(尊師)
それはもう全然別のことだからやるよ。でも、「水中サマディ」というのは今後は見世物にするのはやめようと。マスコミを呼ぶのもやめようと。例えば、信徒さんの皆さんの前でちょっと見せてあげる。だから、道場ができるよね。そこに大きなプールがあって、パット入っていって、そのまま、一時間なり、二時間なり、潜ったまま出てこないと。そういう感じのことを考えているね。あるいは、水の上を歩くとかね。
 その理由というのは外的アピールそのものが、オウムのレベルが高過ぎるから意味をなさないかもしれないということだ。
                        (マハーヤーナNO11 P86~P87) 
 

>それはどういうことかというと、釈迦牟尼の言う三昧と今私が言っている三昧とは違うと、一言で言うならば。

釈迦牟尼の言っているサマディと違ったらまずいんじゃないのかな?

>要するにラージャ・ヨーガは一番目の精神集中(ダラーナ)の三昧は入れると、意志のヨーガだから。それからクンダリニー。ヨーガは瞑想(ディアーナ)だね。アストラルへ飛ぶという。で、ジュニアーナ・ヨーガは超覚醒(サマディ)というプロセスで当てはまるよね、

シヴァの喜びさん済みませんが、この件に関して解説お願いします。これで良いですか?

>(ケイマ大師) 
はい。はっきりしていて、思考している感じですが。
(尊師)だから超覚醒なんだ。

ニルヴィカルパ・サマディでは思考がストップしているのではないでしょうか?

>水槽に意識があるというのは非常に不思議なんですがね。
(尊師)
いや、それは君達が知らない世界がたくさんあるんだよ。

いかに尊師でも、あまりにも苦しい言い訳のような気がする・・。(笑)

>とにかく何でもいいからやってみようと思ったんだよ。その理由は、何をやっても数値がどんどん下がってくるじゃない。ツァンダリーやって呼吸が止まった、これはOKだと思って、「M君、どう?」と聞くと「はい、0,2パーセントの減です。」って言われるじゃない。いかなるテクニックを使ってもダメなんだよ。何だろうこりゃあ、思いながらねえ。・・・以下略

結局何をやってもサマディに入れなかったということではないのだろうか・・?

>(尊師)
いや、違うよ。今からは君に人が付いていくんだよ。
(ケイマ大師)
とてもまだそんな段階ではないですから。
(尊師)
そういうふうに謙虚な言葉を吐いちゃいけないと言ってるだろ。つまり大乗というのは傲慢のプロセスだから。端から見たら傲慢と言われるくらいがちょうどいい。

弟子に謙虚な姿勢を求めるのが普通なのだが、このように弟子に傲慢さを求めたグルもめずらしいのかもしれない。これを読むと、教団全体が傲慢になっていったのもうなずける。

>それはもう全然別のことだからやるよ。でも、「水中サマディ」というのは今後は見世物にするのはやめようと。マスコミを呼ぶのもやめようと。

マスコミの前で、パイロット・ババに水中サマディをやってもらえなくて、恥かいたからですかね。

>例えば、信徒さんの皆さんの前でちょっと見せてあげる。だから、道場ができるよね。そこに大きなプールがあって、パット入っていって、そのまま、一時間なり、二時間なり、潜ったまま出てこないと。そういう感じのことを考えているね。あるいは、水の上を歩くとかね。

う~ん、一度も見せてもらえずに終ってしまったなあ。
当時麻原さんは、夢のようなことを考えていたようだ。入信して間もなかったから、この辺の記事を読んでも何のことを言っているのか、さっぱり分からなかったけど、突っ込みどころ満載の記事だったんだ・・。

96 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (Unknown)
2007-01-19 05:03:53
>>要するにラージャ・ヨーガは一番目の精神集中(ダラーナ)の三昧は入れると、意志のヨーガだから。それからクンダリニー。ヨーガは瞑想(ディアーナ)だね。アストラルへ飛ぶという。で、ジュニアーナ・ヨーガは超覚醒(サマディ)というプロセスで当てはまるよね、

>シヴァの喜びさん済みませんが、この件に関して解説お願いします。これで良いですか?

この部分でしょうか?

この部分なら麻原の改竄、というか麻原式のサマディ解説ですね。
本来禅定の道は、
制感>精神集中(凝念・ダラーナ)>静慮(ディアーナ)>三昧(サマディ)となります。
ある程度の強度以上の「凝念」がある程度以上持続した果てに、「静慮」(ここからが瞑想)が起こり(ここまでは訓練次第である程度誰でも起こせます)、この「静慮」が極まって「三昧」が起こります。
なので「凝念」のサマディとか「静慮」のサマディとかはありません。
(別の形での3つのサマディはありますが、ここで説明すると誤解や教団関係者の悪用があるので書きません)
ディアーナがアストラルへ飛ぶこととするのも麻原が本物のディアーナを経験していないことの証明です。

こんな細かい部分に麻原の改竄がなされていているのです。






>>(ケイマ大師) 
はい。はっきりしていて、思考している感じですが。
(尊師)だから超覚醒なんだ。

ニルヴィカルパ・サマディでは思考がストップしているのではないでしょうか?


この部分なら、
明らかにおかしいです。
ニルヴィカルパとは、サンスクリットで「区別無き」という意味です。つまり、瞑想が深くなり、「イメージ」や「様々な想念」「思考」が消滅してしまい、識別する心が消えた「無想(ノーマインド)」のサマディを意味します。
なので、超覚醒とはいっても外から見ると完全な停止状態です。
肉体の次元から完全に意識が消え去っているので動かせるはずもなく、また思考の次元からも消え去っているので思考の身体も動きません。
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Unknown (シヴァの喜び)
2007-01-19 05:04:40
あ、上のコメントは俺です。
すいません。
返信する
Unknown (ラトナ部)
2007-01-19 10:14:37
>瞑想が深くなり、「イメージ」や「様々な想念」「思考」が消滅してしまい、識別する心が消えた「無想(ノーマインド)」のサマディを意味します。

上記のような状態でも、瞑想するものはサマディーに入ったと意識できるのですか?識別が消えるんですよね?ということは、記憶にものこらないということですか?

サマディーに入ったという認識や、サマディーがどういうものであるかとことを語ることは不可能ということですか?



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ラトナ部さん (シヴァの喜び)
2007-01-19 11:16:02
>上記のような状態でも、瞑想するものはサマディーに入ったと意識できるのですか?識別が消えるんですよね?ということは、記憶にものこらないということですか?

はじめてサマディに入る時には認識できません。
識別が消えるので記憶も残りません。

が、何度も何度もサマディに入っているうちに記憶できるようになっていきます。

その辺の詳細はパラマハンサ・ヨガナンダが著作の中で語っています。



>サマディーに入ったという認識や、サマディーがどういうものであるかとことを語ることは不可能ということですか?

正確には「サマディが起こった」です。
サマディの内容自体は言葉を越えてしまっているので語ることはできません。
が、何度も何度もニルヴィカルパ・サマディに没入していくと今の自分の状態を認識できるようになりますのでその雫のようなものは語れるようになります。
その辺りはラーマ・クリシュナが語っています。

なぜ認識できるようになるかは、ここで詳しくは述べません。
オウムの方に悪用されたくないので。
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少しは関連がありそうですが (yasu)
2007-01-19 11:53:35
印仏板のatomさんが「心は無限ではないか?」と言う質問者に答えて曰く、
「心は有限です」

この問答を聞いて、
わたしは「カルマは有限」という開祖の説法を思い出しました。
心とカルマはやはり有限でしょうな。二元の世界のものですから。

ATA説法集にVV正悟師が「真我は仏性と同じだ」と書いてありましたが、これも関連がありそうです。
その場所は説法中に個人名が出てくるので言いません。

もちろん、わたしは涅槃がどういう状態か体験したことはないんですけど、
おそらく、識別を無くさないと到達しえない境地だと思いますね。

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Unknown (ラトナ部)
2007-01-19 12:05:56
また、質問させてください。

サマディーと仏教でいう空観は、一致しますか?
それとも、サマディーに段階があり、その中のどれかが一致するということですか?(もし、一致する段階があるのであれば...)

オウムでいわれている、"空しょう大楽"→絶対自由、絶対幸福、絶対歓喜は、シヴァの喜びさんがイメージするサマディーとは違うものですか?

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yasu (ラトナ部)
2007-01-19 12:10:27
>おそらく、識別を無くさないと到達しえない境地だと思いますね。

私が少し疑問に思うのは、
識別が無い=記憶が残らない
という理解なんですが。

サマディーに入ったことが認識できるようになるイコール、認識、識別があるということではないのかな?そういう疑問がどうしても生じてしまいます。
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ラトナ部さん (yasu)
2007-01-19 12:45:13
>サマディーに入ったことが認識できるようになるイコール、
>認識、識別があるということではないのかな?
>そういう疑問がどうしても生じてしまいます。


逆だと思います。

わたしの今の状態は、
五蘊の中の、色(形状容姿)、受(感覚)、想(表象)、行(意志)、識(識別)のうち、
色はとらわれていませんが、受にとらわれているので、想には到達していない状態です。
夢はよく見る方ですがすぐ忘れてしまうので、やはり受から脱却せねばと思っております。

これを帰納法的に考えて、
識を無くせば、涅槃の状態が認識できると考えました。
でも、口で言うのは簡単です。
実際にやってみると難しいでしょうな。


それにしても、あの方(=atomさん)は凄いと再認識しました。
でも、開祖についての発言は「余計なお世話」と思いますけど。
元・現役信者、個々人で考えるべきことでつ。

返信する
少しは関連がありそうですが (yasu) さん (シヴァの喜び)
2007-01-19 12:54:26
無限だと思います。
なぜなら我々のカルマは無始の過去から今の至るまで続いてあり、放っておけば終わりの無い未来まで果てしなく続いていきます。
これは不生不滅ということです。
また、心が有限ならばそのような無限の生の記憶を持ちうることが出来ません。
(過去世の記憶の否定や宿命通の否定に繋がっていきます)
心がどこから始まって、どこで終わるかを特定できないかぎりそれは無限です。
さらに、小宇宙と大宇宙は同じものです。
なので無限です。
以上が心は無限という理由です。

マインドは実際には完全に消えてなくなりはしません。
瞑想状態から出てくるとマインドは再びその機能を取り戻します。
が、聖者はすでにサマディによってマインドの悪しき傾向(煩悩的傾向)が消されているので解脱前と同じ状態には戻りません。
言い換えると聖なるマインドになっている。
そもそもマインドの機能無くしてはこの世での活動は無理なので完全にこれを脱ぎ去った時が涅槃(ニルヴァーナ)です。
完全なノーマインドは瞑想状態の時に現出します。
返信する
シヴァの喜びさん (白龍)
2007-01-19 12:54:38
解説ありがとうございました。
分かりやすかったです。
やはり、いろいろ自分で作り上げてしまっていたのですね・・。
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