白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

法則の絶対化

2007-06-15 01:21:14 | Weblog
 私みたいな鈍感な者には、カルマを受けるという状態が良く分からないのですが、敏感な人には、たいそう辛いことのようです。それにしても、オウムでは、カルマを「受ける」ということに敏感になり過ぎて、相手に対する嫌悪にまでなってしまっていた感があります。

 それは、大乗の思想とは、大層かけ離れた感情であるはずなのに、あたかも、カルマを受けて具合が悪くなるということが、ステージの高さの証みたいに思われてしまっている節もありました。現在、教団ニートと言われている人達が存在しているのも、外で働くとカルマを受けて、具合が悪くなるから働けませんという理由を、免罪符代わりに使っていることによるものです。

 「カルマを受ける」という言葉を、極限に追求していくと、どうなるかという事例が、先日の2チャンネルの書き込みに見られましたので、こちらにサンプルとして載せておきます。

321 :神も仏も名無しさん:2007/06/13(水) 01:52:51 ID:9mGCszGQ

ポテトチップは暗性食
電子レンジでチンするとプラーナが壊れる
冷凍食品はいけません、肉魚はカルマの塊
セックスするとカルマ交換になる、相手のカルマ受ける!恐ろしや!
支部サマナに言われましたよ

322 :神も仏も名無しさん:2007/06/13(水) 02:04:23 ID:9mGCszGQ

風呂・温泉入るとカルマ受ける(前に人が入ってる)
いけませんよ
人(凡夫、外道)に触っちゃいけません
カルマ受けるって鈍感なわちきにはわかりませんw
普通の生活できないじゃないかよw

323 :神も仏も名無しさん:2007/06/13(水) 02:39:45 ID:9mGCszGQ

そんな無理言っていたサマナの上のお偉いさんが
ステージ下の女と邪淫ですかい?
信徒の業財使って回春ですかい?
平サマナでさえ、信徒の身体に触れるのを忌み嫌っていたのですよ?
スポンサーの信徒さえ汚らわしいと言ってた輩の上のものが
汚らわしいとされる御凡夫さんの最たる者と業財使って交接するんですかい?

324 :神も仏も名無しさん:2007/06/13(水) 02:48:12 ID:9mGCszGQ

信徒対応するとカルマ受けて体調悪くなると言っていた支部サマナ
漏れたちとそうかわらないだろ、ステージつてやつさw
信徒>平サマナ>>師>>セイゴシ、越えられないヒエラルキー
そのセイゴシが回春ですかい?
師が下のものとカップリングですかい?

339 :神も仏も名無しさん:2007/06/13(水) 19:42:17 ID:qxTyFFj/

カルマ受けるとかいうなら、農家のおじさん、おばさんが作った米も食うなよな。
ぜんぶ繋がってるんだから、その繋がりを全部断ち切れば縁もなくなるよ。
どうなるかわかるよな。

340 :神も仏も名無しさん:2007/06/13(水) 19:44:07 ID:qxTyFFj/

空気も吸うなよな。
誰かかが吸って吐いた空気なんだから。

人間だけじゃない。
動物や昆虫、菌、植物も含まれる。

空気も吸うな。
水も飲むな。
どんな生き物にも近づくな。

つまり死ねってことだ。
あほか?


>ポテトチップは暗性食

菜食やお供物以外は、ほとんどが暗性食じゃなかったでしたっけか?

>電子レンジでチンするとプラーナが壊れる

これも、よく言われていました。おかげで、レンジをほとんど使わなくなりました。

>冷凍食品はいけません、

これは、身体を冷やす働きがあるからという理由だったですかね?
プラーナが弱いとも言っていたかな・・。

>肉魚はカルマの塊

動物のカルマを受けますということでした。

>セックスするとカルマ交換になる、相手のカルマ受ける!

カルマ交換が起きるだけでなく、アストラルも共有するといっていました。

>風呂・温泉入るとカルマ受ける(前に人が入ってる)
>いけませんよ
>人(凡夫、外道)に触っちゃいけません

私も、おかげで温泉に行くことはなくなり、
風呂も、湯船には浸からず、シャワーを浴びるだけになってしまいました。
人の身体に触れるのは、極力避けようかと思いましたが、
職業柄無理だったので、これはあきらめました。

当然ここまでいくと、

>カルマ受けるとかいうなら、農家のおじさん、おばさんが作った米も食うなよな。

という話になってきます。

>空気も吸うなよな。
>誰かかが吸って吐いた空気なんだから。

>人間だけじゃない。
>動物や昆虫、菌、植物も含まれる。

>空気も吸うな。
>水も飲むな。
>どんな生き物にも近づくな。

>つまり死ねってことだ。

ということになります。

 これはさすがに、極論だと思いますが、ここまで言いたくなる気持ちも分からないではないです。

 不殺生戒についても同様のことが言えます。人は殺さない(オウムでは殺してしまいましたが)というのは当たり前としても、その他の生き物に関して、どこまでその戒を及ぼせばよいのかという問題が出てきます。

 簡単に、「生き物を殺さないようにしましょう。」とよく言いますが、歩く度に足の裏にいる数百万の微生物を殺生している現実はどうなるのでしょうか?空気中にいるウイルスも、体内に入ると殺されているのです。それに関しては、どのように考えればよいのだろうか?

 これも、極端に推し進めれば、では人間は生きていないほうが良いのだという話になってしまう。人間の存在自体が危うくなるのです。この辺のバランスをどうとっていくのかが、重要なのでしょうが、かつての教団でも、現在のアーレフでも、新団体でも明らかにしていません。

 あまり、現実に迎合して、方便と称し場当たり的な対処ばかりしていたならば、戒などあって無きがごときものとなって、意味をなさなくなってしまうし、戒を絶対のものと見なしてしまうと、人間の存在自体を悪と見てしまうようになりかねない。

 上祐さんのコミュのコメントに、今日こんなタイムリーなコメントがあったので、抜粋させていただきます。

 『こうして、あらゆる教えは、条件によっては、善にも悪にもなる二面性があるから、個々具体的なケースに応じて、その教えを適用するべきかをしっかりと考えなければならない。これを仏教では、択法覚支(=法則の選択の修行)という。

 より根本的に言えば、仏教が説く悟りの境地、空の境地とは、経典上も、自己の体験上も、言葉を越えた境地であり、人が、言葉等によって思考し、観念的な世界観を形成することが、煩悩の根本原因となっている、と説いてる。これが、仏教奥儀の縁起の法である(ダライラマ法王等の解釈)。

 その言葉の中には、仏教の法則自体も含まれ、それは、毒をもって毒を制する、という目的がある。例えば、「他人が悪い、憎い」という現代人的な思考・感情・観念に対して、「自分の業である」という法則という観念を対抗させて、ある意味で、両者を相殺し、煩悩的な思考をゆるめて、寂静の境地に至るのが、目的であって、どちらかの観念を絶対視するのが目的ではない。

 よって、法則の扱いとして、初歩的な戒律からカルマの法則まで、法則を絶対視して、それに振り回されないように、時々の条件に応じて、その人の修行が進むように、臨機応変、融通無碍に扱うことである。そうしなければ、観念的な思考から脱却できず、悟りは到底及ばない。』

なるほど、「毒をもって毒を制す」ことで、観念を対抗させて、心の波を静めるために役立たせるということか・・。上祐さんの言わんとしていることは、我々の強い観念によって生じた偏りを、中道に導くために、そのような法則や戒を適時活用するというということが、大事なのだと言っているのだろうと思います。

 (ちょっと余計な突っ込みを入れますが、これで完全な寂静の境地に至れるかどうかは疑問です。なぜなら、マインドでマインドを押さえ込もうとしても、それでは、サマディに入ることが出来ないのではないかと思われるからです。心の波を静めた後で、もう一歩、別な階段を上がらなくてはならないのではないかと思います。この辺は、シヴァの喜びだった者さんに、解説をしていただければありがたいです。)

 上祐さんの見解は、よく理解できますが、実際現実世界で適応させるのが、非常に難しいのではないかと思います。農業や漁業を生業にしている方に、殺生をしてはいけませんと言ったほうが良いのか?言わずに何か別な法則を説いたほうが良いのか?未だに、私は、どうしたらよいのか、良く分からないでいます。みなさんは、どのように考えますか?

38 コメント

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Unknown (シヴァの喜びだった者)
2007-06-15 03:50:58
>これで完全な寂静の境地に至れるかどうかは疑問です。なぜなら、マインドでマインドを押さえ込もうとしても、それでは、サマディに入ることが出来ないのではないかと思われるからです。心の波を静めた後で、もう一歩、別な階段を上がらなくてはならないのではないかと思います。


おっと。
なんかタイムリーな感じで来てしまいましたw

毒を以って毒を制する。
相殺されるならば良いかもしれませんが、もし、どちらかの毒が残った場合は?
あるいは両方の毒が少量残ってしまった場合は?
そして、ここが麻原も上祐さんもよく分かっていないところですが、心はある一定の方向にベクトルを定めるとその方向にエネルギーを集中させる性質を持ちます。つまり、ある一つの観念を使用している場合はその他の観念は見えなくなる、「心の視野狭窄の性質」を持ちます(これがあるのでマインドでマインドは超えられない。一つの観念と別の観念は同時には存在させられないという性質です)
ですから、「他人が悪い、憎い」という思考・感情・観念に対して、「自分の業である」という法則という観念を対抗させてある意味で、両者を相殺し・・・というのは成立しえません。
それはマインドが別のベクトル・波を形成したに過ぎない。そうやって次から次に形が変わるから相殺は成り立たない。なにしろ「相殺させよう」というマインドの形に変化して相殺のベクトルエネルギーから逃げるから。相殺の形にならないから。

ただし、だからといって別の観念を立てるのが良くないとは言ってはいません。
自分を幸せにするような観念は打ち立てていくべきです。
ただ、この方法ではマインドは残り続けるのでサマディ・解脱は無いってことです。
サマディはノーマインドの時にやってくるから。

なので上祐氏の言っている方法ではサマディは訪れません。
「初歩的な戒律からカルマの法則まで、法則を絶対視して、それに振り回されないように、時々の条件に応じて、その人の修行が進むように、臨機応変、融通無碍に扱うことである。そうしなければ、観念的な思考から脱却できず、悟りは到底及ばない。」という観念(マインド)が新たに作り出されるだけに過ぎません。

マインドを支配しているようでマインドに支配されている、相殺のお話をされる方はサティに乏しいために自分のマインドの状態が分からないからこのことに気がつかない。
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シヴァの喜びだった者さん (白龍)
2007-06-15 10:45:33
タイムリーに登場していただいたようで・・w
さっそくの書き込みありがとうございました。

>心はある一定の方向にベクトルを定めるとその方向にエネルギーを集中させる性質を持ちます。つまり、ある一つの観念を使用している場合はその他の観念は見えなくなる、「心の視野狭窄の性質」を持ちます(これがあるのでマインドでマインドは超えられない。一つの観念と別の観念は同時には存在させられないという性質です)

なるほど、同時に二つの観念は存在しないということですね。
結果、片方の観念はどうしても残ってしまうと。

>ですから、「他人が悪い、憎い」という思考・感情・観念に対して、「自分の業である」という法則という観念を対抗させてある意味で、両者を相殺し・・・というのは成立しえません。
>それはマインドが別のベクトル・波を形成したに過ぎない。そうやって次から次に形が変わるから相殺は成り立たない。なにしろ「相殺させよう」というマインドの形に変化して相殺のベクトルエネルギーから逃げるから。相殺の形にならないから。

これが相殺の形になりえない理由か、理解できました。

>ただし、だからといって別の観念を立てるのが良くないとは言ってはいません。
自分を幸せにするような観念は打ち立てていくべきです。

問題は、ここで打ち立てる観念ですが、
自分が幸福になると思うことなら、
なんでも良いということなのでしょうか?
漁師さんが、たくさん魚を取ることは喜びであるみたいな観念はどうなのでしょう?
やはり、戒律にそって・・みたいな感じなのでしょうか?

>ただ、この方法ではマインドは残り続けるのでサマディ・解脱は無いってことです。
サマディはノーマインドの時にやってくるから。

なるほど。

>なので上祐氏の言っている方法ではサマディは訪れません。
「初歩的な戒律からカルマの法則まで、法則を絶対視して、それに振り回されないように、時々の条件に応じて、その人の修行が進むように、臨機応変、融通無碍に扱うことである。そうしなければ、観念的な思考から脱却できず、悟りは到底及ばない。」という観念(マインド)が新たに作り出されるだけに過ぎません。

そういうことですか。

>マインドを支配しているようでマインドに支配されている、相殺のお話をされる方はサティに乏しいために自分のマインドの状態が分からないからこのことに気がつかない。

大変丁寧な解説で分かりやすかったです。
ついでに、シヴァの喜びだった者さんが言っている、
サティとは何かということに関して、
以前2チャンネルで解説してくれていたので、貼り付けておきます。

『さて、サティですが、
これは意識的であること、あるいは注意深く(アラートネス)とでも申しましょうか。

自分の行為や意識の動き、マインドの動きを、動きそのものに巻き込まれたままでは
なく、意識的に見つめていきながら、常にそれからセパレートした状態を保っておくことを
俺はサティと言っています。
テーラヴァーダでもサティという言葉がありますが、若干異なるので俺の言うサティは
テーラヴァーダの言うサティとは違うものとして認識していてください。
89さんの言うサティはどちらかというとテーラヴァーダのサティと同じものだと思います。

サティは、瞑想を真の瞑想に導く、たんに石が座ってるだけのようなマインドに流されている
だけの瞑想とを分ける鍵になる意識の使い方です。
これが完全であるなら、日常もまた瞑想になりうる、瞑想の基礎にして最も大事なものです。 』
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白龍さん (シヴァの喜びだった者)
2007-06-15 13:42:02
>問題は、ここで打ち立てる観念ですが、
自分が幸福になると思うことなら、
なんでも良いということなのでしょうか?
漁師さんが、たくさん魚を取ることは喜びであるみたいな観念はどうなのでしょう?
やはり、戒律にそって・・みたいな感じなのでしょうか?


ここはポイントです。
何を自分の幸せとするか?
これを考えなければなりません。
それは内側にあるのか?外側にあるのか?
これも考えないといけません。

俺のお勧めのポイントとしては「できるだけエゴを含まないようにする。他人の幸福と自分の幸福とのバランスを考える」です。

それと「不幸は幸福の隠し味」です。
不幸無くして幸福は感じられません。
不幸あってこその幸福です。
とどのつまり「不幸」は「幸福」の別の形態(逆もまた真)なので両者はバランスが肝心です(また、どう認識するかが「幸」「不幸」を自分の人生に投影させる鍵です。マインドには「心の視野狭窄の性質」と「認識・集中しているものにエネルギーを集め注ぐ性質」があるのであまりにも自分のことを「不幸」だと認識していると「不幸」になります。自分で自分自身を「不幸」にしていきます。これは逆もまた真です)


ただし、サマディや解脱・悟りという切り口の場合は、
「不幸」は「幸福」の別の形態。
「幸福」は「不幸」の別の形態。
これをきちんと認識し、どの形態が来ている時にもマインドを動かさないようにして、サマディに入っていけるようします。
結局、ノーマインドの状態こそは「全体を全体として捉える方法」だと知っているから。
「幸福」を捕らえることは「幸不幸」という運命の波(カルマの波。あるいは自然の流れ)の一部しか見ていないことになる。これは逆も同じ。
「幸不幸」に巻き込まれるのではなく、一歩退いて全体を眺めて「全体を全体として捉える」時こそ、「幸不幸」は2つの「幸」「不幸」という状態からワンネスの「幸不幸」という「波」になります。そしてそれを超えられます(オウムの場合、この「波」つまり「無常」の否定的側面にのみ焦点を当てていたために全体を全体として捉える、ということができていなかった。そのために彼らの生は空しい無常なものになってしまった。無常の全体を捉え、肯定的側面も使いこなせていたら良い方向にも変化していったかも知れません。かようにオウムの教義は視野が狭い、抜け落ちの激しい、不完全極まりないものです)
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シヴァの喜びだった者さん (白龍)
2007-06-15 23:03:42
シヴァの喜びだった者さん、回答ありがとうございます。
後半部分のワンネスの捉え方は、よく分かったのですが、
前半部分の「幸せ」の捉え方が、
分かったような分からないような感じがしますので、
もう少し考えてから、また質問させていただきます。
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お釈迦様 (キャンディ)
2007-06-16 01:32:58
もう図書館に返しちゃったけど、この間読んでいた仏教聖典なる古い本には、いろんな経典が収められていたんだけど

オシャカ様が成道される前の話
ある二人の聖者の弟子になったんだと
一人の聖者は
(何も無いと、観じる瞑想、一切の所有が無いとみる)、記憶では無所有処定、を行じていた
釈迦は弟子になり、それをすぐに、体得するが
それは完全でないと思い、去ると

次の聖者は、(思いが有るでも無いでもない状態)
を瞑想しており、釈迦はすぐその境地を体得するが
ここも去る

釈迦のいうには、前者は、何もないと感じる境地の世界に
生まれ変わる修行であり
後者は、思いがあるでもないでもない世界に生まれる瞑想に過ぎんと、、

して、一人になって最後に入った境地が、滅受想定。
これは意識も感覚も無い境地だそうで。

だから、漏れらのような凡夫にはちと難しい話ですけど
経典によれば
意識も感覚も無いのが、一番高い境地だそうですから
それが、ハッピーなのでしょうね
何が幸せ、何が不幸せと、認識したり考えたりする
必要が、そこではないんじゃないでしょうか


以下コピペです 漏れには理解がありませんので、ただ
貼るのみですが

ちなみに、これらのうち四禅定(初禅~第四禅)は、色界における四つの段階的境地で、欲界の迷いを超えて色界に生ずる四段階の瞑想をいいます。それぞれの禅定は、「初禅=覚・観・喜・楽・一心の五支よりなる」「第二禅=内浄・喜・楽・一心の四支よりなる」「第三禅=捨・念・慧・楽・一心の五支よりなる」「第四禅=不苦不楽・捨・念・一心の四支よりなる」。また以上の境地には諸天・神々が存するため『四禅天』といいます。

 ここからさらに進むと、無色界における四つの段階的境地『四無色定』の境地(空無辺処定~非想非非想処定)になり、ここでは禅定修行において一切の物質的な繋縛を受けないようになった境地を四段階に分けています。ここからさらに滅想受定(滅受想定)に進むのですが、以上の心的状態を後代のアビダルマ仏教教学では「九次第定・九次定・九次第思惟正定」と名付け、これらの九つの境涯を一つずつ進んでいくことを修行の目的としました。
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キャンディさん (シヴァの喜びだった者)
2007-06-16 02:29:33
>経典によれば
意識も感覚も無いのが、一番高い境地だそうですから
それが、ハッピーなのでしょうね
何が幸せ、何が不幸せと、認識したり考えたりする
必要が、そこではないんじゃないでしょうか


必要が無いというよりそこから切り離している、それを感じるマインドから自分自身を切り離しているということです^^
ただ、判断せずに見つめている。


>一人になって最後に入った境地が、滅受想定。
これは意識も感覚も無い境地だそうで。


正確に言うなら(自我)意識もマインドの感受機能も識別機能も無い境地。
全てが一つに帰した状態だからこれらは存在できなくなる。
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自分には体験が無いから (ふんどし)
2007-06-16 23:30:29
受け売りですが、このような問題に関して、今読んで知るアマ(マーター・アムリターナンダマイー)の著書には非常にわかりやすい比喩をまじえた記述が沢山載っています。ほんの一例を引用↓

「フロムアマズハート」
マインドがより鋭敏になり、広大かつ強力になると、知的・情緒的レベルで革新的な変容が起こります。マインドが鋭敏で広大になれば、マインドはしだいに消えていき、やがてはノーマインドになります。それが革新的な変容です。そうなると神や世界はなくなってしまうのでしょうか。いいえ、そうではなく、変容をとげた意識が世界を見るようになるのです。多くのものの中に唯一のものを見るようになります。


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Unknown (シヴァの喜びだった者)
2007-06-16 23:38:39
>マインドが鋭敏で広大になれば、マインドはしだいに消えていき、やがてはノーマインドになります。

>多くのものの中に唯一のものを見るようになります。

さすがですね。
この方がより正しい答えですね^^

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シヴァの喜びだった者さん (白龍)
2007-06-17 01:57:44
昨日から、この幸福観について、ずい分考えています。
まだ、ちょっと自分の中で整理がつかないので、
質問させていただきます。

>ここはポイントです。
>何を自分の幸せとするか?
>これを考えなければなりません。
>それは内側にあるのか?外側にあるのか?
>これも考えないといけません。

幸せを自己の内側に見る人は、悟り・解脱へと向かうでしょうが、
そうではなくて、外側に幸せを見出そうとする人の場合、
(ほとんどの人はそうだと思いますが)

>「できるだけエゴを含まないようにする。他人の幸福と自分の幸福とのバランスを考える」

これがポイントだというのですよね。

やはり、このバランスというところに、
帰結するほかないのだろうなと私も思います。

たしかに、自と他との関係の中で我々が生きている以上、
他の利益も考えながら、自己の幸福観を形成したほうが、
より幸福感を味わうことが出来るのだろうと思います。
それは、おそらく私達の潜在意識の中に、
他を愛することに、喜びを感じるという要素が、
組み込まれていることによるものなのかもしれません。

よって、人によっては、自己のエゴを押さえて、
他の利益を考えながら、自己の幸福観を作り上げ、
大きな幸福を感じることの出来る方もいるでしょう。

しかし、基本的にエゴの塊であるのが、我々であることも事実です。
自己の利益のみを追求することが、
幸福であるという観念を作り上げる人もいます。

後者のように、自己のエゴを優先し、
バランスの崩れた幸福観を構築している人を見たとき、
相手の幸福観を否定すべきなのでしょうか?
それとも、そのような見解もあると、
認めてあげるべきなのでしょうか?
あるいは、認めないまでも、
淡々と見ることに留めたほうがよいのでしょうか?

このような場合、オウム的な大乗思想だと、
三悪趣に至る魂を救うために、
相手の間違った観念を正す方向に向かったと思います。
それが、慈愛だと考えたわけですが、
シヴァの喜びだった者さんは、
この点をどのように捉えていらっしゃいますか?
返信する
キャンディさん (白龍)
2007-06-17 02:02:45
経典読みがマイブームなだけあって、
よくいろいろ勉強していますね。スバラシイ!
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