松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき  会津八一

2019-04-01 | インポート

              〈千田完治撮影〉

4月8日はお釈迦さまの誕生日です。降誕会(降誕会)、灌仏会(かんぶつえ)、仏生会(ぶっしょうえ)とも呼ばれます

 呼び方もいろいろだから、その年月日にも諸説あるようです。が、いちばんなじみのある、4月8日は「花まつり」。としておきます。 一昨年も書きましたが、釈尊誕生に関しては、良い言葉というのが見つからない。私が不勉強だから適当な言葉が見つからないのは言うまでもありませんが。 それにしても、なぜ見つからないのか。「天上天下(てんじょうてんげ)、唯我独尊(ゆいがどくそん)」というあの言葉が邪魔をしているんですよ。 釈尊はお生まれになると、東西南北にそれぞれ七歩ずつ歩んで「この世界で、私だけが最も尊い存在である。これから先はもはや輪廻をくり返すことはない(天上天下、唯だ我独り尊し、茲より往はも生分已に尽く)」と宣言されたという。 いくら聡明なお釈迦さまでも、生まれてすぐに歩きはしないし、言葉を発っしたりはしない。創作です。仏教が中国へ伝わった以後の漢訳経典での創作らしい。そのうえ、現代では「唯我独尊」というのが、身勝手なうぬぼれた態度を連想させるから始末がわるい。しかし、興膳宏著『仏教漢語50話』(岩波書店)に次のような一節をみつけました。

 

 奈良法隆寺夢殿の救世観音をうたった会津八一の歌をご存じだろうか。

  あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき   この さびしさ を きみ は ほほゑむ

 私の愛唱する歌の一つだが、この「あめつちにわれひとりゐて」の詠いだしは、「天上天下、唯我独尊」の成句が意識の片隅にあっての着想ではなかったか、とふと思った。もちろん、そんなことは八一自身が注釈を施した『自註鹿鳴集』(岩波文庫)をのぞいても何も記されていないから、私の勝手な思いつきかも知れないが、あの神秘の微笑みを描く無二の表現には違いあるまい。  また、「天上天下、唯だ我独り尊し」とする自己認識は、孤独にたえる強い心の人にして、はじめて持ちうるものでもある。

 

 中国古典文学が専門の、興膳教授の指摘ではじめてわかりました。「唯我独尊」は、「ひとりの覚悟」だったのてずね。そういえば、長じたシッダルタは山にこもり6年間難行苦行をするけるど、苦行は効果がないと知ると、山里へ下りてきて、村娘のスジャータに乳粥を施される。それを知った修行仲間は「シッダルタは堕落した」と非難するわけ。仲間の非難にもめげずに独り坐ってお悟りをひらく。独り坐るから、孤独です。言ってみれば、みんなが右と言っても、それに従わずひとり左へ行った。そう、知ると「唯我独尊」というのは、きわめて現代的なテーマです。だって、「孤独」を冠した書籍って今、わんさとあってちょっとしたブームです。『孤独のグルメ』なんて本もあるくらいですから。と いうわけで、少し型破りで独学の人、会津八一(1881~1956)の歌から、「唯我独尊」の深意を教わった、平成最後(このフレーズ使いたくないけれど、便利な言い回しです)の花まつりです。

 

緊急追伸
新元号「令和」は漢訳仏教経典にも頻繁にでてくる熟語です。たとえば、「大般若波羅蜜多經534卷施等品(大正新脩大藏経7巻742頁)」に「若一切法都無自性可令和合及離散者」という一節があるように、「和合(わごう)令(せし)む」という具合に使うことが多いようです 。玄奘法師訳の漢訳経典にもある熟語なのに、なぜ、日本の古典からだと言いはるのでしょうか。その気持ちわかるけれどね。 


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