映画「廃都」製作日記

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再度DCP化で完成。

2016年12月23日 11時08分01秒 | 映画製作日記

一回目DCP試写を終えて、書き出しファイルとオーサリングでの過程の微妙な変化があるのだと思う。

これは素材動画のカラーグレーティングの技術の優劣によるものだろう。

少しの欠点の現れ方が、最終フォーマットによって少しずつ違うのだろう。

それぞれの作業に自身を得ていくためには、ヤッパリ経験という物差しも必要なのでした。

原因と結果を知っていること。

やっぱり確信と安心は、知ることでしか得られない。

しかし、これは技術のことだ。

さてさて、これからのことごとには僕達が全く持ち合わせていない戦略というものが必要になるのだ。

 


DCP「日本語版」「英語版」をfilmの0号試写のように。

2016年12月11日 13時25分32秒 | 映画製作日記

DCPができあがった。

12月21日(水)15時30分から17時30分まで試写。

少し前に、会場の入口にいます。

会場は、渋谷の映画美学校試写室をお借りしました。

関係者の方は、特別な案内はしませんがご自由におこし下さい。

時間が許す限り、メール等でのお知らせもお届けできるかもしれませんが、不調法は

ご容赦を願います。

0号の扱いなので、最後の色彩と英語字幕スーパーのチェックを兼ねています。

DCPでの初めての上映です。

直したい所がなければ、これで最終完成となります。

一本の作品になって、また別の時間が始まろうとしています。

撮影現場とはまた違った出会いになることを願っています。

仕上げに向かって、これからこそ大切な人たちとも出会えたように思います。

まだ、始まりのはじまりですが、関わって頂いた全ての方々への感謝の念に絶えません。

是非見ていただきたい一本です。

それでは、試写室でお会いしましょう。

 

 


人間は、ゆっくりと壊される。

2016年10月28日 10時43分43秒 | 映画製作日記

人は、ゆっくりと壊される。

人の世の仕組みによってでもなく、制度としての政(まつりごと)によってでもなく。

人は、人によって壊される。

その人と袖すり合う者。

言葉を投げかけられる距離にある者。

最も近くで暮らしが触れあう者によって。

僕たちの逃れられない階層やそれを支える文化は、世の中にドーンと横たわってるの

ではなく、僕たちの血の中を流れているのではないか。

ヒトの血の中を流れ、ヒトの生き死にを通してのみ蠢動するものとして。

この世界の決まり事も馴れ合いごとも、全ては一人の人の血の中を流れているものとして

やっとこの世界に現れることができるのだろう。

だから、"わたし"こそが世界の全てなのだ。

だからかもしれないが、どんな変化の後も「理想」は簡単に死に絶えて行ったのではなかったか。

変化は、"わたし"を変えることができるのだろうか。

この永い人間の歴史によって方向づけられた人生のベクトルを変更するなんて可能なのだろうか。

その、ゆっくりと壊されていく時間は人生と名付けられやがては消え去り、そして

また新しいヒトが生まれ、その"わたし"を取り巻く"わたし"が"わたし"を育てていくことになる。

誰も逃れることができない果てしない循環を輪廻と呼んだのだろうか。

回転し続ける螺旋。

言葉もまた…。

映画の少年が語りかける。

「人は何度でも間違いを犯す。何度でもだよ。間違って、間違って、また間違って………もう二度と

目覚めなくなるまで。」

People make the same mistake.

Over and ver again.

Again,again,and yet again.

Until the day they die.

 

考え続け、新たな行為を生み出す。

 


時間について

2016年10月09日 08時03分18秒 | 映画製作日記

ドキュメンタリーは状況のドラマだし、ドラマは役者のドキュメンタリーだと思う。

記録されたものは、現実であれドラマであれ、書かれた「本」と演出と編集の果に姿を見せる。

事実も真実も、曖昧な闇の中にある。

こう見たという闇。

こう思うという闇。

全ては、虚構の果に辿り着く地点にあると思うのだ。

翻案されないものがあれば。

そうではないだろうか、翻案され読み替えられないものがあれば僕たちはその前で

立ち尽くすこともできるのに。

事実といい真実といい、判断は当事者以外に委ねられる。

世の中は、絶えず見知らぬ他者によって裁かれる、とりとめもない裁判所のような

ものかもしれない。

金銭欲。名誉欲。支配欲。それらが果たされない時、他者へと向かう悪意は静謐で

激しいものではないか。

外部からは見えない感情の連鎖。

自分自身すらも欺くほど、人の心の奥深くに秘められたもの。

太古から変わらない人の心の無明。

時計の針はホボ同じように進むが、夫々の時間は違う流れをもっている、と思う。

時計の速さと、夫々の肉体が持つ速さには全く別なものがあるのだ、と思う。

昨日、駅前のロータリーで久しぶりにチンドン屋を見た。

ジンタでなくジャズを演じていた。

どこか違う国の言葉を話す一団が歩道いっぱいに闊歩している。

駅前広場の隅の方で、屋台の焼き鳥屋が出店していた。

焼き鳥屋は、人が通る側に背を向けて商っている。

歩道を駆けてきた子供が、ビタッと転んで大声で泣いた。

夫々の時間が通り過ぎる。

それぞれを繋ぐものは、その光景の中にいる其々の肉体か。

人が袖すり合うことで、あたかもそこが舞台の出来事のように見えいてく。

だが、しかし……

時間を揺るがせ。

時を裂け。

時に裂け目を。

 

 


部屋は水族館

2016年10月01日 09時05分08秒 | 映画製作日記

ここに、部屋がある。

この古い平屋は、1945年以前のものだ。

雨が降れば、この部屋にも雨が降る。

壁と窓はブルーシート。

ブルーシートのすぐ向こう側には私鉄の電車が走っている。

家の住人は、少し以前に絶えていた。

両親と子息の絶えた家は、ある瞬間から時間が止まったようになっていた。

物が移動されることも空気が撹拌されることもなく塵が積もる。

全てがやがては朽ちていく塵と化していた。

もちろん縁者の方はいる。

だからこそセットの為にこの家を借りることができた。

抜けた床を土台から作り上げて張り直した。

屋根は、廊下にだけ雨が降り込むようにした。

窓と壁は、ブルーシートを新しく買い替えるだけにした。

初めて部屋に入った時、アッ「水族館」だと思った。

ブルーのシートを透かして入ってくる光が、部屋が水で満たされているように見せた。

イメージの部屋だった。

人が暮らす部屋は、何かで満たされていると思った。

それは住む人それぞれによっても違うものだろう。

この水底の部屋に暮らす映画の二人は、二人が生きる時間の速さで朽ちていくだろうと思われた。

二人で過ごす時間の中だけで。

世界は、(そう)思う者のイメージの堆積だ。

だから、その人の死とともに、その人の全ては消える。

たとえ地上にビルが立ち続け道路に車が走り続け空に飛行機が飛び続けようと、消滅するのだ。

その人の内部のビルも道路も空さえも。

その時、世界は少しだけ何かを失わないだろうか?

ある日、部屋の二人、女と男を旅に誘う力がはたらく。

その力は、突然、否応もなく現れる。

部屋は再び、水底の静寂を帯びて沈黙する。

彼らが持ち去った空気や空や、僕達が気づくことすらない失われたものの全てを……

 


足掻き

2016年09月24日 11時48分44秒 | 映画製作日記

作品のファイルを書き出している。

ずっと気になりながら、何が気になっているのかが判明しない英語字幕が一枚あった。

ファイルの書き出しをはじめて、やっとこう翻訳すればよかったと思い至る。

最後まで残ったこう伝えたいが、やっと自分のものになったのかもしれない。

日本語の世界で完結しているものが、違う国の言葉では…。

同じ映像でも、字幕がつくともう一つ別のモノになっていくのだと思う。

字幕のXMLファイルに手を入れて再編集。

これでやっと最終の手直しだと思う。

 

書かれなかった書物、という言い方がある。

届かなかった言葉、という言い方がある。

余白を読みとる、という試みがある。

一本の映画の中にすら、それでも透かし文字のように埋め込まれている。

見るとは、埋め込まれた生を再び彫琢すること。

埋め込まれた死を再び彫琢すること。

 


覚書の為のノート

2016年09月08日 15時41分20秒 | 映画製作日記

当事者は、彼と彼女を代弁する「人」によって塗り替えられる。

僕達が馴染んできた物語は、塗り絵や着せ替え人形のように見る者読む者をも自在に彩ってしまう。

その時にこぼれ落ちるのは、そこに居るその人というその人そのものである単独者としての存在性。

その「その人であることの出来事」を、本人すらも語ることはできるが伝えることは困難かもしれない。

何故なら、その人だけのものを語る時、他者に伝わる言葉を私たちは持っていないのかもしれないからなのだ。

物事が一般化されて伝わるときに、あらゆる物事と人間が透明化されていく。

記録されたあらゆるものから揮発してしまうもの。

透明な私、見えない私。

私に閉じ込められた私を、解き放つとは…。

だが、「嘗てあり、今もあり、未来にもまた有らん」なのだ。

変わり続けるもの彩るものが、変わらないものを幻惑し透明化している。

透かし文字は、火に炙られてこそ姿を表わすものなのだ。

今を手放すな。