でもどんなできごとにも限界はやってくるのだ。
恐ろしいことに、いつか何処かへと辿り着いてしまう。
ゴールデンウイーク明けには、音声の最終仕上げダビング作業に入る。
結局のところ過剰になる音の洪水をどこまで引き算して更に引けるかなのだと思う。
映像の色と質感はその後の最終仕上げ。
他者の感情をある方向へと導きたいと仕組む時ゃ静寂が不安になった時「もっと音を」という意欲が立ち上がる。
怯えるのだ、静寂に。
静寂こそ平凡な恐怖。
どっぷりと身を浸しているドラマツゥルギーの破壊をと思いながら、意識がこの方が好まれるのではないか
という誘惑に引かれる。
逃げることしか知らない三人の主人公を通奏低音として包み込んでいるのは見えない人を包む沈黙。
飲み込まれないで、それでいて最小限の共感は得られるだろうか。
古き皮袋に古き酒を盛ることですら難しいのに、新しい酒を盛ることの難しさ。
無力と非力が他でもない自分自身だからこそ苛む。
そんな日は暮らしの食事や酒や音楽や共に暮らすヒトに救われる。
ヒトを救う何気ない一瞬。
どうしようもなく分からなくなった時には全ての音を外してみる。
色彩を捨ててみる。
ホーカスを捨ててみる。
どうしようもなさから始まる言いようのない開放感。
これかもしれないなッと思う。
手の先で弄る映像と音だから、どんな形にしろ嫌悪を感じると手が留まるが嫌悪こそ全てなのかもしれない。
嫌悪感から見える自分自身。
嫌悪は沈黙と静寂の核だ。
理由などはどうでもいいのだ。
音や色彩や匂いがこの世界の現実。
ならば…。
「音楽」ではなく瞬間の「音」なのだ。
一つの音の発見。