ドキュメンタリーは状況のドラマだし、ドラマは役者のドキュメンタリーだと思う。
記録されたものは、現実であれドラマであれ、書かれた「本」と演出と編集の果に姿を見せる。
事実も真実も、曖昧な闇の中にある。
こう見たという闇。
こう思うという闇。
全ては、虚構の果に辿り着く地点にあると思うのだ。
翻案されないものがあれば。
そうではないだろうか、翻案され読み替えられないものがあれば僕たちはその前で
立ち尽くすこともできるのに。
事実といい真実といい、判断は当事者以外に委ねられる。
世の中は、絶えず見知らぬ他者によって裁かれる、とりとめもない裁判所のような
ものかもしれない。
金銭欲。名誉欲。支配欲。それらが果たされない時、他者へと向かう悪意は静謐で
激しいものではないか。
外部からは見えない感情の連鎖。
自分自身すらも欺くほど、人の心の奥深くに秘められたもの。
太古から変わらない人の心の無明。
時計の針はホボ同じように進むが、夫々の時間は違う流れをもっている、と思う。
時計の速さと、夫々の肉体が持つ速さには全く別なものがあるのだ、と思う。
昨日、駅前のロータリーで久しぶりにチンドン屋を見た。
ジンタでなくジャズを演じていた。
どこか違う国の言葉を話す一団が歩道いっぱいに闊歩している。
駅前広場の隅の方で、屋台の焼き鳥屋が出店していた。
焼き鳥屋は、人が通る側に背を向けて商っている。
歩道を駆けてきた子供が、ビタッと転んで大声で泣いた。
夫々の時間が通り過ぎる。
それぞれを繋ぐものは、その光景の中にいる其々の肉体か。
人が袖すり合うことで、あたかもそこが舞台の出来事のように見えいてく。
だが、しかし……
時間を揺るがせ。
時を裂け。
時に裂け目を。