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等価交換について

等価交換について

今の日本や世界を見て思うこと--
等価交換の原則に対する過度の信奉・信頼が
人と人の関係を損なっている。
人を攻撃的にしている。
人の攻撃性を正当化している。

ある側面において、たとえば 、
3 のものを払ってその見返りが 0 から 2、
という可能性あるいは現実を
(多かれ少なかれ)前向きに受け入れる
姿勢・文化(・あるいは制度的な仕組み)がなければ、
個人の(内面)生活や社会は安定しない。
そもそも成立しない。

- 価値の齟齬をすべて解消することは不可能
- 価値の比較は最終的にすべて恣意的

歴史的に、また現在においても、
社会はそのような姿勢をもつ人々を中心に、
そのような人々を指導者として、
形成されてきているはず。
そうではない指導者はおよそ排斥されてきているはず。

- 古代以来の宗教の役割
- 王・貴族・騎士・武士の起源
- 実在・虚構の各指導者像

公正・公明性--近年の流行語は「質的保証」--
など、およそ自明で明文化しやすい
等価交換的な大義とともに、
上記のような価値観の涵養(かんよう)・維持・存続を、
現在・将来の国家や世界のために考えるべき。
考えはじめるべき。

(考えるだけでいい。多くの人が
自然にそのように感じ、考え、生きるような状況が
自然にあらわれなければ、おそらく無意味・逆効果。)

いつまで経っても世界平和が実現しないのは、
上記価値観(・制度)を
国家間で共有することがきわめて困難だから。
国家内でもそれができなくなっておこるのが
内紛・内乱。

(参考 1)
「ゆずりあい」にあたる英語の言葉は、
厳密にいえば、存在しない。
Compromise にしても concede にしても、
日本語のもつ前向きな、「自分から」という含みがない。

これとたとえば次のようなことのあいだには
なんらかの関係があるはず。

- 20世紀初頭のヨーロッパにおけるジャポニズムの流行
- 現在における日本のアニメ・オタク文化の世界への
(特に geek, nerd などと呼ばれる人たちへの?)広まり

(参考 2)
以上のような思考は、等価交換的な有用性が希薄とされる
人文系の研究・思考においてのみ可能となるはず。
(一部の?)人文系研究者の抱く、
「自分たちは何よりも重要なことをしている」という
一見根拠のない自信の背景の一部として、このことがあるのでは。

しかし、そう主張しないのは、
説明しにくいから、
そもそも議論は不毛だから、
沈黙・滅びの美学から、
弱者の勝利というキリスト教的な逆説から、
その他いろいろ。

*****
カウリーやドライデンやポウプだったら、
こういうことは本当に詩で書いただろう。
というか、日本語の詩とはどんなもの?

「ゆずりあい」にいちばん近い英語の言葉は、
おそらく chivalry(騎士道精神)や gentility
(貴族の精神)。このようなことを階級的な
意識抜きでとらえられないのが、もともとの
(17世紀くらいまでの)イギリス社会。

日本の歴史は?

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