日々の寝言~Daily Nonsense~

光の時代

ロミオが比較的あっさりと「演じさせられる自分」を引き受けて
スケープゴートになるのに対して、
「光の時代」では、「自分を持たない少女」はな子によって
世界のほうが崩壊する。

この戯曲の魅力の一つは、世界史に対して一人で立ち向かう主人公
(最後には殺されるが)という構造であるが、この構造は、
ジャンヌダルク、ロリータ、そして山口百恵などによってに典型的に
象徴される「少女」のイメージの裏付けによって、説得力を強めている。

多くの文化において、なぜか、少女には、どこにも属さないもの
となることが許される瞬間がある。
そのときそれは、どこにも属さないが故にオールマイティであるが、
シンデレラ伝説が示すように、その時間は限られているのだ。

この瞬間こそは「光の時代」である
(後に、この無所属性は、女子大生とオカマによって
マスメディア上で典型的に体現されることに
なったが、これによって彼らは自らを大衆化、商品化し、
それとともに最大の武器であった無所属性を失った。
一方、後でも述べるように、
この無所属性自体の人工的な商品化が、アイドルである。)

「光の時代」のもう一つの魅力は、「死の舞踏」のイメージである。
この素材は、基本的には、「人間は死をも演じることができる」ということの
一つの象徴として使われているのであるが、「舞踏」という
モチーフの潜在的な強力さによってこの劇全体の一つの基調と
なっている。陰をつくらない人工的な真昼の光の中で、
人々が死を踊り続けるという、退廃と活力とが
奇妙に混じりあったイメージは、世紀末的風景として
十分にありきたりではあるとしても、
やはり強烈であり、以後の作品の中でもしばしば現れる。

はじめに示した二つの世界認識を両極とする座標軸の上で、
いつしか人は一定の位置に収まってゆく。

いつのまにかそうなっていることもあるし、
意識して、ある位置を掴み取ることもあるであろうが、
その過程は、自分を知り、そして、世界を
(少なくとも自分に関係する範囲の世界を)知る過程でもある。

そうした意味では、両極端の世界認識は、そこに到る過程の
1ステップとして不可欠な防御的過剰反応の一種であるとも言える。
そして、この忘れてしまいがちな両極端を明確に
形に残しているという点において、この二つ戯曲
「ロミオとフリージアのある食卓」と「光の時代」
は私にとって永遠の価値を持つ。
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