クタビレ爺イの廿世紀裏話

人生の大半を廿世紀に生きた爺イの
見聞禄の抜粋

潜水艦「伊52号」に殉じた民間エリート達

2005-08-03 14:24:31 | Weblog
平成十七年二月、作家・福井晴敏が「終戦のローレライ」を発表した。終戦間際の潜水艦「伊507号」の奮闘物語である。勿論、実際には三桁番号の戦利潜水艦は「伊506号」まで
しかなかったから、当然小説の世界ではあるが、第二次大戦中の潜水艦活躍の史実は枚挙に暇はない。本文もその中の慟哭史実の一つである。
        消えた『潜水艦伊52号』
                 第二次大戦・暗号戦争

戦後も、50年を経ると、各国で機密文書の公開が始まっている。それによって数々の謎が解き明されているが、日本ではどちらかと言うと戦時中のことには、蓋をしてしまいがちであり、さしたる論議を起こさない。表記の話題も、巻き込まれた7人の民間人の関係者にとっては、悲しい事件ではあるが、暗号解読の歴然たる差で敗れたと言っても良い日本に現在の情報社会をいかに生きるべきか?と言う問題も提起していると思う。

[1]半世紀前のコンピューター戦争
戦時中には、日本では外務省、陸軍、海軍が独自に暗号体系を開発していた。しかし、外交暗号だけでは無く、海軍暗号もかなり解読されていたことが、開戦から僅か半年後の、ミッドウェイ海戦の大敗北に繋り、山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機が、待ち伏せ攻撃で撃墜されると言う悲劇を招いている。連合軍側は『無限乱数式暗号』を活用した日本陸軍の高度な暗号には、手を焼いたが、これも大戦の後半には相当数が解読されていた。米英との情報解析・処理能力の格差に気付いた陸軍は、土壇場でトップクラスの数学者を集めて挽回を計る。
米軍機の本土爆撃が激化していた1944年の 11 月、第一生命・日本生命の両社に陸軍参謀本部から『統計機使用に関する件照会』と言う奇妙な文書が届く。それは、陸軍数学研究会からの両社所有のIBM製ホレリス式統計機に対する召集令状であった。これは、暗号戦争で劣勢を痛感した陸軍中央特殊情報部が打ち出した起死回生の策であった。暗号解読に必要な記号、数字の頻度や反復の調査、分類整理、乱数表の出発点の割り出しに、統計機が必要であったからである。この数学研究会とは隠れ蓑であり、本当の名前は『暗号学理研究会』である。この研究会は、陸軍暗号の画期的向上を計ると共に、敵国の暗号解読法を発見すると言う特務を帯びていた。実際、1944年 4月の発会式には、東条英機が『新暗号方式を創造することは戦時下で緊急である。……』と訓示している。
メンバーとして参加した人たちは、当時でも世界に誇り得る日本最高の数学者達であり、後に数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞を獲得する小平邦彦もその一人であった。爆撃を避けて、上諏訪で行われた研究会には、東大、文理大から優秀な数学専攻の学生も参加している。この時期は、誰もが祖国の壊滅を防ごうとして必死だったのだ。彼等は、1944年 8月に米軍の機械暗号解読に成功している。彼等が米軍暗号機と同じと見たスェーデン製の暗号機を使っているうちに、解読法を発見したもので、これを元にして数台の模造機が作られている。しかし残念なながら既に戦争は末期に差し掛かっていた。
こうした暗号戦争での日本側の悪戦苦闘に対して、連合国側の暗号に対する対応は、遥かに進んでいた。米国陸海軍諜報部は、とっくに大量の統計機、計算機を暗号解析・解読に投入して着々と成果を上げている。
日本は外交暗号機『九七式欧文印字機』を1937年以降使用していたが、米国陸軍通信部の暗号の天才と言われたウィリアム・フリードマンが、解読に成功し、『パープル』と呼ば
れた精巧な模造機を作り上げている。こうして解読された日本外交暗号が『マジック』と言われるものである。当時は既に欧州で戦火が拡大し、太平洋での日米戦争は必至と見られていた時期である。
1941年の初め、情報戦で緊密な関係にあった英米は連携し、ルーズベルトが『パープル』二台を、ロンドン北方70㌔ロのブレッチリーにあった『英国政府通信本部ブレッチリー・パーク』に供与した。ここは世界最大の暗号通信傍受解読センターであり、大戦末期には一万人が従事していた。こんな大掛かりな組織の存在を、日本・独・伊の枢軸側は全く知らなかったと言う。ここは現在、記念館になっているが、数々の展示品の中で目立つのは英国が世界初の電子計算機と自慢する『コロッサス』である。
この第一号機は、1943年 10 月に真空管 1.500本で作られ、二号機以降は 2.500本の真空管を使い十台が作られフル稼働した。『コロッサス』はドイツが絶対に解読できないと豪語していた『エニグマ暗号機』、そしてそれより遥かに複雑な『ロレンツ暗号機』が繰り出してくる暗号電報を片っ端から解読するのに大いに威力を発揮した。
ブレッチリー・パークに設置されたパープルと、日本語解読班は大戦中に大いに活躍している。その中でも、ヒットラーやリッベントロップの信頼の厚かった、当時の駐独大使・『大島浩』のベルリン発の暗号電報は、米国とブレッチリーで最重要視されて解読されていた。大島の暗号電は極めて確度が高いと評価されており、事実、大島はドイツのソ連侵攻を予言し、インド洋に送られたUボートの詳細を伝え、ロンドンへのVロケット攻撃も予告していた。大島の最大の情報は、1943年のノルマンディー上陸作戦の前に、上陸が想定されるフランス沿岸部のドイツ側防衛状況の外務省への報告であり、これが連合国側に解読され、後に連合国側から『いかなるスパイの情報より有効な物』と言われた。ある専門家は、大島のこの情報が、ドイツの崩壊を二年早めたと評しているくらいの皮肉さである。その大島はA級戦犯として服役後、1975年にひっそりと他界しているが、情報公開のなかったときでもあるので、最後まで自分の暗号電報が解読されていたことを知らなかったのである。
こうした情報戦での戦力差があった事は、日本側の情報感度、情報文化力が弱かったからであると言われている。日本人の『個』の弱さ、情に流され易いことも原因のひとつであろう。それに抽象的概念を形成する能力にも欠けていたし、昭和になってからの軍人の傲慢が、情報分析に必要な謙虚さを妨げたのである。                 こうした情報戦の劣勢を象徴する事件が『潜水艦伊52号』の悲劇であると言う思いがする。

[2]消えた潜水艦『伊52号』
日本から見て地球の裏側、大西洋の真ん中で米国の冒険家たちが、金塊を探している。海底に沈んでいる日本の潜水艦を捜し当て、その積み荷の中から時価にして三十億円の金塊を引き揚げようとしているのである。その潜水艦が沈んでいるのは、深さ 5.000㍍の海の底である。財宝捜しもこれほどの深さの海では前例がない。音響探知機のケーブルが海底に届くまでに三時間も掛かるのである。
この潜水艦には126 名の日本人が乗り組んでいた。諦め切っていた日本側の遺族にとっても、思いがけない調査の始まりであった。音響探知機の画像に、沈没艦の姿が浮かび上がった。それが半世紀の間、大西洋の深海に眠り続ける日本の最大潜水艦『伊52号』であるが、この『伊52号』には写真の記録がない。同型艦の『伊53号』から推定すると、この52号は、長さ 108㍍、水中排水量 2.644トンで、当時の世界最大のものである。
この引き揚げは、彼等が七年前に米国の軍事機密を手に入れたのが切っ掛けである。公開されたその機密文書は、52号の沈没地点の海域を正確に特定していたのである。
この52号は、日本軍の機密任務に当たっていた潜水艦である。1944年の春、126 人の乗員と共に行き先を伏せたまま、日本を離れ、行方不明とされていた。
52号の発見は日本でも報道され、乗組員の遺族たちに衝撃を与えた。秘密の航海と言う性格から半世紀以上も閉ざされてきた夫や父の最後に手がかりが生まれてきたのである。長い間、夫の死に割り切れない思いを抱いてきた蒲生温子さんもその一人である。 彼女の夫の『蒲生郷信』は、東大卒業後、三菱重工に勤めていたディーゼル・エンジンの第一人者であり、軍の嘱託として潜水艦に乗り組んでいた。当時 32 歳であった。彼の実家には出発の翌年に戦死公報が届いているが、その公報には、任務が重大な国家機密に属するため口外することを禁ずると書き添えられていたし、両陛下の名前で見舞い金が届けられている。
民間人の蒲生氏が何故潜水艦と共に深海に沈んだのか?何故この潜水艦に金塊が積まれていたのか?当時は52号の軌跡は一切が謎であった。                1944年 3月 10 日、建造間もない52号は、広島県の海軍基地『呉』から出港している。この時、密かに2㌧の金塊が積まれているのである。この艦の目的地は、同盟国のドイツであり、辿り着くまで 30.000 ㌔の深海を行く過酷な任務である。豊後水道から太平洋を南下して 3月 22 日、当時日本の占領下にあったシンガポールに到着する。52号はここで一か月も滞在して大量の物資を積み込んでいる。それは東南アジアで産出する生ゴムやタングステン等の天然資源である。蒲生郷信氏は、このシンガポールから乗船している。1944年 4月 23 日、52号はシンガポールを出港している。当時日本とドイツを陸路で結んでいたシベリア鉄道は、独ソ戦の勃発で使えなくなっていたし、海上輸送は連合軍の制海権域を通るため、隠密行動の取れる潜水艦だけが同盟国ドイツと繋がる唯一の手段であった。52号の予定航路は、インド洋を横断してアフリカの希望峰を回り、大西洋を北上して、ドイツの潜水艦基地ロリアンを目指していたのである。このロリアンは、ノルマンディーから南に 250㌔の元フランスの海軍基地である。
52号の 126人の乗員の中には、蒲生氏を含めて 7人の民間人が乗っていた。彼等は大手軍需企業から選ばれた日本を代表する一流の技術者たちである。彼等の任務はドイツの新兵器を持ち帰ることであった。
富士電機・岡田誠一氏は電気兵器の開発で多くの特許を持つ発明家、富士通信機・長尾政実氏は最新のレーダー技術に取り組んでいた研究者、東京計器・荻野市太郎氏は砲弾の命中精度を高めるジャイロ技術の専門家で研究所長、日本光学・水野一郎氏は飛行機を撃墜する対空射撃用の機械式計算機の開発者、愛知時計電機・請井保治氏は戦艦大和の主砲も
手掛けた歯車技術の権威であった。そして三菱重工からはヂィーゼル・エンジンのエキスパート藁谷武氏と蒲生郷信氏の二人が派遣されている。
52号が持ち帰ろうとしていたドイツの新兵器の数々、『高速魚雷艇エンジン MB-501 』『ロケット戦闘機 ME103』『潜水艦レーダー』『ジェットエンジン BMW003 』等である。日本は太平洋戦争前に欧米技術を導入し、欧米と同じ水準に達していたと過信していた。しかし、いざ戦争に突入すると技術力の格差を思い知らされることになる。1946年のミッドウェイ海戦、ガナルカナル島攻防で、米国が次々と送り込んできた高性能エンジンやレーダーが日本を追詰めて行く。日本の艦隊を苦しめた米国の高速魚雷艇は海上で時速 70 ㌔の猛スピードで行動した。強力な馬力とエンジンの小形化に成功して実戦に持ち出して来たのである。
蒲生氏は、ドイツのダイムラー・ベンツ社に行くことになっていた。ここでは米国の高速エンジンを上回る高性能のものが製作されていたのである。ベンツ社はガソリン・エンジンを搭載した四輪車を発明した名門企業である。そのとき、工場の一角には蒲生氏がその製造の秘密を学び取ろうとた『高速魚雷艇エンジン』が置いてあった。日本はこのエンジンを量産することで米国に対抗しようとしていたのである。
蒲生氏は、開戦直後に『内燃機関』と言うエンジン専門誌に独自の論文を発表している。それは『多量生産研究』であり、それまで手作り一品料理が主流で、大量生産システムの無い日本の技術に対する警鐘である。彼は国産技術が欧米に依存し切っていることを指摘し、日本の技術の先行きを心配したのである。                   『機械工業界は一大転換期に直面した。米国は敵国となり、友邦ドイツは連絡を絶ち、我が機械工業は全く孤立無援、この難局に自力で対応せざるを得ない。これまでは外国に頼り、末端の拡充に目を奪われて根本の手当てが遅れて終った現状は、万人が承知の通りである。一日でも早く模倣時代を脱して行かなくてはならない』とは、この論文の一節である。

シンガポールを出港した52号はインド洋に乗り出す。この海域には日本の制海・制空権は及んでいない。インドに基地を持つイギリス海軍が、度々日本の艦船を襲っていた海域である。その為、空気の入れ替えのために深夜浮上する時以外は、出来るだけ潜航を続けた。日本を出発して二か月、52号はアフリカ南端の海域に差し掛かった。ここでは希望峰にある英国空軍基地からの攻撃を警戒して、海流の激しい南極よりの航路を選ぶ。
ドイツへの潜水艦作戦は、五回に亘って実施されている。最初は1942年の『伊30号』であり、その時の記録フィルムがドイツで残されている。この30号は、日本製魚雷の設計図や小形製作機をドイツに譲り渡し、ドイツからは台風レーダーや機関銃などを受けとっている。しかし、帰国の途中、シンガポールで英国の機雷に触れて沈没してしまう。翌年に派遣された『伊34号』はシンガポール出発後にマレーシア沖合で撃沈されている。 『伊29号』は無事にドイツに到着してロケット戦闘機やジェット機の設計図を持ち帰る予定であったが、帰国を目前にした1944年にフィリピン沖で米国艦船に撃沈される。
『伊8号』は往復 60.000 ㌔の航海の末、1943年 12 月に、唯一帰国に成功している。
帰国に成功した伊8号の艦長は96歳で未だ健在であるが、52号の艦長に隠密航海の体験を伝えたと言う。この時、ドイツ側に贈られたのは、酸素魚雷や水上偵察機の図面などである。この艦が日本に持ち帰った積み荷のリストによると、最新レーダー等 56 種類の物が記載されている。その中でも重要な物は、ベンツ社の高速魚雷艇エンジン MB- 501 である。このエンジンの製造方法を学ぼうとして、蒲生氏がドイツに向かうことになるのである。
1943年 12 月 21 日、伊8号が呉港に持ち帰った積み荷の中から、海軍は MB- 501 に特別な関心を示した。このドイツの最新魚雷艇エンジンは、三菱重工業の東京・大田区の丸子工場に運ばれる。工場の技術者逹はこれと同じエンジンを製造するために、部品の工作程度を調べ、夜を徹して研究する。これを担当したのが蒲生氏とその同僚たちである。 彼等は、エンジンの調査が進むに連れて、日本の技術では真似の出来ない高度な技術力に驚かされていく。蒲生氏と一緒に MB- 501 と格闘した同僚の荒城義郎氏(80歳)は、当時の日本の技術ではドイツ・エンジンの模倣すら出来なかったと述懐する。このエンジンは、 25 もあるピストンの動きを精密に組み合わせ、スクリューを1秒間に 27 回転させる物であった。シリンダーには高度な溶接技術が必要であった。それに1万分の1㍉の精度を要求されるクランクシャフトの製造も困難であった。鍛造技術、鋳造技術、寸分の狂いのないネジ切りの技など、物作りの基本が日本では育っていなかったのである。
潜水艦が危険を冒して持ち帰ったエンジンの実物を前にしても、同じ物が作れないと言う現実を前に、蒲生氏がその技術を根本から修得するためにドイツに向かったのである。

米国の冒険家たちが、伊52号の沈没場所を『北緯15度16分・西経39度55分』と特定しているのは、彼等の手に入れた公開された米軍の機密文書からである。この伊52号に関する機密文書は、実に2.000 ㌻に亘る膨大な量の物である。驚いた事にこの記録には出発してからの詳細な足取りやその積み荷の詳細、撃沈地点までが正確に記録されている。これは潜水艦の極秘作戦に米国が大きな関心を示し、伊52号の動きを追い続けていたのである。勿論、金塊が搭載されていることも記載されているが、この事が米軍に知られているのは、東京からベルリンへの無線連絡が傍受されたからである。『金の延べ棒 146本が49個の箱に収められている』とまで記載されていし、更に錫、モリブデン、タングステンが合わせて228屯、この他にも生ゴム等、ドイツが要求した天然資源が満載されていると、記されている。
当時の米国は、日本とドイツの無線連絡を傍受した上、その暗号の解読に成功していたのである。日本からの潜水艦、ドイツ本国への連絡は短波で交されていた。米軍は傍受した通信をハワイの基地で解読していたのである。この記録には、ドイツに向かった7人の民間人の氏名、経歴、専門分野までが、詳しく書かれている。これらは、東京の海軍軍務局からベルリンの駐在武官に宛てた電文が傍受解読されていた事の証明である。この時の駐在武官のなかに、既述の大島氏がいた。
この記録は蒲生氏の遺族にも見せられた。蒲生温子さんは、家族にも極秘で行った夫のドイツ行きが、敵国にこれほどまで筒抜けであったことに驚きと無念さを隠し得なかった。
1944年 5月 20 日頃、伊52号は希望峰を越えて大西洋にはいる。その大西洋では、連合軍とドイツ潜水艦Uボートが激戦を繰り広げていた。この年、ドイツの潜水艦は連合軍によって年間242隻が撃沈されている。危険水域に入った伊52号を守るため、ベルリンの駐在武官から日本の海軍大臣に電文が打たれる。『ドイツ海軍から提案があり、作戦成功のため、日本の潜水艦は無事ドイツに到着し任務を完了したと言う贋情報を発表してはどうか?』と言うものであり、位置確認を混乱させようとしたのである。しかし、連合国側はこの通信も傍受し、計略の全てを掴んだ。
当時の駐在武官は、40名もおり、その主な任務はドイツの最新兵器を速やかに探り当て日本に伝達し、太平洋戦線に送り出す事であった。勿論ドイツも、いかに同盟国とは言え無条件には技術の譲り渡しはしなかった。駐在武官たちとドイツ側との厳しい交渉が繰り返されたのである。彼等は工場見学を重ね、目を付けた兵器の獲得を計るのである。特に高い技術の集積するエンジンに付いては、交換条件を巡ってなかなか折り合いは付かなかった。丁度この頃、ドイツでは世界初のロケットエンジン搭載の戦闘機 ME-163 が実戦に投入され始めていた。魚雷艇エンジンに加えて、ロケットエンジンまで求める日本側にドイツは、厳しい条件を突き付けてくる。それはドイツで枯渇していた天然資源と巨額の対価であった。当時の武官補で交渉の当事者であった藤村義一少佐が交渉の困難さを証言として残している。それによると新兵器導入の代価として浮上したのが金塊2屯であった。米軍の記録では、1944年 6月 4日、伊52号は大西洋の赤道を越えて北半球に入り、敵の哨戒網を躱して目指すロリアン港を目指している。フランスの軍港ロリアンは当時ドイツの占領下に置かれ、ドイツの潜水艦基地になっていたのである。ここの潜水艦ドックは、厚さ7㍍のコンクリートに覆われ、度重なる連合軍の空爆にも耐えていた。      伊52号の到着予定を一か月後に控えたこの年の 6月 6日、連合軍はドイツ占領下のフランスに総攻撃を掛けている。それは戦史に残る『ノルマンディー上陸作戦』である。ロリアンの北東250㌔の海岸に連合軍が28万人の兵力を上陸させたのである。連合国の進撃はロリアンにも向かい、潜水艦基地ロリアンは全く孤立してしまう。
伊52号に連合軍のノルマンディー上陸の情報が届いたのは、二日後の 6月 8日である。翌日ベルリンから、伊52号に新たな指令が入る。『6月22日・21時15分、北緯 15度、西経40度の海域でドイツ潜水艦と合流せよ』と言うものであった。
目的はドイツ潜水艦からレーダー逆探知装置を受けとり、この装置を伊52号に装備して敵の接近を事前に知ろうとしたのである。伊52号は指令に基づき現場に向かう。しかし連合軍もこの暗号通信を解読して米国航空母艦ボーグを派遣する。連合軍の読みでは、日・独の潜水艦は装置の受け渡しのため確実に海上に姿を現す筈であるからこの機会にボーグからの攻撃をすると言うものであった。
米国の記録を見ると伊52号の16日からの足取りは細かく海図上にプロットされ、追跡されている。この合流点に向かってボーグは、スペイン沖の海上を一気に南下してきている。6月22日、日本側は予定どうり合流地点に到着したが、ドイツの潜水艦は見つからなかった。攻撃を警戒して浮上しないのか?到着が遅れているのか?分からぬままに、伊52号は現場で待ち続けた。 
漸くドイツ潜水艦U530と合流に成功したのは、23日午後八時二十分である。早速受け渡しが始まり装置の取り付け作業が始まるはずであった。任務を終えたU530はこの現場を離れる。この時のU530の乗組員であったラインハルト・カースティン氏の証言では『日本の潜水艦の司令官が我々に丁重に別れの挨拶をした。その後、日本側は自分たちの進路へ進み、ドイツU530も予定どうり潜航した。暫くして戦闘の音が聞こえた。狙われたのは日本の潜水艦のようだった』となっている。
米国の記録に因ると、23日午後11時50分にボーグからアベンジャー雷撃機が出撃して第一撃を加えるが、日本側はこの攻撃に耐え抜く。第二波の攻撃で伊52号を撃沈したアベンジャー雷撃機の機長ウィリアム・ゴードン氏の証言では『私は24日午前一時、現場の海域に到着し、対潜爆弾の投下を決断した。私は45㍍の上空からこの爆弾を投下した。この対潜爆弾の投下は米国が開発した最新式の電子兵器による攻撃であり、音響探知機(ソノブイ)とる連携である。ソノブイを海に投下して潜航中の潜水艦のスクリュー音を探知し、スクリュー音は無線で攻撃機に伝えられる仕組みである。四方からの探知で潜水艦の位置を割り出し捕らえた目標に向かって対潜爆弾を投下するのである』とある。 この時の伊52号のスクリュー音の録音テープ迄もが、新兵器の成功例として米国側に保存されており、米国戦闘員の会話も、潜水艦の最後と推定される二度の大きな爆発音も残っている。こうして米軍の海図には撃沈地点が正確に記録されたのである。6月24日の夜明け、波静かな海面に潜水艦から流れだした油が広り、米軍によって、浮上した積み荷の一部と思われる生ゴム等が回収された。
欧米との技術格差を埋めるためにドイツに向かった126名、日本のレベルを自覚する蒲生氏にとっては、既に遅すぎた任務であった。ドイツ潜水艦から受けとった最新兵器も間に合わず、暗号の解読と米国の電子兵器にとらえられたのである。これらのドイツへの隠密作戦はこの伊52号を最後にして打ち切られている。皮肉にも、米国の冒険家たちの金塊を求める行動が、謎とされていた伊52号の足取りに光を当てたのである。
32歳の蒲生氏は、出発に際して家族に遺書めいたものを書き残している。その中では、子供たちに向かって父を越えて、強く賢い人間になれ、と言う願いも込められている。
日本の遺族たちが、日本から遥か14.000㌔の彼方と言う潜水艦と共に消えた肉親の所在を知る迄に、半世紀の歳月が流れてしまった。                          

5 コメント

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Unknown (ゲンゴロ)
2005-11-14 02:00:10
いやぁ、わたしも悔しい!

何年か前NHKの番組で見ました。情報戦ではまったく話になってなかったのがよくわかります。
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感嘆! (澤 下 勲)
2006-09-03 15:05:54
7月に亡くなった吉村昭氏の(深海の使者)読み返しておりましたが、本当にこの時代の人達の忍耐力に深く頭が下がりますネ。

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ご冥福を・・・ (なお)
2007-08-08 21:58:08
私も10年前?のNHKで観ました。
悔しい。この時期になるとね。
ガダルカナル、インパール、硫黄島、沖縄そして・・・
日本は未だに、と言うかまた同じことをしてる。
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ご冥福をお祈りいたします。 ()
2010-07-12 12:12:51
本を読みました。何事も困難にぶつかる前に諦めていては道は開けない。と勇気をいただきました。ありがとうございます。
艦長以下乗組員や蒲生氏を初め一般招集された方々は、自分の運命はどうであれ、死ぬことを覚悟していても最期まで生きることを諦めない。当時国からの命令は断れない。家族のためであれば、皆さんドイツへ向かうしか選択肢がなかったと思います。しかし、あれほど克明な暗号解読情報があっても金塊2tよりも最新兵器の標的とすることがアメリカは精神戦略上有利であると判断したのでしょうか?しかし、アメリカは超大国ですね。
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Unknown (アッキードF19で小沢一郎を撃退希望)
2019-07-11 06:49:27
https://blog.goo.ne.jp/adoi/e/24a688657c8774f650a8ee0d48d4f8d3
日航ジャンボ123便ソ連自衛隊核攻撃惨事における たくさんのJAL123便の元気な生存者及び、ご搭乗の昭和天皇が、日本の埼玉県警察の警察官らの襲撃(日本語で おまわりさん?らの手により)により
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/e0011938_16494167[1].jpg
といった惨憺たる虐殺死体と化した

一方、救助に奔走したのは米国のみであった


なお、米国機関で改めて調査を行ったところ、生存者の一部は、伊豆の達磨山の地下にヘリで連れていかれ、少なくとも十数年は生存していたことが新たに判明した。
また、藤岡公民館の日航機石碑は、米軍で救助に入って日本の埼玉県警らに殺害された米兵50名の墓となっていることが新たに判明した
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