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韓国文化の紹介。

戦後75年の記憶、(過去ログ)、竹槍と風船爆弾。

2020-07-30 12:00:00 | 学問

もう直ぐ、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

 

昭和20年に入ると、戦況はますます厳しいものになって行った。
国民の戦う意欲はまだ有ったものの、肝心の、物資がなくなっていた。
大本営は、あらゆるもので対抗することを考えたのだろう、国民に竹槍で武装するよう呼びかけた。
国民に、竹を切って来させて、竹先をとがらせて訓練を始めた。
訓練されたのは、主に、女性である。
母達が、モンペ袴姿で、近所の空き地で、黄色い声を張り上げながら竹槍をふるっている姿をよく見かけた。
大本営は、こんな戦況下に置かれても、本土決戦と1億総玉砕を唱えていた。

小学高学年、高等小学校生も例外ではなかった。
男子は剣道、女子は薙刀が、体育の授業であった。
もし、本土決戦となったら、沖縄のひめゆり部隊の様に、駆り出されていたことであろう。

一方、大本営は、何とかして、アメリカ本土へ、打撃を与えよう考えていた。
当時の学者達が、知恵を絞ったのであろう。
上空を流れる偏西風を利用して、爆弾を付けた風船をアメリカまで飛ばそうとする作戦であった。
しかし、風船をつくるゴムが無かった。
仕方なしに、紙で風船を作ったのであった。
この紙風船が、アメリカ本土まで届いたかどうかは、いまだ知らない。
ずっとのちになって、週刊誌で読んだのだが、戦争末期に、アメリカ東海岸の山中で、不思議な山火事が有ったとかで、これが、風船爆弾の戦果ではなかったと、書かれていた。

↓の戦後70年の記憶 ⑤神風でも書いたが、つくづく、大本営は、カミ頼みが好きだったものである。

高校生になってから物理の授業で聞いた話で有るが、風船爆弾に味をしめた大本営は、学者たちに命じて、戦争に勝つための知恵を出させたとのことであった。
その先生の発明では無いが、有る学者が、小舟で、大砲を撃てる技術を発明して、大本営から表彰されたそうである。

その技術とは、こう言うものであったそうだ。

小舟から大砲を撃てば、その反動で船はひっくり返ってしまう。
それを防ぐためには、同時に、反対側へも、大砲をうてばいい、と、言うものであった。

物理学に詳しくない軍部の人間達は、大喜びしたのであろう。
しかし、物理の先生は、笑って言ったものである。
水平に撃つなら別だが、上空に撃つとしたら、正反対の海の中にも撃たなければならない。
しかし、軍部は、こう言ったそうだ。
海中ではなく、正反対の空に向かって撃つのだと。
しかし、これも、物理学を知らない者の言うことである。

力と言う物は、ベクトルである。
ベクトルを合わせないと、力はゼロにはならない。
この方法では、海中真下に向かうベクトルが残ってしまい、船は、海中に沈むことになる。
この程度の物理の原則は、高校生でさえ、理解できることで有った。


ウドちゃんの旅してごめん、三重県菰野町編

2020-07-29 12:00:00 | 学問

テレビ朝日の放映です。

三重県三重郡菰野町から、鈴鹿山脈の御在所岳への旅です。

 

最近できた、レジャー施設、アクアイグニスです。

昔は、片岡温泉でした。

上の方に、湯の山温泉がありますので、試しに掘ってみたら、本当に、温泉が湧き出てきました。

しばらくたれ流したり、竹の塀で囲って、無料の露天風呂にしていましたが、資本がはいって、片岡温泉と

して出来ました。

10年ほど前に、総合レジャー施設として、アクアイグニスが発足しました。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戦後75年の記憶、大本営発表

2020-07-28 12:00:00 | 学問

もう直ぐ、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

 

註:

大本営:戦時中、天皇直属の機関として設置された、日本陸海軍の最高統帥機関。

 

昭和19年後半に入ると、戦況は、ますます、不利になった。
南方の島が陥落したそうで、日本本土全域が、空爆の対象となった。
B29と言うこれ迄にない、大型の爆撃機が飛来するようになった。
本土の南の方から空爆が始まり、海軍の軍事基地、重要軍需工場地帯などが、連日のように空爆された。
そのうちに、大都市も攻撃対象となり、一般市民を巻き込んだ、無差別爆撃へと拡大されていった。

松本には、陸軍第50連隊は有ったが、目立った軍需工場も無く、アメリカも、本土決戦となるまでは、重要な攻撃地点とは、考えていなかったようだった。
上空を、B29が飛行機雲を引いて通過することはあっても、攻撃してくることはなかった。
今までにない、下っ腹に響くような、B29の爆音を聞いて、不気味に思ったもので有った。

こんな戦況にも関わらず、大本営は、毎日のように、どこどこの海戦で大勝利を収めたなどと発表して、ラジオや新聞がそれを、まことしやかに報道していた。
最初の頃は、それを真実だと思って、戦況は、好転するだろうと信じていた日本国民も、東京大空襲などで、日本の圧倒的不利を知ると、大本営は、また、あんなことを発表していると思うようになって行った。
近所の大人や、学校の先生でさえ、陰では、また、あんなことを言っていやがると、悪口を言っていたものだった。
最後には、生徒が嘘を言うことを、お前の言うことは、大本営発表だと揶揄するようになった。
日本が、降伏する前のことである。